それはたったひとつの冴えたやり方じゃない。その2「死はさだめ、さだめは愛」

ええと、再度坂東眞砂子氏の子猫殺害問題です。いや、より正確には進行中の子猫虐殺問題、といったほうがいいのかも知れない。氏のエッセイに示された「覚悟」からすると、今現在も生まれたたくさんの仔猫――猫は一度で五匹ぐらいは仔猫を生み、それも雌猫を三匹飼っているということなので、三匹が同時期に発情して妊娠したとすると、ワンシーズンに十数匹という計算になります――を、崖から投げ捨てているはずですから。恐怖と動揺に打ち震えつつも、「母猫の生の実感」のために。
 いやまったく、ある意味敬意を表したくなる覚悟と信念の強さです。崖下の風景は想像したくもないですね。おそらく坂東氏は「生の豊穣と日常にある死」の対比を実感するために確認に行っていることと思います。いや、いっていないと駄目ですよね。
もし、氏の覚悟がさらに深かったのなら、その手で直接命を奪っていたことでしょう。生ゴミの不法投棄よろしく、その結果がすぐに確認できない崖下に放り投げるのは、あれほど強い決意をもった方にも、心理的な限界があることを示していて、ある意味興味深い事例といえます。

 さて、既に書いたような内容をなぜまた蒸し返すかというと、週刊現代での坂東氏自身の「反論」に続き、週刊文春において東野圭吾氏が特別寄稿として、坂東氏を擁護する見解を発表したからです。
詳しくは該当誌をあたっていただくとして、さすがに第三者であるだけに、ともすると被害者意識に飲み込まれがちな坂東氏自身の反論よりよっぽど、坂東氏の行為の擁護としては明確で論理的に構築されているのですが、それでもそもそもの坂東氏の行動と理論に無理があります、

 その東野氏の見解を大雑把にまとめると、「坂東氏の行為は、倫理的な問題ではなく、社会的責任の問題として読み解くべきである」というもので、すなわち、倫理的には明らかに問題視される仔猫の殺害は、社会的責任という観点で言えば「猫を必要以上に増やさない」という意味において避妊手術と同等であり、避妊手術が容認されている以上、子猫の殺害もまた容認されるべきである、ということになります。

 ではその社会的責任とはなんでしょう。

 坂東氏によればそれは「人間の生活環境を害する」野良猫を放置してはいけないというものだということなのですが、氏の場合にこれを当てはめてみると、生まれた子供をその場で殺すことは、野良化することを完璧に防ぐわけなので、確かに社会的責任を果たしているといえるでしょう。

 もっとも、初めから生ませなければ、そういう社会的責任を負う必要もないのですが、そこは「坂東氏の信念」です。なんとしてでも飼い猫の交尾と妊娠は守らないとならないのです。そして一匹たりとも余剰の猫を育てるつもりなどはないのです。
 傍から見るとなにか優先順位間違ってるんじゃないかなと思える理屈ですが、坂東氏にすれば、年十数匹の仔猫から生の充実はおろか生そのものを奪うことよりも、三匹の親猫の出産規制をすることのほうが、より恐怖と動揺が大きいようなので、本人的には正しい順序なのでしょう。

 かくして多数の仔猫の屍とともに「社会的責任」は果たされた――ということになります。両氏の主張の上では。
 しかし、「人間の生活環境を害さない」とは、野良猫を出さないことだけで終わりでしょうか? 放置された猫の死体はどうなるのでしょう。タヒチには野生動物の死体がごろごろ転がっているらしいので、問題ないということですが、産業廃棄物の不法投棄地帯にも同じことが言えそうな論理で、説得力に欠けますし、仔猫たちは「野生」ではどう考えてもありえないので、自然現象と見ることも無理です。定期的にペットの生んだ仔猫を投棄する人間というも一種の自然現象であるかもしれませんけども。

 死体だけの問題ではありません。坂東氏の三匹の雌猫たちの問題があります。生の充実を与えられた(あくまで坂東氏的な価値観によってですが)三匹の猫たち、彼女らはどうやって暮らしているかというと、放し飼いなのです。
 考えてみてください。放し飼いの猫たちは人間の生活環境に害しないのでしょうか? 坂東家の三匹の雌猫はちゃんと坂東家の敷地内でのみトイレをし、虫を取り、発情期には近所には聞こえないような声でしか鳴かず、それ以外ではいっさい悪戯などはしないように躾けられているのでしょうか? 避妊すらしない「生の充実」が正しいという信念の坂東氏がそういう「非自然的な」躾けを猫に行なっているとは到底思えません。この場合たまたま三匹とも雌だったからよかったようなものの、雄猫だとすると、あたり構わず種付けをして回って、野良猫を増やす元凶になるわけですが、社会的責任の名において、坂東氏に飼い猫の去勢ができるかというと非常に疑問です。
 それでなくても放し飼いというのは非常に飼主が責任をとりにくい飼い方なのは、考えなくてもわかることです。自宅から遠く離れた散歩先で猫がした粗相を飼主はいちいち突き止めて清掃するでしょうか? 
 ぶっちゃけ、放し飼いの猫と野良猫とを隔てる垣根は限りなく低いのです。東野氏の言うところの「害獣化」を防ぐには「室内飼い」かそれに準じた、猫が外に出られない敷地内で飼う以外ないのです。

つまり坂東氏は自身の規定した社会的責任すら達成しているわけではないのです。
坂東氏のいう社会的責任を果たすとは、せいぜい、仔猫を生かさないことだけなのです。。
言い方を変えると、母猫の倫理的に――坂東氏の信念的に――正しい生き方の犠牲として仔猫が社会的責任をとらされている、ということでもありますね。仔猫にとってはいい迷惑です。

理屈を省いてやっていることだけをみると、単に三匹の飼い猫に好き放題させて、それ以外の猫は猫とすら思っていないようにすら見えますね。
 

そもそも坂東氏の「信念」なるものが微妙なのです。前回ざっと述べたことをもうすこし丁寧にやってみましょう。

 坂東氏によれば、生命の実存とは種の存続にあるので「猫の生の充実」とはすなわち生殖行動にあるというわけなのですが、ご存知のように、猫には発情期というものがあり、一般に発情期のある動物は発情期以外には交尾しようとはしないとされていますから(これは人間においても同じですよね。人間は万年発情期の生き物だけど、始終性欲のみで生きているわけではありません)、坂東氏的には一年のうちでも一時期のみが「充実の期間」ということになります。 個人的には、発情期以外の猫の、寝たり食べたり散歩したりしている姿にはものすごく生の充実を感じるのですが(特に昼寝してる猫とかですね。発情期はむしろ苦しそうで見ていられません)、まあこれは主観の問題かもしれません。
 
 この発情期の充実というのは実体としてはなにか、というと、いうまでもなく交尾なわけですが、これは雄猫ならいざ知らず、雌猫に限っては交尾はひどく苦痛のともなう体験であるので(排卵を促すために雄猫のペニスが膣内を傷つけるそうです)、よほどその猫が苦痛を喜ぶ体質であると想定しない限り、交尾を人生の目的としているとするのは、かなり困難がともなうように思われます。妊娠にしても、体は重くなるし、体力は消耗するし、おおかた寿命も縮みます。これもあるいは猫によっては喜びであるかもしれませんが、そういうネコはわりとレアな猫ではないかという気がしますし、そもそも、生殖活動の目的である育児と種の存続がかなわない以上、単なる徒労でしかないように、見えます。

不思議なことに、この「育児」という行為の争奪については、坂東氏にしてみると別に恐怖も動揺も覚えないようです。積極的に省く根拠が示されているわけでもないですけど、そもそも触れてすらいないのです。東野氏でさえ、「彼女は、三匹の雌猫たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。」などとロマンチックな推測を書くしかないのですから。
ちなみにその推測の補強として東野氏がつづった、「ある程度育ててから奪って殺すのはより残酷」とか言う物言いのは意味不明もいいところです。純粋に母親の視点のみを尊重するなら、巣立ちの時期まで育てさせてから(すなわち「育児という生の充実」を味あわせてから)、「社会的責任」を持って仔猫たち――その頃には成猫でしょうが――を「処分」すればいいのですから。坂東氏の言う「社会的責任」と「生の充実」(ただし仔猫にはそれは認めない)を突き詰めたら、そこに行き着くこともおかしいことではありません。そして東野氏の論法で言うなら、「非難できない」ことでもあるのです。
まあ、推測で物をいってもしょうがありません。このあたりについては、坂東氏自身のコメントを待ちたいところです。

とりあえず現在のところわかっているのは、坂東氏のいう生の充実とは、苦痛を伴う交尾、「結果」の得られない妊娠と出産――この二点に尽きているいうことです。

 果たして、これのどのあたりに「生の充実」があるのか、非常にわかりにくいものがあります。否、はっきりいってまったく理解できません。一体、坂東氏の「正義」は那辺を見据えたものなのでしょう。信念とはかっこいい言葉ですが、一貫性や説得力がなければただの妄執であるように思えます。妄執が言い過ぎに聴こえるようならば、思い込みでもいいでしょう。どちらにせよ、それはどこまでも個人の価値観の発露であり、論理的根拠をもたないものでしかないように見えるのです。

そもそも、猫に生きがいという概念があるという発想に過剰な擬人化があってその時点ですでに首肯できないものがあるわけですが……。

かように坂東氏の「信念」は謎めいたものであり、坂東氏と東野氏の文章の根本的な問題点はおそらくことにあるのです。すなわち「信念」を絶対的根拠としたこと。
台が砂なら楼閣は簡単に崩れます。
そのことに、二人は思い至らなかったわけです。東野氏は猫に話し掛けたり、キリストの口真似をしたり「私は罪深い」などと言っている暇があったなら、「坂東眞砂子の猫たちが確保している『生』」とやらを無条件に前提化せず、その実体と理論的根拠をもっと考えるべきだったのです。坂東氏は猫を投げ殺す前にもっとも周りの人に自説を吹聴して、討議し、理論を詰めるべきだったのです。

なぜ親猫の生の充実を最大限に確保するのに、生まれた仔猫はゴミ同様の扱いをするのか? 
放し飼いという選択に社会的責任を果たせるものなのか?

このあたりを曖昧にしたままで、いくら日本社会の歪みや生命を所有する傲慢といっても、何の説得力もないのです。
 更なる発言の登場を希望します。

それはたったひとつの冴えたやり方じゃない

ええとまったくアニメとは関係のない話題です。

小説家の坂東眞砂子氏は、子宮摘出は自然じゃないし、親猫が望まないだろうと言う理由で、生まれた仔猫を崖から投げ落として処分していたようですが、仔猫を崖から投げ落とされて死ぬことをのぞんでいたのでしょうか?

今秋発売された雑誌ではなにやら、食肉産業まで引き合いに出して自己の行為を正当化しようと(あるいは、周りも同罪化)しようとなさっています(うろ覚えなのでこの読解が間違っていたらご教示ください)が、坂東氏にしてみると仔猫を大地にぶち捨てて殺すことは食肉並に人として自然な行為であったりするのでしょうか?

生まれてくる生命に責任を取れそうにないのなら、生まれないようにすればいいのです。それは手術といういささか強引な手段に依らなくて(もちろん手術を比定するものではありません)も、雄猫は雌猫に近寄らせない、雌猫は雄猫に近寄らせない、たったこれだけで出来るのです。そういう確実にして「ごく自然な」解決策も試みていない時点で、はっきり言って、氏の発言には何ひとつ正当性はありません。殺すという罪を引き受けることが責任のとり方、などというのは単なる自己陶酔でしかないのです。

せめて黙って一人で「自分の罪」と自ら規定するものに耐えるべきだったのです。誰にも知られず、話題にならなければ、見苦しい自己正当化の弁舌もいらず、いつまでも罪の意識と生きて行けたでしょうに。

『ピニュ』を読んでいたら、湊がとつぜん斉藤千和の声で喋りだした。

 なにやら植草甚一かP・K・ディックかというタイトルですが、実際そうだったのです。『ピニュ』とはこがわみさきの『陽だまりのピニュ』なる作品のことで、読んでいたのはそれの二巻目、「湊」というのはその実質主人公(詳しくは本館の記事を参照)なんですが、一巻目を読んでいたときも斉藤千和は知っていたのだけど、別にキャスティングされもしなかった。それが二巻目を読み始めたらいきなり、声がついたからあらびっくり。ちなみに声がついたのは「だってさ、その、今のうちに……」と、ちょっと口を尖らせながら言うあたりでした。
 その後も初登場の先生が子安武人の声で喋りだしたりして、脳内アニメ化状態(トーリは朴路美だった)。ちとにぎやかすぎます。
 アニメ化とは無縁だし、むしろ雰囲気が壊れそうだからアニメ化してほしくない一品であるのに、なぜこうなったのかさっぱりわかりませんが、勝改蔵の言うところの駄目絶対音感のひどい症例であることはまず間違いありません(勝手に当てはめられた声優さんたちには罪はないですが)。
 あるいは心のどこかでピニュがアニメ化されることを願っていたりするのでしょうか。
 にぎやかなのが苦手な人は、ご用心あれ。

その余波

宮崎吾朗監督版『ゲド戦記』について原作者ル=グ・ウィンの見解が公開され、すでに全文が訳されています。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

 そちらを読めばわかるとおり、アニメ化に至る経緯から筆を起こして、誰もが気になる作品評価まで丁寧に書かれており、特に作品評価については、とくに原作との兼ね合いという観点から的確かつ容赦なく批判を加えています。その評価は、ようするに宮崎版ゲドはテーマの選択からその解決に至るまでル=グウィンの作品とは実質無関係であり、かつ単体の作品としてみてもあまり出来はよろしくない、といったことで、たぶん、原作のファンで映画に幻滅した人たちのおおくが思うことと同じなのではないでしょうか。

 よく言ってくれた、と思うことではあります。

 が、ここでおさえておいておかないといけないのは、これを錦の御旗にしてゲドアニメを否定してはならない、というところでしょう。原作者が否定したことはそれが「原作のアニメ化」という点で失敗した可能性が高い(あくまで可能性の問題です)というだけのことであって、それで作品自体の価値が失せたかというとそうとまではいいきれないのです。映画は映画、小説は小説であって、映画は映画として単体で存在するべきもの。極端な話、原作を尊重する義務などはないとすらいえるのです(実際映画の名作とされるもので原作を尊重してない作品などいくらである)。

 作品の評価はあくまで宮崎吾朗作のアニメーション作品としての評価でないとならない。

 だから、それがたとえ原作者の発言であっても、最も原作をよく知る人物によるもの、というだけのものであって、それは「原作物としてはどうか」という観点以外では有効ではありません。
 実際、映画単体としての評価は――すべて正論ですが――凡庸すぎるぐらいです。

 むしろル=グウィン発言の中で興味深いのは、宮崎駿に外伝的作品の製作を持ちかけたのに流れた(これ見たかったなあ)とか、鈴木プロデューサーより犬のほうが行儀が良かったとか、この文章を作者に書かせるきっかけになったのは、プライベートな会話を宮崎吾朗氏が勝手にブログに書いてしまったことなのではないかといった、いってみればいくらでもまともなルートがあったはずなのにすべて無視して今のこの隘路に迷い込んでいるスタジオジブリの混乱と無思慮ぶりにこそ、あるような気がします。

 それにしても宮崎吾朗サイドの反応がとても気になるところではありますね。あれだけ原作崇拝を語っておいて、それを原作者に否定されたとき、それでも自作はちゃんとしている、あれこそが自分の読んだゲド戦記だ、と誇れるかどうか。
 そこまで言えれば、すこしは評価してもいいかという気がするんですが

C70 あるいは、時間との踊りかた。

 いつからか僕はここにいた
 とどまりの中で眠りつづけ
  人は僕のわきを通りすぎた
  風も僕のわきを通りすぎた

 夢? 絶望? それとも希望?

などというのはあまり関係ないですが、言ってきました。三日目のみ。

 コミケでなにが面倒って言ったら人間が多すぎて邪魔というのは当然として、第二位の困難として時間をどう無駄遣いするかという点があげられますが、個人的にはここ数回はリベンジキューブを持っていくことでかなり有効かつ有意義に時間を浪費することに成功しておりました。が、今回はたった一日のみの参加という油断か、キューブを自宅に置き去りにするという痛恨のミス、早い話が持って行き忘れたわけです。
 しょうがないから、読みさしの『ほとんど無害』を読んでしまって、あとはもうひたすらiPod。最初はデルジベットのアルバムだけかけていたのですが、次にどれを聴くかの選択が面倒になってきてあとは機械任せ。そうするとこれがけっこう偏るんですな。ランダムのはずなのに(いやむしろそれだからこそ?)、やたらとジェフミルズばかりがかかったりして、iPodさんがすきなんでしょうかね、とか思う。そろそろ動き出すかなと思っていたらマイルスデイヴィスの69年のフィルモアライブ「It’s about that time」が流れ出したりして、進軍の合図みたいだったり(といっても周りには聞こえてないわけだけど)。
 待機列中ではなかったけれど直射日光がさすなか、やたらと進行の遅いサークルに並んでいたら、怪しい詠唱とリズムが絡み合うアフリカの戦士の民俗音楽が鳴り渡るあたりになると、もう狙っているとしか思えません。

 そんなこんなでとどまりの中でうとうとしたりもしながらも、待機時間を乗り切り、いくつかの目当てのサークルを見てとっとと帰ってきたわけですが、しかしハルヒが多かったですね。ちょっと前のフェイトなみに多い。まあ皆で楽しく盛り上がれるものがあるのはいいことです。ええ。

 そういえば、コスプレ系は個人的にはかなりどうでもいい世界なのですが企業ブースを冷やかすついでにちょっと見たところ、ドロロくんやきん肉マンの着ぐるみの人がみているだけで暑そうだったのと、二人組みの「V」がそのまま(っていうかあの仮面は映画の関係商品でしょうか?)だったのが、印象的でありました。

 それにしても、あの炎天下で帽子も被らずに太陽光線と頭髪を直接対決させている勇敢な人が多いのには、毎年感心させられます。
 「恐れなければ、死にはしない」って感じなのかな?

[ナツ100]

酔拳の王 だんげの方」というサイトで

ナツ100参加者募集
http://d.hatena.ne.jp/dangerous1192/20060731/p1
なるものを募っておりました。
条件は――


マンガ選考基準
・連載が終了しているもの。
・連載中のものは20巻以上発行されている物
・現在でも比較的手に入りやすい、読みやすいもの。(古本屋とか 漫画喫茶とかで手に入る 読める)
・最低ラインは50個です。(100個選べない人用)
この4点です。 漫画大好きな人たちよ、お前らのナツ100選んで見せろ。

追記
比較的手に入りにくいの本の俺が考えるイメージ
 ラブリンモンロー
 女犯坊
 聖マッスル
 ジャングル黒べえ

――と言う訳で、100なんか埋まるかな、と思いつつ、思いつくままに書き出してみたわけですが……
http://petat.com/users/monmonmon9/100.html

ごらんの有様。漫画って意外にあるものです。
っていうか100って意外に少ないんですね。
申告後に追記した分でもまだ足りない(荒木飛呂彦とか佐々木倫子とかいしいひさいちとか・・・・・・いずれ追加します)

しかも、ぱっと思いついたものだけなので、忘れているものある可能性多数。
詳しい解説等はやるかどうかわかりませんが、どれも面白いこと保証します。
暑気払いの参考に御笑覧あれ。

の余波

何日か前、トボフアンカル・ミニ・メディアというブログのコメント欄がなかなか楽しいことになってまして(「アニメの可能性 何故「涼宮ハルヒ」は賛否分かれて、「時かけ」は絶賛の声ばかりなのか」 http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20060725)、原因はやっぱりというかなんというか「涼宮ハルヒの憂鬱」だったりするのでした。 同作についてのここでの評価はもう十分書いたのでいちいち繰り返しませんが、放映が終了してひと月近く経つというのに、ファンの皆さんにとってはまだまだ熱い話題であるようです。

 くわえて、件のコメント欄の面白さが、ブログの書き手であるtobofu氏のハルヒ評価の是非にではなく、コメントしている方々の話題のズレ、会話の噛み合わなさ加減にあるというあたりに、この作品の(需要の)特殊性を見るような気がします。

 tobofu氏の主張自体は、ようするにエヴァ以降作り手の作家性が認められつつあったアニメ業界に、原作の広告塔としてのアニメ化というような、作家性を鑑みない企画が増えてきている(と、氏には見受けられる)ことにたいする漠然とした懸念の表明でしかないわけなのですが、その引き合いに「ハルヒ」を出したのと、「アニメにする理由がない」という文言が拠り合わさって、アニメハルヒの否定のように読み取れないこともない文章になったのがまずかったようで、議論の中心を見極めようとしないまま、アニメハルヒの素晴らしさを語る人が次々と出る惨事に発展してしまったのでした。

 よく考えれば「アニメにする理由がない」というのは――それがどんな基準に発せられているかにもよりますが――たいていの場合、ただ「理由がない」というだけでは作品の質そのものの否定には繋がらないはずなのですが、いったん否定に読み取って(読み取られて)しまえば、もう手遅れなのでした。
 もっともtobofu氏自身、後の記事で「極論すぎた」と反省されている(「鎮火処理」http://d.hatena.ne.jp/tobofu/searchdiary?word=%2a%5b%c4%c3%b2%d0%bd%e8%cd%fd%5d)ように、いささか不用意な発言であったようですが、受け手にもうすこし余裕があれば、ああいうことにはならなかったのでは、とはいえるでしょう。
 というのも、それは本質的には、ハルヒという作品そのものに向けられているのではなく、それを取り巻く「状況」に対しての不満という意味合いであったように思うので。

 ともかく、さながら青春10代しゃべり場の活字版を見せられるような感じで、苦笑しつつも自戒させられるところも多々有るという、議論が不得手という向きには反面教師として一見の価値ありのページとなっています(なお、恐ろしいことに事態は実はまだ「鎮火」しておらず、まだくすぶっていたりするのでした。その辺も件のページで確認できます。あそこまでいくとただの因縁つけですが。うーむ)。


 それにしてもハルヒ関連は、tobofu氏のサイトに限らず、どうしてこうも微妙な言説ばかり沸くのでしょうかね。
 たとえば第二次惑星開発委員会というところのハルヒ評価(「涼宮ハルヒの憂鬱http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html)に対する萌え理論Blogのsirouto2氏の反論(「涼宮ハルヒの反論Ⅱ」http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060723/p2)とか。

 開発委員会の批評は「AはBであるに過ぎない」と言ってるだけに過ぎない、というわけですが、それじたいが「AはBであるに過ぎない」の形式になっているという面白さ。てゆーか自縄自縛?

もちろん、「AはBであるに過ぎない」という言説は、発展性に乏しいというか、断言してしまったあとは思考停止に陥りがち、という問題点はあるにせよ、言説そのものはべつに破綻した論理ではないので、これをもって萌え理論blogのロジックの破綻を言うつもりは無いですが、相手を否定するのに躍起になると、段々に自分がなにを言ってるのかわからなくなる、といういい例ではあります。
 その後も、単なる喩えである「酸っぱい葡萄」というタームにこだわって、相手の主張の根幹に全然踏み込まないまま逸脱を続けるというような素敵な考察が続いて楽しい限りなのですが、そのあたりは直接そちらを当たっていただければ、堪能できるかと思いますので、ここでは触れません。

 ポイントは、アニメハルヒにはそこまで人を夢中で語らせる何かがある、ということですね。この稿もまたそういう流れに乗ったものといえるでしょう。

 それ――語らせる魅力――が果たしてなんであるのか、物語に内在する側面に関しては――惑星開発委員会の人々が主張しているような「妄想における青春の代替行為」であったり、あるいはそれ以外のなにか奥深い思想・精神の表明であるのか、はたまた単なる萌えキャラがたりの照れ隠しであったりするのもしれませんが――深く詮索しません。熱心に何度も見ているわけではないですし、ファンの方々のリサーチをしているわけでもないので。

 ただ、表層的なことであるならば、わりと容易に推察がつくような気がします。
 それは、近年では多分最大の「語りたい気持ち」を誘発したアニメ「エヴァンゲリオン」と共通する要素の存在です。
 もちろんハルヒエヴァンゲリオンでは、作品の質や方向性、そしておそらく内容面での未来の作品への影響力においては、比べようもないとは思うのですが、その「未完」性においてこの二者は共通します。

 ご承知のようにエヴァンゲリオンはテレビでは未完結であり、完結を目指した映画版第一作は結末の予告編でしかない内容、第二作は完結こそしたものの出来は微妙きわまる、という困った作品でした。後先考えずに膨らませに膨らませたはったりのバブルがはじけただけ、ともいいますが。
 ハルヒはというと、原作が未完というのはともかくとして、全十四話のアニメとしては非常に歪な仕上がりでした。端的にいうと内容面になんの貢献もしない(どころか足を引っ張る)錯時法構成のことです。このあたりもすでに書いたことなので、詳しいところはそちらを見ていただくとして、その構成が、ある種の「未完」性を醸しだしていた、というのは間違いないと思います。

 これが何を意味するか、というと、かつて大量に溢れたエヴァについての多くの言説が「作者が考えてもいなかったことであり、単に語り手の語りたいことにすぎなかった」というのと同じように、いまハルヒについて熱心にファンの方が語っている多くのことが、エヴァについてのそれと同じものである可能性がある、ということです。
 
 ハルヒという作品に熱狂的になれなかった身からすると、「それって作品への愛なのか? 一見鏡らしくないというだけの鏡を見てうっとりしているだけなのではなかろうか」という疑問が沸くのです。
 まあ本人が本人の責任において楽しんでいるぶんにはそれでいいんですけどねえ。そこで完結すれば。

 かつてマイケルムアコックはそのヒロイックファンタジーへの批判において、
「自身の救世主主義の犠牲になるのはおぞましい。他人の救世主主義の犠牲になるのはもっとおぞましい」
 といったものですが、この救世主主義を「自己陶酔」と読み替えれば、見事に過去エヴァンゲリオンファンに起きたことにぴったり重なります。
 エヴァンゲリオンも、それにかこつけて現代の若者だの現代思想だのを語りたい人々の格好のネタにされた側面が多分にあって、熱心なファンほど馬鹿を見たわけなので(結局一冊も買わなかったですが、いったい何冊研究本が出たことやら)、そのへんは念頭においておいたほうがいいかな、とは熱く語る人たちを見るにつけ、思うところではあります。