宮崎駿『風立ちぬ』――あるいは、風はたった、それは何処から来て、何処へ行くのか。

 吾らは夢と同じ糸によって織られているのだ
 ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる
 ――シェイクスピア『あらし』


奇妙な作品だった。劇場公開初日、吉祥寺オデヲンでの午前の第一回に赴き(上映四十分以上前に劇場に辿り着いたのにも関わらず、既に八割の入りという異常な盛況だった)、さらに同じ劇場で翌週金曜日のレイトショーをもう一度見て(こちらもほぼ八分の入り)、そうした結果、この作品を端的に表現するとしたら、それが一番ふさわしいのではないかと感じた。個人的な作品だ、といってもいいような気もするのだが、そういうのには、いささか開かれてすぎているような気がするし、実はそこまで個人的な内容ではないような気もするのである。

そもそもこれは、なんの映画なのか、そこからして言いにくい。
退屈な内容ではないが、ではハラハラドキドキの娯楽大作かというとそうではない。重厚で深刻な歴史文芸映画かというとやはり違う。もっと足取りは軽い。内容に事件性は乏しく活劇要素が限りなくゼロなのに、不思議な緊張感は終始漲っていて、見ていて全く気が抜けない。
零戦の開発者として知られる堀越二郎の生涯に取材したというふれこみなのだから、偉人伝の一種のようにみえるがそうではない。もっと断片的なものだ。零戦開発に至る設計開発史を精緻に描いているわけでもない。それなりに専門的な描写はあるが、主眼ではない。堀越二郎の生涯と並ぶもう一つの原案である堀辰雄の『風立ちぬ』にちなんだ悲恋物語の要素もあるが、この糸を辿っていくと最後に待つのは奈落である。

あるいはこれは映画とすら言ってはいけないのかもしれない。映画といえるほどまとまりのあるものではないかもしれない。ただし、この作品に奇妙な何かが満ちていることだけは間違いない。だから、奇妙な作品であると、これだけは言えるのだ。

  *

この作品の奇妙さは、その冒頭の場面からもみてとることができる。蚊帳の中で眠る少年時代の二郎にカメラが寄っていき、次の瞬間、屋根を上る二郎少年を映し出すくだりで、ああこれは少年の見ている夢だな、と即座に分かった人はどれくらいいるのだろう。まず、不自然な場面の飛躍(いわゆるジャンプカット)だ、という違和感からくる認識があって、ついで違和感があるからこれはもしかすると夢かもしれない、と考え、その推測が、続く場面に登場する鳥のような翼端をもつ創作飛行機によって裏付けられる、という思考経過をたどった人がほとんどなのではないだろうか。そして、こうも考えたはずだ、宮崎駿はこんなに不親切で独りよがりな描写をする作家だったろうか、と。

 もちろん、そういった軽い混乱と違和感は、その鳥型飛行機による二郎の飛行場面の如何にも宮崎アニメといいたくなるような爽快感、そして、あの素晴らしく不気味な動きで宙に浮いている爆弾らしきものの群や、雲の中から姿を現す空中戦艦の異様で不気味なデザインの感動にのまれて、頭の片隅に追いやられてしまうのだが、まったく消えてしまうわけでもない。その夢の場面でさえ、何でもない風景とそこに暮らす日常の人物のはずが、二郎の飛行機への妙に誇張された反応を見せることによって、ただの願望充足の夢でないことを暗示していて、いかにも宮崎アニメらしい爽快さを完全には楽しませてはくれない仕掛けにはなっているのだ。この素晴らしく爽快で、素敵に不気味で、すこぶる楽しい夢の場面は、墜落というギリシャ神話伝来ともいえるごく古典的な結末に到達し、(この監督のやりかたとしては)凡庸な演出をもって終わる。感動とかすかな違和感を観客に残して。

 奇妙なのはそこだけではない。例えば、時間の進みを示す描写も奇妙である。正確には、時間の進みを示す描写の不在が奇妙である、といった方がいいだろうか。小学生の二郎が大学生の二郎になる場面は、大きな時間の経過を示すカットもなくあっさりと変わる。その後も、パンフレット掲載の年表によれば、震災の場面から復興した東京での学生生活の場面までが二年、そこから名古屋の工場に行くのにまた二年、ドイツ行までまた二年、帰国して試作機の設計主任に選ばれるまでに三年、菜穂子に再開するのがその翌年(七試単戦の制作とその失敗、身体の披露静養と失敗の傷心慰撫を兼ねての軽井沢行、そして再会、という流れを原作未読でわかった人がはたしてどれくらいいるのだろうか? 軽井沢の旅館のベッドで二郎が夢とも空想ともつかぬかたちで見る七試単戦――のちに醜い家鴨の子といわれてしまう――の墜落場面、あれが失敗の場面の「回想」なのである)、本編における「現実」部分の最後である九試単戦の試験飛行までまた二年、とものすごい速度で時間が進んでいるのに、そういった時間の流れの速さを感じさせるような説明的なコマはほとんど入れられず、すべては一年の間の出来事ですといっても通用しそうなぐらいに、本来離れている時間が余白を作らずに並べられていく。
 空間についても同じことがいえて、東京から名古屋、名古屋からドイツ、ドイツから西欧諸国と、まさに世界を股にかけた展開をみせているのに、その長い移動の描写はほとんどなく、たとえば『もののけ姫』で北の地を追放されたアシタカが西の山にやってくるまでをあれだけ長々と(時に恥ずかしくなるほど)時間をかけて見せた監督と同一人物かと思うほどだが、つまりここでも余白を作らないという方針が徹底されているとみるべきなのだろう。
 そして、夢と現実に至っては、余白がないどころではなく、お互いにゆるやかにまじりあい、あるいは、侵食し、もはや不可分の関係になっている。現実と対置するものとして夢があるのではなく、現実の延長に夢があるのであり、夢の果てに現実があるのだ。それはちょうど、二郎の読んだ英語の本の内容がカプローニ伯爵の夢というかたちで二郎の前にあらわれ、その夢に鼓舞された二郎がカプローニ伯爵のような設計家を現実に目指すという作品の構造とも一致して、映画全体の主題にも大きくかかわっていく。

 かくして映画は定型の持つ安心感と過去作に基づく作家への期待をそれとなく、だが確実に裏切り続ける。だから、むしろ積極的なファンほど緊張を強いられる可能性すらあるだろう。見慣れた、そしてよく知った、さらには愛していたかもしれない、「宮崎アニメの約束事」とは異なる、新しい約束事を見つけ出さなければならないのだ。

 このあたりの「新しさ」は、喫煙の描写などにもあらわれている。従来の宮崎アニメにおける喫煙描写はルパン三世やポルコ・ロッソのそれを思い出してみればわかるとおり、古典的なハリウッド風味といったらいいのか、ようするにハンフリー・ボガートごっこの延長としての、かっこいいとはこういうことであるという、要するに作り手の自己満足の場面でしかなかったわけだが、この作品においては、喫煙者をかっこよくみせるための小道具というよりは、喫煙者の自制心の弱さやその耽溺の異常性を示すそれにかわっていて、だから、あの作中で一番といっていいような好漢たる本庄がこと煙草の件になると誰彼かまわずそれをねだり、それでも無いとなるとシケモクでも吸うという、非常にみっともない姿を晒すのだ。そういったやや引いた姿勢こそが、終盤の二郎が菜穂子のいる部屋で煙草を吸う印象的な(そして、引き気味のカメラが示すように必ずしも作者も肩入れをしていない)場面を生み、あるいは宮崎アニメ史上最も皮肉で冷静な笑いに満ちた場面、すなわち、大震災による火災の真っ最中に火をねだって煙草をぞんぶんに吸う場面に結実するのである。

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少し話をもどそう。冒頭の二郎の飛行の夢についてである。

 この夢は、もちろん第一義的には、二郎の願望と恐怖と不安の集成であり、鳥のように空を飛びたい、鳥のように空を飛ぶ機械を作りたい、あるいは空を飛ぶことで見知らぬ人にも(出来れば男性より女性に)ちょっと騒がれてみたい、そんな数々の願望と、まだ直接戦火を体験していないとはいえ、人一倍海外についての知識が豊富で、当然そのころ勃発中の世界大戦についてもそれなりの知識があったであろう少年の戦争への恐怖心、さらに加えて、近眼によってパイロットになれないのではないか(これはホラー映画的に強調されるゴーグルをしたときの眼球の描写でもそれとなく示される)という、より直接的な不安、そういった、まあだいたい年頃の少年らしい内面を、ある種観客の受け狙い的なものも込みでひとまとめに見せてくれたものであるけれど、これは、『アラビアのロレンス』の冒頭部、トーマス・エドワード・ロレンスの交通事故に終わる最後のバイク運転の場面と同じく、映画全体の展開の暗示にもなっていて、具体的には、順風満帆の飛行開始から、ひとびとにもてはやされる中盤、戦争という悪夢に巻き込まれ、容赦ない墜落に終わる。『アラビアのロレンス』が英雄ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であったことと、『風立ちぬ』が天才ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であることはおそらく無関係ではない。ロレンスの最後の旅がたった一人の旅であったように、二郎の最初の飛行もまた、たった一人の飛行であった。

 また、ここで「墜落」した二郎がその後二度と自ら飛行機の操縦席に乗らない、というのも重要で、それは夢のなかでさえ一貫している。カプローニ伯爵の飛行機に乗るときは常に客分であって、パイロットを夢見ることさえない。ただの夢が二郎の未来をすでに決め始めているのだ。
 ただし、このあたりは、見ていてすぐにピンと来たわけではない、ということは告白しなければならない。見終わって内容を反芻して初めてああそういうことだったに違いない、と思ったことばかりである。カンが悪いと言われてしまえばそれまでだが、正直、濃厚な作画と、これから述べる、奇妙な話のつくりに翻弄されて、全体の構造を考えたりする余裕はまるでなかったというのが実情である。

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いや、奇妙、というよりは、雑、といった方が、もしかしたら相応しいかもしれない。ここについては、実際のところ真意がよく解らないところも多い。だから、公開直後の感想では「脚本の出来は良くない」というようなことを呟いたし、基本的には今でもまだそう思っていて、幼少期が冒頭の夢や、不正を見逃せない二郎の性格描写、妹や母との関係(父親との無関係、その代理的な意味でのカプローニ)といった今後の展開に必要な情報を提示するだけに終わってしまい、妹とは結局笹取りにいったのかとか、あのいじめられていた少年とのその後の関わりはとか、飛ぶ夢は以後見たのかとか、そういう細かい挿話がまるで膨らまないままに青年期に移行してしまうのは、そこが単に序章だから仕方ないということもできるが、その後のどの時代でも、基本的に同じ調子で話が進んでいくのは、やはりまずいのではないか。

 特に惜しいと思うのは、少女時代の菜穂子と学生時代の二郎の出会いから震災に巻き込まれるあたりの展開で、四分間の予告編でももっとも印象的に使われていた、雑踏の中を二人が手を繋いで雑踏を駆け抜ける場面がそこから何か二人の関係を深める挿話があるでもなく、あっさり里見邸に到着してしまう。テレビで見ていたら、放送時間の都合で何分か削除されたんじゃないかと思ってしまったに違いない。そしてその場面で二郎の菜穂子に対する印象をきちんと描いていないことが、次の服と計算尺を菜穂子の御付の女性(名前失念)が送り届けに来る場面のわかりにくさにつながってしまう。二郎が何をあわてて女性を探しに行ったのかというと、御付の女性に会えば菜穂子の様子がわかるからだ、という確かな理解が観客に訪れるのは、だいぶあと、「帽子を拾ってくれた頃から君のことが好きだった」という台詞を聞いてからだろう。
 また、ドイツでのスパイらしき人物とその追跡者のくだりのようにまったく話が膨らまず、なおかつ、それ単体でもほとんど意味もなしてないように思えるところも散見される(大きく見れば、「破裂」寸前の政情不安の暗示ではあるのだが、暗示というには具体的すぎて印象的すぎるのだ)。さらに、ゾルゲ事件を連想させる、謎のドイツ人カストルプ絡みのあれこれもそうだ。彼がむしゃむしゃ食べているクレソンはとてもおいしそうだが、それは本編には全く関係がない。

 一体にどのエピソードもその場その場の機能優先というか、刹那的なのだ。話を展開するのに必要な情報を提示したら、至極あっさり次の話題にいってしまい、それきりなのだ(執拗に出てくるクレソンは悪い意味で例外といえる)。

 もちろんそういうやりかたが効果をあげているところもあって、名古屋に向かう汽車の行く手に広がる職を求める人々の群や銀行の取りつけ騒ぎの暴徒を、二郎が窓越しに見つめる場面は、『千と千尋の神隠し』の千尋の「沼の駅」への旅の場面の思わせるが、千尋の旅が、はじめての死の世界との邂逅であったように、二郎にとってもそれまでの順風満帆の世界と窓を隔てた向こう側にすぐ存在する怒りと困窮の世界とのほとんど初めての邂逅であって、それをさらりと、しかし印象的に点描することで、その後の「シベリア」の話題へつなげ、本庄の口から「偽善」という単語を導き出すあたりは、まるで宮崎駿ではなく高畑勲が脚本を書いたようですらある。

 とはいえ、やはり全体としては、踏み込みが浅く、潤いのない脚本(といっても絵コンテが初稿というスタイルだから、厳密に本そのものは存在しないわけだが)であることは否定しがたく、こういうところでそれこそ高畑勲が監修なり助言なりをする役回りを演じてほしかったようには思う。もっとも今回、予告編として流れた『かぐや姫の物語』の異様で狂的な迫力に満ちた映像を見る限り、他人の映画に関わっている余裕はおそらく高畑氏にはなかったに違いないのだが。
 そんな踏み込みが浅く、潤いがなく、同時にそれゆえに上澄みだけをすくいとったような小綺麗さも兼ね備えた本作の傾向を最も象徴するキャラクターとしてあるのが、そう、菜穂子である。

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周知のようにこの作品の里見菜穂子、のちの堀越菜穂子は、宮崎が漫画版『風立ちぬ』を描いた際に、堀辰雄の「風立ちぬ」の節子をもとに「菜穂子」の黒川(!)菜穂子のキャラクターを若干加味して作りだしたもので、彼女の辿る運命は「風立ちぬ」の節子ではあるけれど、自らの意志で病院を抜け出してくる現代女性的な(当時の堀的な意味合いで)精神的な強さは「菜穂子」の菜穂子によっている。彼女の名前が節子でなくて菜穂子であるのは、それが『火垂るの墓』の主人公の妹と重なってしまうというだけでなく、芯の、そして、真のところでは菜穂子は節子でなくて菜穂子の菜穂子なのだ(ああややこしい)という想いがあるのだろう。
 この菜穂子は、菜穂子の菜穂子以上に、ヒーロー的な精神の逞しさをもちつつもあくまで「塔の中の姫君」であるという、『魔女の宅急便』以降意識的に封じてきた感のある、宮崎駿にとっての理想的なヒロイン像の再現でもあって、もう一人のクラリスでありシータでありサツキであり、しかしナウシカではなく(彼女は完全にヒーローでもあるからだ)、それ故、彼女は遂に襲いくる不幸に勝利することができずに終わり、それはまるで、主人公にとって都合のいい悲劇を提供するだけの作り手のご都合的な要員のようにみえないこともない。特に終盤の菜穂子の出立のあたりの黒川の奥さんによる説明的過ぎる台詞(あれは世界屈指の娯楽映画の天才の優しさが裏目に出た瞬間で、明らかに言わせすぎだった。場面の奥行きがなくなってしまうし、その動機が単純化され過ぎてしまう。)は、そんな印象をより強化してしまうようなところもあるのだが、彼女の役割はもっと別のところにあって、そういう意味では宮崎のこれまでのどのヒロインとも似ていないし、堀辰雄の二人のヒロインとも似てはいない。さらにいうなら、漫画版『風立ちぬ』の菜穂子とも違うヒロインなのである。

 よく本編の内容を思い返していただきたい。この作品の菜穂子が二郎の生きがいである飛行機とその設計について、どう接したか。じつに最後までそれにはまったく興味を示していないのだ。「仕事をしているあなたの顏が好き」と甘い声で囁いても、「あなたの作った飛行機が好き」とか「あなたの飛行機が飛んでいるところを見たい」というようなことはいっさい言わないのだ。漫画版の菜穂子はそうではなく、二郎が軽井沢で作った紙飛行機をお守りにしてみたり、あるいは療養所に送られてきた二郎の手紙に仕事の話ばかりであることに苛立って(苛立ちはそれに無関心でないからこそ発生する)みたりと、なんだかんだで二郎と同じ夢を見ようとするし、二郎のほうでも、美しい飛行機を設計する大きな動機として「菜穂子に見せたい」があり、「見せたい人はただひとり」とまで思っていて、念願の九試単戦の飛行実験の成功の場では「見せたい人はもういない」と嘆くのだ。つまり漫画版の二人は、夢の共有を果たしていて、これは『ルパン三世 カリオストロの城』を作った頃に宮崎が言っていた「二人が並んで同じ風景を見る関係」のまさに具現化であって、それゆえに悲恋の、悲劇の結末、となるわけだが、驚くべきことに、映画においてはその要素は完全に排除されている。

 二郎の飛ばした飛行機を拾った菜穂子がその飛行機を再度飛ばす場面を見よ。菜穂子の投げ方のなんと粗雑で、「飛行機」というものへの関心の感じられないことか(あの投げ方は、もしあの飛行機が二郎制作のものでなかったら、そのまま丸めてゴミ箱に捨てる人間の投げ方である)。また、二郎のほうも、菜穂子の為に飛行機を設計しようという動機は持たない。設計中に彼女のことを思い浮かべることもない。むしろ、彼女の容体の急変を聞いて東京へ向かう車中、不安と恐怖を忘れるために必死に計算をし、設計作業を続ける場面に示されているように、飛行機も設計も彼女とはまったく異なる世界のものとしてある。

そういう意味で、菜穂子は宮崎アニメのヒロインとしてまったく違う地平に立っているし、それは二郎にとっても実はそのようでありそうであり、つまり、もしかするとヒロインですらないのかもしれない。

では、菜穂子とは何だろう。その手掛かりになるのかもしれないのが、婚礼の儀の場面である。二郎と菜穂子の登場する場面では、震災のなか群集をかきわけ二人で走るところ、その対比となる駅での再会、それらに次ぐ名場面といえるけれど、ここで流れる音楽――サウンドトラックでは「旅路(結婚)」と名付けられた曲は、冒頭の夢でも流れる曲(トラック1「旅路(夢中飛行)」)の変奏である。菜穂子との婚礼なのに菜穂子の主題(ちょっとラピュタの主題曲を思わせるあれである)ではないのは、この婚礼の菜穂子が菜穂子ではなく夢の菜穂子である、ということではなくて、この婚礼が夢と限りなく近い瞬間、いや、ほとんど夢そのものであったからだろう。既に述べたように、この作品において夢と現がほぼ地続きなのである。飛行機とカプローニしかいない夢中飛行の草原の先に、このときは確かに、婚礼の衣装を身にまとった美しい菜穂子がいたのだ。
 だが、それは同時に、このときだけだった、ともいえるのだ。それがはっきりするのが最後の夢の場面である。

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風立ちぬ』の最後の場面は、冒頭の場面と同じく、二郎のみる夢だ。戦火に包まれる東京の街の情景から例によって明確な区別なく、無数の飛行機の廃墟の横たわる夢の草原へとつながっていく。優雅な飛翔から不吉な失墜へと展開した冒頭の場面とは対照的に、破壊の情景の先にいつも通りの優雅な佇まいのカプローニが待っている。ここで語られるすべては、この『風立ちぬ』という作品の総括であり、種明かしであり、最も残酷な死と破壊でもあるのだが、最初にこの場面を見てそう思う人はほとんどいないに違いない。というか、そもそもこの場面が、映画の最後の場面だと思う人すらほとんどいないに違いない。駅での再会から婚礼への盛り上がりを最後に、そのまま淡々と展開してしずかに終わり、は宮崎映画にはありえない、根っからの「客を楽しませたい」人である宮崎駿が最後に何らかの大立ち回り(『魔女の宅急便』のアニメ独自の終盤の飛行船を巡る活劇についての宮崎の言葉を使うなら「最後の打ち上げ花火」)が、用意されいないはずがない、と思うのはごく自然なことだし、個人的にも、戦後の二郎がエピローグ的に描かれるか、夢の中でまたあの鳥型飛行機が飛ぶか、つまりなにかもうひと場面、それも華やかな場面がはあると思ってみていたので、ごくあっさり堀越二郎堀辰雄へのクレジットが出てそのまま荒井由美の歌が始まったときには、その驚きのない展開に驚いてしまい、これはきっと全クレジット終了後に、『紅の豚』のような数秒位のおまけの場面があるのだろうと、これまた無駄な期待をして、それがないことにまた無駄に驚いてしまったのであった。
 この辺もやっぱり脚本の雑さというほかはない。最後の場面だとわからず見ている観客と最後の場面だと思って描いている作り手では、間違いなく意識や想像力の共有に齟齬が生じるからである。

 さて、しかしここは正しく最後の夢を最後の場面として考えていこう。

この何度も来た草原について、二郎は言う「地獄かと思いました」
カプローニは答える「地獄ではないが、似たようなものだ」

 これら考えてみるととんでもないやりとりである。今まであの場所で語られた希望や、あの場所が出るたびに流れたのどかで安らぎに満ちた音楽(「旅路」である)は一体なんだったのか、地獄のような場所で希望を語り、地獄のような場所の象徴があののどかな楽曲だったというのだろうか。
 あるいは、「地獄」とは二郎が手塩にかけて作り上げた飛行機の廃墟を、廃墟だけを指していったのだ、という人もいるかもしれない。だが無論、そうではないし、そうはならない。あの廃墟も含めた、あの場所全てを指している言葉である。それは続くカプローニの台詞が示している。

「飛行機づくりは呪われた夢だ」

 夢自体が呪われているのである。この場所そのもの、この場所の全てが呪われた場所なのだ。どこまでも続く草原と青空、それが『千と千尋の神隠し』の人の世界と神々の世界を繋ぐ場所と地続きのようにみえるのも偶然でないのだ。そこは安らぎの地ではなく、地獄への入り口なのだ。だからこそ、カプローニが美しいと絶賛した零戦が飛び立っていったさきに、あのマルコ・パゴット中尉の見た死の空の夢そのままの光景がそのままでそこにあるのだ。
マルコはかれが目にしたあの空をなんと評していたか、というと、こうである。

「あそこは地獄かもしれねえ」

そしておそらく、かれの推測は正しいのだ。

先にこの映画は二度見たと書いたが、二度見て印象が一番変わったのがこの場面だった。そして二度目に見た時、一度目の「最後の打ち上げ花火」不足の気分は、作者の意図通りではないのかもしれない、と思えるようになった。それどころか、誤解していたのはこちらで、つまり、この「呪われた空に飲まれていく零戦とそこに展開している何白何千の飛行機(の幽霊)」こそが、作者にしてみれば最大最悪の打ち上げ花火であり、まさに地獄のような光景のつもりであったかもしれないのだ、と。
 ただし、正直にいってこの場面には人にそう思わせるだけの力はない。その求心力の無さは、宮崎執筆の企画文における「美しい映画を作りたい」という言葉でも糊塗できないような作り手の衰弱を感じずにはいられないし、それでも好意的に推測するなら、最後の最後にコンテを切ったために、疲労困憊、文字通りの衰弱状態で描かれたのだから、仕方のないことであるのかもしれないが、そういう力の配分の失敗も含めて、やはりここは失敗しているといわないとならないだろう。この場面が『紅の豚』のあの場面なみの、壮麗で幽玄ながらなおかつ壮絶で恐ろしい大量死の風景として描かれていたのなら、この最後の夢が最後の場面でないなどと勘違いする人もいなかっただろうし、なによりそんな批評家的理屈にもとづく見方などどうでもよくなる次元で観客を圧倒していたに違いないのだ。なんと勿体ないことだろう。最後がズタボロでいいのは登場人物だけである。

そして、また、菜穂子である。飛行機と並んで、二郎の人生において重要な「夢」であった菜穂子である。しかし、彼女はあらわれて一言二言いってすぐに消えてしまう。このくだり、庵野秀明の決してうまくはないが、独特の朴訥さとある種の迫真性のある呟きのような「ありがとう」という台詞によって、なにがしかの感動的な風情はあるのだが、正直ここが最も衝撃的だった。感動するどころではなかった。
 だって、あれほど大切な存在だった菜穂子すら、二郎の夢の世界に居続けられないのだ。なんという夢だろう。なんという恐ろしい世界だろう。そんな地獄のような、草木と空と妄想の存在と廃物しかない世界でしか生きられない二郎とは、なんというかなしい人間だろう。
 ことここに至って、ようやく、この『風立ちぬ』という作品がどういう物語であったのかが明らかになるのだ。

二郎が何に突き動かされて生きてきたのかといえば、それは夢である。夢の中で生きる目標を定め、夢のように美しい飛行機を作り出すことに心血を注ぎ、夢のように素敵な女性と出会い、夢のように美しい婚礼をし、夢のように彼女は去り、夢の中でまた出会い、また別れ、その夢を抱えてまた生きる。そして彼は知っている。その夢とはしかし呪われた、地獄のような場所なのだと。

風立ちぬ、いざ生きめやも」

ここでいう風とは、世界の、社会の、人生の、歴史の動きであり、その動きに巻き込まれている以上、人は生きていかなければならない。最愛の人をなくしても、それでも時間は進み、残されたものは生きていくのだ。ヴァレリーは、そしてそれを引用した堀辰雄はそういっている。そこに宮崎は、新しい意味をつけくわえたのではないか。風とは夢である。夢が人を動かし、人を生かし、夢を持った者だけが生きていくのだ。二郎とはそういう男であり、そういう男のまえでは全ては夢の糧にすぎない。零戦に乗って死んでいった沢山の兵士も、戦火に消えていった人々も、友人や同僚や、菜穂子でさえも。

そんな人物の生涯を描くにあたって、通常の時空間描写は必要なかった。ふさわしくなかった、といってもいい。過去も未来も、西も東も、実在も非実在も全てが等価に進行する世界、そして、現実音もあれば、明らかに現実のそれとは異なる唸り声のような掛け声のような(頭の中で妄想されているだけのような)機械の響きもある世界、それはまさに夢そのものであり、夢に生きる男を描くのにこれほど相応しいキャンバスはほかになかったのであり、まさにそのようなものになるべくこの『風立ちぬ』という物語は描き上げられたのだ。
二郎の声に本職の声優でも俳優でもなく、弟子にして監督でもある庵野秀明が起用されたとき、誰もが驚いたものだが、実際に本編で見ていると、第一声と詩の朗読以外は大きな違和感がないことに気づく。というより、違和感自体はずっとあるが、彼が、プロのそれとは異なる口調で終始することによって、いわば違和感を個性に変えている、という構図はつまり、二郎という人物が終始作品世界とは違う次元にいる、ということでもあって、それはちょうど、夢と夢を見ている者の関係なのである。

当然、それはさらなる連想を容易にする。このフィルムが二郎の夢そのものであるとしたら、それは同時にこのフィルムの作り手である宮崎駿の夢であり、夢が二郎という人間の肖像であるとしたら、同時これは宮崎駿という人間の肖像であるのではないか。いうまでもなく、そうに決まっている。もし、宮崎駿がもっと自分自身の声や演技力に自信があり、さらには自分というキャラクターに愛着があって、自画像を豚人間になどしないような人間であったなら、二郎の声は宮崎自身がやっていたに違いない。もっとも、そういう人物であったなら、そもそもこういう映画を作ろうと考えなかっただろうし、作られもしない映画の主演などをするはずもなかっただろうけれど。

    *

さて、最後にざっと映画のスタッフ等について。
 まず、役者陣。前述の庵野秀明の特異性を生かすためか、それまでのジブリ作品と比べても非常に水準が高いように思う。単に技術的な面以上に、うまく映画になじむ人選という気がする。過去にジブリ作品に出ている人の再起用が多いというのもこの馴染み方の良さに影響しているのかもしれない。なかでは黒川という口うるさいが誠実で公平で人情家ですらあるという、外見も含めて完全に漫画のようなキャラを当たり前にそこにいるように演じた西村雅彦と、いつもどおりの大芝居なのに、この世のものではないような優雅さと豪快さを兼ね備えたカプローニを第一声から表現しきった野村萬斎が双璧だろうか。菜穂子の滝本美緒は悪くないが、少女時代の菜穂子の飯野茉優のほうが達者なぶん、割を食っているようにも思う。
 一方、久石譲の音楽は正直もうすこし振り幅が欲しかった気がする。大半が「旅路」と「菜穂子」のテーマの変奏で構成されているのはいいのだが、肝心の主題自体がよわい。「旅路」は確かに良い曲なのだが、久石譲が『千と千尋の神隠し』の「6番目の駅」のような強力な曲が駆ける事を、ジブリファンならみな知っているのだ。ああいう曲があれば、映画全体にピシッと背骨が通ったにちがいない。
 その背骨代わりとして想定されていたのが、あるいは荒井由美の「ひこうき雲」だったのかもしれない。素晴らしい曲だし、再三触れている四分間の予告編での使われ方も素晴らしかったのだが、それに比べると本編での使い方は通り一遍で、曲に内在する力のすべてを出しきれていなかったように思う。というより、じつは「ひこうき雲」は微妙に映画の内容とは合っていない曲である。この作品は「はかなくこの世を去ったあの子」の話でなかったのだから。

それにしても、この映画全体に漂う死の気配と、それにもかかわらず漲る若さは一体どうしたことだろう。全然老境の作家の作品のようではなく、とてつもなく老成した青年、それも未完の大器による作品のようだ。『崖の上のポニョ』にあった、これが遺作となっても仕方ない、というような老人の我が儘一杯の作劇とは違う、自分の好きなものを詰め込んではいるが、詰め込んだもので好き放題に遊ぶのではない確かな意志の存在と自制心の強さを感じる。
次回作を作る気があるのか、あるとしたらそれがいつのことになるのか、現時点では皆目わからないが、想像するだけもわくわくしてしまう(以前語っていた青年芥川と老人漱石の話だろうか?)。末恐ろしい七十二歳である。


 夢こそは我が嘘のいやはての砦
 あまたの空の出入りする
 そして俺は番兵
 空をまとめて串刺しだ
 青い血を彼等のために流そうよ
 ――谷川俊太郎「俺は番兵」