それはたったひとつの冴えたやり方じゃない。その2「死はさだめ、さだめは愛」

ええと、再度坂東眞砂子氏の子猫殺害問題です。いや、より正確には進行中の子猫虐殺問題、といったほうがいいのかも知れない。氏のエッセイに示された「覚悟」からすると、今現在も生まれたたくさんの仔猫――猫は一度で五匹ぐらいは仔猫を生み、それも雌猫を三匹飼っているということなので、三匹が同時期に発情して妊娠したとすると、ワンシーズンに十数匹という計算になります――を、崖から投げ捨てているはずですから。恐怖と動揺に打ち震えつつも、「母猫の生の実感」のために。
 いやまったく、ある意味敬意を表したくなる覚悟と信念の強さです。崖下の風景は想像したくもないですね。おそらく坂東氏は「生の豊穣と日常にある死」の対比を実感するために確認に行っていることと思います。いや、いっていないと駄目ですよね。
もし、氏の覚悟がさらに深かったのなら、その手で直接命を奪っていたことでしょう。生ゴミの不法投棄よろしく、その結果がすぐに確認できない崖下に放り投げるのは、あれほど強い決意をもった方にも、心理的な限界があることを示していて、ある意味興味深い事例といえます。

 さて、既に書いたような内容をなぜまた蒸し返すかというと、週刊現代での坂東氏自身の「反論」に続き、週刊文春において東野圭吾氏が特別寄稿として、坂東氏を擁護する見解を発表したからです。
詳しくは該当誌をあたっていただくとして、さすがに第三者であるだけに、ともすると被害者意識に飲み込まれがちな坂東氏自身の反論よりよっぽど、坂東氏の行為の擁護としては明確で論理的に構築されているのですが、それでもそもそもの坂東氏の行動と理論に無理があります、

 その東野氏の見解を大雑把にまとめると、「坂東氏の行為は、倫理的な問題ではなく、社会的責任の問題として読み解くべきである」というもので、すなわち、倫理的には明らかに問題視される仔猫の殺害は、社会的責任という観点で言えば「猫を必要以上に増やさない」という意味において避妊手術と同等であり、避妊手術が容認されている以上、子猫の殺害もまた容認されるべきである、ということになります。

 ではその社会的責任とはなんでしょう。

 坂東氏によればそれは「人間の生活環境を害する」野良猫を放置してはいけないというものだということなのですが、氏の場合にこれを当てはめてみると、生まれた子供をその場で殺すことは、野良化することを完璧に防ぐわけなので、確かに社会的責任を果たしているといえるでしょう。

 もっとも、初めから生ませなければ、そういう社会的責任を負う必要もないのですが、そこは「坂東氏の信念」です。なんとしてでも飼い猫の交尾と妊娠は守らないとならないのです。そして一匹たりとも余剰の猫を育てるつもりなどはないのです。
 傍から見るとなにか優先順位間違ってるんじゃないかなと思える理屈ですが、坂東氏にすれば、年十数匹の仔猫から生の充実はおろか生そのものを奪うことよりも、三匹の親猫の出産規制をすることのほうが、より恐怖と動揺が大きいようなので、本人的には正しい順序なのでしょう。

 かくして多数の仔猫の屍とともに「社会的責任」は果たされた――ということになります。両氏の主張の上では。
 しかし、「人間の生活環境を害さない」とは、野良猫を出さないことだけで終わりでしょうか? 放置された猫の死体はどうなるのでしょう。タヒチには野生動物の死体がごろごろ転がっているらしいので、問題ないということですが、産業廃棄物の不法投棄地帯にも同じことが言えそうな論理で、説得力に欠けますし、仔猫たちは「野生」ではどう考えてもありえないので、自然現象と見ることも無理です。定期的にペットの生んだ仔猫を投棄する人間というも一種の自然現象であるかもしれませんけども。

 死体だけの問題ではありません。坂東氏の三匹の雌猫たちの問題があります。生の充実を与えられた(あくまで坂東氏的な価値観によってですが)三匹の猫たち、彼女らはどうやって暮らしているかというと、放し飼いなのです。
 考えてみてください。放し飼いの猫たちは人間の生活環境に害しないのでしょうか? 坂東家の三匹の雌猫はちゃんと坂東家の敷地内でのみトイレをし、虫を取り、発情期には近所には聞こえないような声でしか鳴かず、それ以外ではいっさい悪戯などはしないように躾けられているのでしょうか? 避妊すらしない「生の充実」が正しいという信念の坂東氏がそういう「非自然的な」躾けを猫に行なっているとは到底思えません。この場合たまたま三匹とも雌だったからよかったようなものの、雄猫だとすると、あたり構わず種付けをして回って、野良猫を増やす元凶になるわけですが、社会的責任の名において、坂東氏に飼い猫の去勢ができるかというと非常に疑問です。
 それでなくても放し飼いというのは非常に飼主が責任をとりにくい飼い方なのは、考えなくてもわかることです。自宅から遠く離れた散歩先で猫がした粗相を飼主はいちいち突き止めて清掃するでしょうか? 
 ぶっちゃけ、放し飼いの猫と野良猫とを隔てる垣根は限りなく低いのです。東野氏の言うところの「害獣化」を防ぐには「室内飼い」かそれに準じた、猫が外に出られない敷地内で飼う以外ないのです。

つまり坂東氏は自身の規定した社会的責任すら達成しているわけではないのです。
坂東氏のいう社会的責任を果たすとは、せいぜい、仔猫を生かさないことだけなのです。。
言い方を変えると、母猫の倫理的に――坂東氏の信念的に――正しい生き方の犠牲として仔猫が社会的責任をとらされている、ということでもありますね。仔猫にとってはいい迷惑です。

理屈を省いてやっていることだけをみると、単に三匹の飼い猫に好き放題させて、それ以外の猫は猫とすら思っていないようにすら見えますね。
 

そもそも坂東氏の「信念」なるものが微妙なのです。前回ざっと述べたことをもうすこし丁寧にやってみましょう。

 坂東氏によれば、生命の実存とは種の存続にあるので「猫の生の充実」とはすなわち生殖行動にあるというわけなのですが、ご存知のように、猫には発情期というものがあり、一般に発情期のある動物は発情期以外には交尾しようとはしないとされていますから(これは人間においても同じですよね。人間は万年発情期の生き物だけど、始終性欲のみで生きているわけではありません)、坂東氏的には一年のうちでも一時期のみが「充実の期間」ということになります。 個人的には、発情期以外の猫の、寝たり食べたり散歩したりしている姿にはものすごく生の充実を感じるのですが(特に昼寝してる猫とかですね。発情期はむしろ苦しそうで見ていられません)、まあこれは主観の問題かもしれません。
 
 この発情期の充実というのは実体としてはなにか、というと、いうまでもなく交尾なわけですが、これは雄猫ならいざ知らず、雌猫に限っては交尾はひどく苦痛のともなう体験であるので(排卵を促すために雄猫のペニスが膣内を傷つけるそうです)、よほどその猫が苦痛を喜ぶ体質であると想定しない限り、交尾を人生の目的としているとするのは、かなり困難がともなうように思われます。妊娠にしても、体は重くなるし、体力は消耗するし、おおかた寿命も縮みます。これもあるいは猫によっては喜びであるかもしれませんが、そういうネコはわりとレアな猫ではないかという気がしますし、そもそも、生殖活動の目的である育児と種の存続がかなわない以上、単なる徒労でしかないように、見えます。

不思議なことに、この「育児」という行為の争奪については、坂東氏にしてみると別に恐怖も動揺も覚えないようです。積極的に省く根拠が示されているわけでもないですけど、そもそも触れてすらいないのです。東野氏でさえ、「彼女は、三匹の雌猫たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。」などとロマンチックな推測を書くしかないのですから。
ちなみにその推測の補強として東野氏がつづった、「ある程度育ててから奪って殺すのはより残酷」とか言う物言いのは意味不明もいいところです。純粋に母親の視点のみを尊重するなら、巣立ちの時期まで育てさせてから(すなわち「育児という生の充実」を味あわせてから)、「社会的責任」を持って仔猫たち――その頃には成猫でしょうが――を「処分」すればいいのですから。坂東氏の言う「社会的責任」と「生の充実」(ただし仔猫にはそれは認めない)を突き詰めたら、そこに行き着くこともおかしいことではありません。そして東野氏の論法で言うなら、「非難できない」ことでもあるのです。
まあ、推測で物をいってもしょうがありません。このあたりについては、坂東氏自身のコメントを待ちたいところです。

とりあえず現在のところわかっているのは、坂東氏のいう生の充実とは、苦痛を伴う交尾、「結果」の得られない妊娠と出産――この二点に尽きているいうことです。

 果たして、これのどのあたりに「生の充実」があるのか、非常にわかりにくいものがあります。否、はっきりいってまったく理解できません。一体、坂東氏の「正義」は那辺を見据えたものなのでしょう。信念とはかっこいい言葉ですが、一貫性や説得力がなければただの妄執であるように思えます。妄執が言い過ぎに聴こえるようならば、思い込みでもいいでしょう。どちらにせよ、それはどこまでも個人の価値観の発露であり、論理的根拠をもたないものでしかないように見えるのです。

そもそも、猫に生きがいという概念があるという発想に過剰な擬人化があってその時点ですでに首肯できないものがあるわけですが……。

かように坂東氏の「信念」は謎めいたものであり、坂東氏と東野氏の文章の根本的な問題点はおそらくことにあるのです。すなわち「信念」を絶対的根拠としたこと。
台が砂なら楼閣は簡単に崩れます。
そのことに、二人は思い至らなかったわけです。東野氏は猫に話し掛けたり、キリストの口真似をしたり「私は罪深い」などと言っている暇があったなら、「坂東眞砂子の猫たちが確保している『生』」とやらを無条件に前提化せず、その実体と理論的根拠をもっと考えるべきだったのです。坂東氏は猫を投げ殺す前にもっとも周りの人に自説を吹聴して、討議し、理論を詰めるべきだったのです。

なぜ親猫の生の充実を最大限に確保するのに、生まれた仔猫はゴミ同様の扱いをするのか? 
放し飼いという選択に社会的責任を果たせるものなのか?

このあたりを曖昧にしたままで、いくら日本社会の歪みや生命を所有する傲慢といっても、何の説得力もないのです。
 更なる発言の登場を希望します。