高畑勲『かぐや姫の物語』 あるいは、夢の、世界の、底の底の底。

あんたは今自分が十字路に立って進むべき道を選ぼうとしていると思っている。
でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。
選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから」
コーマック・マッカーシー『悪の法則』(黒原敏行・訳


「君の十年はどうだったね?」
宮崎駿風立ちぬ



       一

十一月二十三日、朝、立川シネマツーにて鑑賞。なんと客の入りは七割。同じスタジオジブリ作品の『風立ちぬ』が朝から満員だったのに比べて、これは一体どういうことかと思ったが、元々高畑勲作品は宮崎駿作品に比べれば集客は弱かったのだし、実に十四年もの昔となる前作『ホーホケキョ となりの山田くん』はジブリとしても記録的といってもいい不入りだったし、評判もすこぶる悪かった(そのせいもあって、個人的にも未だ見ていない。録画したものを見ようとしたのだが、最初の五分で再生を止めてしまった)わけで、その逆境を思えばむしろこれでも大入りといえたのかもわからない。
考えてみるとこの作品は期待材料よりも不安材料が多かったのだ。まず、『竹取物語』を原作とする、という、はっきり言って何の魅力も感じない企画、さらに、鳥獣戯画的な絵柄をアニメとして動かしているらしい、という実験アニメのような、そしてそれに何の意味があるのかわからないコンセプトの噂があって、そこへ『風立ちぬ』の冒頭におかれた予告編での、あの疾走の映像である。
確かに映像としてはとてつもなく衝撃的であり、作り手の狂気すら感じさせる迫力だったのと同時に、「『竹取物語』ってこんな話だったけ?」という困惑をもたらす映像でもあって、その後のテレビの特集等で断片的に見せられる本編映像が、原作そのままのような翁たち、あるいは、まるで現代劇のような少女の目覚めの場面の一コマ、そして、雪原に倒れ伏す少女と、総合すると一体どんな物語なのか全く想像ができないという、困惑に拍車をかけるものであったから、高畑勲という作家の偉大さ・非凡さをよくわかっている人でさえ(いや、わかっているからこそ?)、素直に期待に胸を膨らませて劇場に行った人は少なかったのではなかろうか。むしろ、何がおきても驚かないぞ、みたいな覚悟を決めていったのではないか。

そして、そんな不安が最高潮に達したのは、もしかしたら本編が始まってからだったかもしれない。具体的には、和紙の貼り混ぜ風の背景に製作スタッフを載せる簡潔で美しい冒頭部から、先行公開されていた竹林で翁が竹取をする場面が始まり、宮本信子が原作の文章をそのまま朗読しはじめたその瞬間である。ひょっとしてこのままずっと本編中ずっと原作朗読が流れ続けるのではあるまいか、と。

そんな観客の不安を知ってか知らずか、宮本信子は言葉を現代語に改めて最低限の語りしかしなくなり、いよいよ物語が本格的に動き出すわけだが、ここで注目すべきは、この時点ではほぼ正しく「竹取物語」であることだろう。竹取の翁が子供を授かった物語、ということである。だから、カメラは基本的には翁や媼の視点に近く、ほぼ保護者のそれとしてヒメを映しだしていき、「彼らにとっての大切な授かりものであるヒメ」という気分を観客もまた味わうことになる。だから例えば蛙を追いかけて縁側から落ちる場面などでの翁の動揺も観客は我がことのように感じられるし、翁と子供のヒメ・タケノコの呼びあいでの冷静に考えるとちょっと異常とも思える翁の執着もむしろあたりまえのように思えるだろう。

しかし、この作品が竹取物語であるのは大体ここまでなのだ。ヒメが映画独自の登場人物である捨丸たちと遊びだしたあたりから、映画は翁の目に映るヒメを追うことをやめて、捨丸ら子供たちの目に映るちょっと変わった子供であるタケノコを追うようになる(ヒメが捨丸たちと遊んでいることに気づかずに翁が動揺してうろうろする場面は、あとに続く「月からの仕送り」を受け取る場面へのつなぎというだけでなく、そのことを象徴的にしめしている)。このことは同時に、この作品が特定の誰かの立場に肩入れし続ける類の作品ではない、ということも示していて、上映開始当初の不安とは別種の不安――なにかとても観客を突き放した残酷な悲劇を見せられるのではないか――に観客を陥れることになるわけだが、その予感は一部当たりつつも、しかしそれはそれほど自覚されない。
というのも、眼前で展開される映像の美しさに見とれてしまい、野暮な予測などお門違いなぐらいのきもちになってしまうからだ。作画、スケッチがそのまま動き出したような作画のとてつもなさもさることながら、色彩がともかく華やかだ。最近のジブリの御世辞にも美しいとは言い難い色調とは一線を画した色遣いで、とくに作品全体を象徴するヒメの衣服の桜色の鮮やかさ、そして山の草木の緑の多彩さが素晴らしい(徐々にわかってくることだが、この多彩自体もまた映画の主題の重要な一部となっている)。
その素晴らしさは、極端な話、人間が一切出てこなくても、どんなドラマも存在しなくても、この映像美だけでも映画館で見る価値がある、それぐらいのものである。そして恐ろしいことに、この色彩美、映像美は映画が終わるまで途切れることなく続くのだ。
そんなこんなのうちに姫はタケノコのごとく育っていき、猪との遭遇とか、水浴びとか、瓜泥棒であるとか、雉獲りであるとか、「山」を体験していく。この物語のキーソングである「わらべ唄」の「鳥 虫 けもの 草 木 花」の世界を身をもって知っていくわけである。
その、順調に進行していたら「まわって お日さん よんでこい」となるはずだった体験の世界、ヒメの幼年の時代は、翁の都行きの決意により唐突に終了することになる。


       二

翁と媼に連れられて、ヒメの都の生活が始まり、ここでカメラは一番ヒメに近づく。といっても、あくまで客観であることは維持されるのだが、それでも、御簾を透かして屋敷の様子をうかがう場面に始まり、本編中もっともヒメに寄り添った映像が数多く展開されることになる。同時にこれは、これは必ずしも映画がヒメの物語になったことを意味しない。奇妙に平面的なデザインの指南役の相模や異様に画一的に描かれた沢山の使用人たち、そして作中で何年たっても容姿が変化しない女童などを見れば、これがある偏った視点からの世界だということは明らかなように、ヒメという人物の描写のひととおりは竹取の里ですんでいるから、ここではヒメ本人というよりはヒメの目に映った世界そのものを描こう、ということである。いうまでもなく、世界はヒメにはちっとも優しくなく、残酷ですらあり、ヒメの才能と持前の自由奔放さであってもどうにも対処しきれない醜悪な姿を現してくるようになって、映画は第一のクライマックスを迎えることになる。そう、あの疾走である。
意外にも、物語の流れの中で見たヒメの疾走は、予告編でみた時のような狂的な不気味さはなく、久石譲の、いい意味で久石譲とは思えないような鋭い音楽の効果もあって、押さえても押さえてもとめどなくあふれだす怒りと悲しみの場面となり、さらに、疾走に続く展開――生家に人手に渡っていたこと、捨丸たち木地師の一族は山を後にしたことを知ったヒメが、まるで安らぎの地のように雪原に倒れ伏す場面の、甘美なる死の誘惑の美しさは、動から静の転換の見事さもあって、怖ろしいほどだ。

そしてここで、映画は不思議な捻りを見せる。時間が戻るのである。

いや、正確には時間が戻ったというよりは、おそらくはあの浮遊する天人の使いによって、雪原で自暴自棄になっていたヒメだけが時間をさかのぼって(のぼらされて)、疾走する直前に戻されたというべきなのか。ともあれ、ヒメの少女の時代は肉体的にも精神的にも再び唐突に終了し、新しい時代を彼女は生きることになる。


       三

ヒメの新しい時代、それは「かぐや姫」の時代でもあり、大人の時代でもある。成人の証しとして眉毛を抜き(とはいえ、やはり絵的に見苦しいと思ったのか、後半さりげなくこの眉なし設定は消滅するが)、お歯黒もして(これもやはり、後半さりげなく消滅するが)、かぐや姫という名前にふさわしいような高貴の姫のように生き始めたヒメの視点や心情をカメラはもうほとんど代弁しない。御簾ごし掛けられる声からかぐや姫の真意をうかがう五皇子のように、凛々しくも無表情な面差しの奥に隠されたヒメの真意を観客は推し量るしかないのだ。おまけに物語は物語で大筋は『竹取物語』に従うふりをみせつつも随所で様々な変化を加えてくるから、観客は二重三重に思索を強いられるしかけで、この辺を面白いととらえるか、いかにも問題を解けと示されているようでお説教くさいと思うかで、あるいは評価は変わってくるかもしれない。
でもここは楽しんだ方が勝ちだろう。例えば、五皇子が不可能な探索行に向かわられる過程の改変の上手さをみるといい。原作では、かぐや姫自身が探索すべき宝物の指定をするところを、ここでは五皇子が軽々と口にしてしまったことを逆手に取るというかっこうになっていて、これはヒメの臨機応変の判断力を高さを示し、口にしたことの責任を取らせるという意味で原作以上に「誠意を試す」課題としての重みが増した、ということもできる。原作では、ひたすら嫌がらせ(断る口実)のためだけの文字通り無理難題とも取れるわけだが、この様にすることで、ヒメの要求の強引さを緩和しつつ、同時に五皇子の行動の極端さに説得力が増す仕組みである。ひとは他人に与えられた課題より、自分で言い出した課題の方がその解決に必死になるものなのだ。ヒメの賢さはもはや悪魔の域に達しており、そんなヒメを作り出した高畑勲の賢さはもはや魔王の域といっていいのかもしれない。

しかもこれは単に展開を円滑にして説得力を持たせるためだけの小細工ではないのだ。

原作では、一種独立した五つの短編のような五皇子の探索行(とその失敗)だが、五人が与えられた課題にたいして、かれらなりにどういう解決策を提示したか、をもう一度よく思い返していただきたい。

車持皇子は、虚言とお金もないのに作らせた宝樹。
阿倍右大臣は、お金を積んで買い取った偽の皮。
大伴大納言は、役に立たない武力と虚勢。
石作皇子は、説得力はあるが上っ面だけの誘惑。
石上中納言は、無駄な努力と無意味な死。

これ、その後ヒメが口にするキーワード「ニセモノ」が五人すべてを貫いているだけでなく、虚言でどうにかしようとする世界、お金でどうにかしようとする世界、力でどうにかしようとする世界、実態を伴わない理想が誘惑する世界、突然無意味に人が死ぬ世界、と五人で「この穢れた世界そのもの」を象徴しているのである。このあたりの隅々まで「息がこもっている」采配のうまさと構成の確かさは、高畑勲の真骨頂といってもいいだろう(頭から「せんぐり」に話を作っていく宮崎駿には絶対できない構成である)。

そして、さらにもうひとり、御門という怖ろしくゆがんだ外見をもった、権力ですべてを従えようとする世界の象徴の出現によって、ヒメの世界はいよいよ救いがないということになり、追い詰められたヒメは、故郷と捨丸に活路を見出そうする(なお、ここでヒメが捨丸に語る、「ちゃんと生きられる世界を選べたのに選ばなかった」という告白は、偶然にも同時期に公開されたリドリー・スコットの『悪の法則』の主人公に対する「おまえはもうすでに選んでしまった世界にいるのだ」という宣告と表裏一体をなしていると思う。ヒメは選ばないことを選んだために間違った世界に生きることになり、『悪の法則』の主人公は選ぶことを選んだことで間違った世界に生きることになるのだ)。
といっても、すでに手遅れであると知っているヒメは世界を変えることを望めるわけもなく、かくして、ふたたび世界からの脱出を試みることになる。今度は捨丸と二人で、「飛翔」というかたちで。

この「飛翔」の場面はしかし、素晴らしく手間がかかっているし、とても美しくはあるのだが、不思議と「疾走」ほどはインパクトはない。疾走と異なり、はじめから現実でないことが明確であるせいもあるが、それ以上に、ここでのヒメがじつはすでに諦めてしまっていることを観客にはっきり示してしまっている、という点があるいは高畑勲にとっては誤算であったかもしれない

というのも、二人がどんなに激しく大胆に飛翔しても、観客視点では、かれらが必ず失墜することがわかりきっているからだ。二人がどれだけ活き活きと飛んでいても、その最高潮の瞬間、巨大な月が監視役の如く出現した時に、これは絶対墜ちるな、と思えてしまう。言いかたをかえると、月の出現に対し、ヒメがそれにも動じずに飛んでいけるのではないか、そんな期待を観客が持てるほどの強烈な勢いに満ちた生への情熱を画面に満ち溢れさせることはできていなかった、ということである。それは、いくら若々しくても七十代後半の監督にしてみれば――これは『風立ちぬ』における宮崎駿にも言えることだが――生より死への情動のほうがより身近に、力強く、もしかすると魅力的にすら感じられる、ということであるのかもしれない。

ともあれ、ヒメの大人の時代は、ふたたび無難なかたちに「再配置」され、またも唐突に幕を下ろす。そしてついに、「死」がやってくる。


     四

そう、死は文字通り「やってくる」のだ。それは阿弥陀如来の来迎図そっくりの姿で。そして人類が想像しうる最悪最強の悪夢の如く、圧倒的にのどかで華やかで軽やかで美しくそして優しい「天人の音楽」(字幕版の表記によれば「楽の音」)を奏でながら。

正直にいうと、最初このどこからどう見ても来迎図な絵面には、その音楽の良い意味での不整合感以上に面食らったことは確かである。ヒメの周辺を飛んでいた天人の使いの深海生物ふうの動きと色彩からして、なにかこう名状しがたい、海の底の都から来たような感じのおそろしいデザインの方々がやってくるか、竹取物語絵巻そのままの人々がやってくるかと思っていたからだ。主題的にはもちろんまったく間違っていないのだが、しかしそこまで親切に絵解きする必要はないのではないか、という気持ちは実はいまもあったりする。
しかし、この来迎とヒメの帰還に至る場面自体はそんな欠点を些細なことにしてしまう勢いで素晴らしい。突然、慈悲なく、容赦なく、無感動にやってくる死というものの恐ろしさを、まったく恐ろしくない雰囲気のなか、死そのものを一切描くことなく、なおかつこれでもかというほど強烈に描き出したアニメーション作品はかつてないのではないだろうか。実写作品だとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』あたりが、これと似たような発想と描写をやっているが、全編がブラックユーモアに満ちた同作と本作とでは受ける衝撃の度合いが違うだろう。

そしてヒメが最後にまた話し出す。ここもまた親切すぎるといえば親切すぎると思わないでもない。「わらべ歌」の詞をもう一度言わせて、そこからの立ち切りをやりたかったのはわかるけれども、もっと大胆にぶった切って終わっても観客には充分つたわったのではないか、高畑の最高傑作である『火垂るの墓』はそういう多くは語らない手法を採ることでより多くを語れていたのではないか、と。
しかし、たぶんそのことは高畑も百も承知なのだろう。だから、映画は最後にもう一つの動きを付け加える。記憶を抹消されたヒメが地球を見て、(おそらくわけもわからず)涙を流す。これは直接的には、ヒメがそもそも地球に下ろされることになった原因(罪を犯した相手)である、わらべ歌を歌っていた天女と同じ境遇になったことで、またヒメのような新しい罪人の誕生する可能性を示唆しているわけだが、もうひとつ、重要な意味があるように思う。

実は、この映画、ヒメの地球での行動は正しかったのか、間違っていたのか、記憶をなくしたヒメは幸せなのか不幸せなのか。そうした問いかけに対して、はっきりとした答えを用意していない。各種インタビューでは、高畑勲は明確に「ヒメは間違った生を生きたのだ」と言っているが、ただ間違えたというだけの話なら、その記憶が抹消されたことによって、すべては灰色に、すべては平穏になる筈なのだ。しかし、ヒメは涙を流す。
だから観客は考えなければならない。その涙の理由を。

はっきりしているのは、ある純粋な魂が穢れた世界を生れて死ぬというかたちで旅をした、ということだけ。つまりそれは人間の生そのものであり、観客の一人ひとりであり、高畑勲そのものである。考えて見ると高畑の作品はずっとそうだった。また、『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』を思い返してみるといい。それらもまた、ある種純粋な魂(必ずしも善や正義を意味しない)と、「穢れた世界」の物語だ。そして、その穢れの中で生きていくか、それを拒絶し、純粋のうちに死んでいくか。それは、どちらも正しく、どちらも間違っている。誰にとっても正しい人生などというものはなく、そこに「正解」はない。そういうことではないか。

これが例えば宮崎駿なら、ある種自分の中にある信念や願望の強さをもって一つの指針、手繰るべき糸とするのだろう。『風立ちぬ』というのはまさにそういう映画だった。だが、高畑勲はそこにすら疑問符をつける。ヒメの行為に正解がないように、翁にも、媼にも、捨丸にも、五皇子にも、御門にも、そして月の天人たちにも、正解はない。高畑勲は自分の選択の正しさを信じない。高畑勲は正解の存在を信じない。
そのどこまでも迷い続ける心のざわめきが、涙となってヒメの頬を伝うのだ。




       *

最後に、俳優陣についてちょっと触れておきたい。主演の朝倉あき地井武男をはじめ、違和感のある芝居をしている人が誰ひとりいないという鮮やかな配役だが、特に上川隆也の石作皇子は出色で、大真面目に目をキラキラさせているのになにかいつも胡散臭いようなこの人のキャラをここまで完璧に引き出したことはなかったのではないか。伊集院光橋爪功も本人がそのまま実写で出ても違和感のないような面白さだが、それでいて役者の知名度に頼ったつくりでないのが凄い。
しかしひとつ気になることがある。物故した地井武男の代役として一部で三宅裕司が翁の声を当てているらしいのだが(それがクレジットの「特別出演」の理由)、それと知った上での二度目の鑑賞でもどこが三宅パートなのかさっぱり判らなかった。
もっとも、それと判るような代役なら監督がOKを出さないだろう、という説もあり、言われてみるとそのとおりであって、判らないのが正しいのかもしれないが、それでもやっぱり気になります!