細田守『未来のミライ』の未来について。

さて、細田守監督最新作である。
正直、呆然としてしまった。映画の幕が下りた時、当惑と混乱だけがそこにあった。観ていて全く楽しくなかったにもかかわらず、もう一度劇場に向かってしまうぐらい、そこには謎ばかりがあった。

時をかける少女』で大舞台に颯爽と登場して、皆の期待を(アニメファンだけでなく、業界関係――特に金曜ロードショーで放映するアニメ群にスタジオジブリ作品以外も付け加えていきたいテレビ局とか――のも)一身に受け、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』と新作を出すたびにそれを順調に下方修正させてきて、前作『バケモノの子』でいよいよその貯蓄が尽きた感があるけれど――おおかみおとこの貯蓄と違って、大抵の貯蓄には限界があるのだ――、本作において細田守はそういう期待(の欠如)をはるかに上回る達成を見せた。これは別に、「ゼロより多く」や「マイナスより多く」が簡単であるから、というような嫌味ではない。はたして誰がこういう作品であることを予想できただろうか。いったい誰が、「宮崎駿に続く国民的アニメ作家」になる予定のアニメ監督・細田守の手になる、この、子供を主人公にした最新作が、『となりのトトロ』でなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』になることを予測できただろうか。
話が先走り過ぎた。順をおって語っていこう。



●『未来のミライ』の物語の物語

物語自体は至極わかりやすい。四歳の「くんちゃん」(本編中では出てこないが、太田訓というのが正式な姓名であるらしい)が、妹の誕生を契機にした家族内での自分の立ち位置や役割の変化に戸惑い、それに呼応する形で自宅の中庭が様々な時代におけるくんちゃんの一家一族の過去や未来をかれに見せていく、というもので、『千一夜物語』以来の枠物語形式の作品群の末端に位置するという事が出来て、特に、その教訓的な要素の強い構成から「クリスマス・キャロル」を連想する人は少なくないはずだし、各話が大枠の物語の明確な反映として創出されるという構造は近年の傑作『怪物はささやく』辺りを連想する人も多いに違いないが、ここで注目すべきは、類似作では基本的に自明として成功している大枠と個別話の連動が上手くいっていないどころか、破綻すらしている、という点にある。
例えば「第一話」を見てみよう。くんちゃんが擬人化しくたびれたおっさんになった犬の「ゆっこ」(雄なのに何故この名前かというと、どうやら細田家の犬がその名であるからしい)と出会うこの話において、そこまでにくんちゃんが見聞き体験した事や手にした絵本の内容に応じて中庭が様々な幻想を見せる――犬の過去の記憶にあるらしい場所に変容したり、犬が人になったり、人が犬になったり――という、全体の方向性が一応示されるわけだが、いきなり「実際はどうだったのか」がよくわからなかったりする。というのも、くんちゃんが犬になって暴れたあと親たちが「さっきは大暴れして」みたいなことを言う場面、その言葉からすると、あれは第三者の眼には単にくんちゃんが犬みたいな仕草で家じゅうを荒らしまわっているだけに見えている、ということになりそうだが、二度目見る人はその直前の親たちの反応をよく見て頂きたい。かれらは暴れまわるくんちゃんを見て「ゆっこ」だと思っているのである(そういう台詞がちゃんとある)。ひょっとすると「ゆっこの真似をしているくんちゃんを気遣って、どう見てもくんちゃんにしか見えないがゆっこ扱いをしている」という可能性も無きにしも非ずだが、狂人の真似といえど大路を走れば狂人であり、犬の真似でも家の中を荒らしまわってるガキは捕まえて叱りつけなければいけないだろう。これが本当に犬なら多少のことは甘く見るべきだけれども、結局その辺りはうやむやで、観る者の認識に宙ぶらりんにしたまま「次の話に続く」となってしまう。これが意図した攪乱ならばたいしたものである。
この辺り、宮崎駿が『となりのトトロ』などにおいて「子供の目に映る世界」として幻想的情景を持ち出すのとは、正反対であることはよく注意しなければならない(意識的なパロディなのか、『未来のミライ』にも妙に『トトロ』と似た場面はあったけれど)。
ちなみに宮崎はその後『風立ちぬ』においてもやはり幻想と現実が交錯する物語を綴っているが、この幻想もやはり二郎という一種子供の視点による世界の捉え直しにほかならず、その意図は一貫している。
しかし、細田守の世界においてはそうではない。幻想は、子供が見たいものではなく、子供に見せたいものが現れる。
しかもだ。この挿話における幻想的要素が物語上どういった意味や情報があり、くんちゃんに何を教えたかというと、これが凄い。「この家の大人は、子供が出来た途端、それまで可愛がっていた犬の扱いがぞんざいになる。子供だって下の子が生まれればそういうことになる」という恐ろしくも厳然たる事実をまえにして犬や子供にできることはなにひとつなく、とりあえず暴れて騒いで寝ましょう。
つまり、お酒で憂さ晴らしする残念な大人の生き方を推奨する話なのだ。
そして(ある意味当然だが)ここで得た教訓をくんちゃんがこの後の物語で使うことはないし、使わない事について何の意味も与えられない。


●『未来のミライ』の不思議な美術

二つ目以降の物語について触れる前に、もう一つ重要な要素について語っておきたい。
それは家である。これは家族とか家庭といった抽象的な意味でなく、一個の建築物としての家である。これが凄い。それは感覚的にというと『キューブ』とか『バイオハザード』とかにでてくる施設に近い家である。人が住む家ではない。
具体的に見てみよう。こんな間取りである。この図面でも十分異常な事が解ると思うが、実際に映画を見て、その凄さを味わってほしいのココロ。

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画像① 太田家の間取り図
各部屋移動がほぼ全て階段経由という時点で、この家がバリアフリーという概念が存在しない世界に建てられていることが判るが、単に老人と子供と体の不自由な人にやさしくないだけでなく、階層差はあっても各階に仕切りの壁が無いという設計により、数メートルの高低差をけっこう気軽に体験できる仕掛けになっていて、くんちゃんもミライちゃんも無限の平行世界のあちこちで転落死や骨折をなんども体験している可能性がとても高い。妊婦なども暮らしていたことを考えると惨劇の種は全く尽きない。
また、地下室的な位置にある子供部屋にトイレが無いというのも、なかなかに味わい深い作りで、便意を催したら、子供部屋を出まして、あれから階段を昇りまして、中庭に出まして、そこは一応屋外なので靴やサンダルを探してきまして(出入り口にそのようなものは一切置いていない)、
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画像② スリッパ等の中庭用の履物の無い中庭への出入り口。
それから中庭の階段を昇りまして、あれから食堂に入りまして、また階段を昇りまして、あれから居間を通りまして、またまた階段を昇りまして、今度は両親の寝室を通り抜けまして、奥の扉を開けまして――この扉に鍵がかかるのか、とても気になりますが――、洗濯乾燥機や洗面台の並ぶ部屋の片隅に置かれている便器に辿り着いた頃には、もうみんなずいぶんくたびれた。
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画像③ 洗濯乾燥機と洗面台と便器のある部屋。
実は今回、細田守はこの物語のために建築家(谷尻誠)を雇って、「太田家」の住む建物をわざわざ設計させている。しかもこの家は、くんちゃんの両親が結婚してあの土地に住み始め、くんちゃん誕生に合わせて、くんちゃんの父親が自らの設計によってその時あった家を全面改築して、あの家になっている、という設定である(この辺りは冒頭ではっきり描かれているのだが、山下達郎の主題歌を流し、スタッフ容器を横でガンガンが流していくという二重三重に気の散りやすいという、見る側にやたらと負担をかける見せ方をしていて(エンドロールなどでよくあるやつだが、冒頭でこれをやるのは珍しい)初見でうまく飲み込めなかった観客が結構いたのではあるまいか。この無神経さもある意味ととても細田守らしい、とはいえるけれども。

つまり、よいかな、有名な家とか建築をたんに流用したとかではなく、あの物語のために必要なものとしてあの家を生み出したのだ。そして、よいかな、「子供ができて、子供と暮らすことを前提した」家が、あれなのだ。これはとてつもないことではないだろうか。

こんな家を設計する父親が子供や祖父母をやたら生命保険に入れようとしている、という裏設定があってもだれも驚かないはずである。

 他にもどこをどう見ても呼び鈴もインターフォンも無いという、世間とのかかわりを拒絶するような、でも作中では普通に呼び鈴が鳴っていたりする謎の玄関口とか、

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画像④ 呼び鈴の無い玄関
その玄関口に行く唯一の方法でありながら、雨が降ったら水浸しになること確実の、中庭からの階段とか、
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画像⑤ 奈落の底へ向かうかのような玄関口
左右スピーカーの間にはアンプやデッキの類はどこにもなく、変わり奈のかよくわからないがぽつりと置かれているラジカセとか、
 
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画像⑥ スピーカーラジカセスピーカー
あるいはカーテン一枚吊るせそうにない窓枠(冒頭の場面のように、雪でも降ったらさぞや暖房費がかさむに違いない)とか、
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画像⑦ カーテンの吊るせそうにない窓枠。

見れば見る程、実は異世界転生ものなのではないだろうかと思えてくるぐらい現実離れしている家なのである。これ以上の追及は、読者の皆様の発見の喜びを奪いかねないし、あとはそれぞれに「掘って」いただきたいとおもうが、ここで、念の為に言っておきたいのだが、これは決して設計した谷尻誠が悪いという話ではない。建築家とはとかく珍奇な家を作りたがる生き物である。悪いというのなら、これを了承した監督が悪いのである。

もう少しいうと、この異常な家の構造は、必ずしもその事自体が悪いわけでもない。異常な構造の家が、そしてこの家に代表される異常な美術設定が、物語や登場人物の性格描写において、ちゃんと意味があるならば、それはむしろ称賛すべき個性的な仕事と言えるのである。

しかし残念ながら、これがまったく意味も理由も無かったりする。少なくても、合理的に解釈できる次元においては。

この特殊な構造の家を建てた特殊なお父さんの人格を追求するわけでもないし、特殊な構造の家を建てた特殊な構造の頭のお父さんを容認している特殊な構造の頭のお母さんの人格も追及されない。前述の通り、独立した個室として存在しないトイレや、完全ガラス張りで居間や食堂からの監視は完璧な造りの子供部屋といった、人の尊厳という概念を真っ向敵視するような特殊な環境に育つことでくんちゃんやミライちゃんがどれだけ特殊な人間に育っていくか、といった事も追及されない。むしろ物語上は、小金持ちではあるが最大公約数的な家庭として描かれており、この特殊な構造の建造物をのび太くんやサザエさんが住んでいる家と交換したとしても、くんちゃんたちが階段を上り下りする事で生じるちょっとしたダレ場の減少以外には、物語の大勢に変化はないはずだ。

もっとも、そのような事をしたら、その辺の小さな公民館並の冊数の児童書や部屋を埋め尽くす規模のプラレールが無くなってしまうわけで、くんちゃんもミライちゃんもかなりがっかりするだろうとは思うけれど。


●『未来のミライ』の未来のミライ

さて、二つ目の物語において、本格的に登場する、「未来のミライ細田家の訓氏の妹さんがこの名前なのかは知らない)」さん、最も重要であるはずの題名のキャラクターの話題がなんでこの中途半端な位置かというと、まさにそういう立ち位置だからである。全体の中心に一応いるが、いるだけだから。

だってそうでしょう。四歳児にその「未来の」という概念と言葉が発想、理解できるのかはともかくとして、予告編でも事前の各種宣材でも大々的に扱われ、殆ど主人公みたいに映画ファンの目には映ってきたキャラクターですが、出てきてみると、雛人形を早く片付けないことで婚期が遅れることを心配するという昭和の老人みたいな思考の中学生である。人間は生まれた時代を超えて古臭い偏見に囚われ続けるという風刺的な意味あいがあるのかもしれないが、正直あまり面白くない。アニメ的な盛り上がりが全然ないものだから「だるまさんごっこ」でアニメっぽさを演出してみただけ、と言われた方がむしろ納得できる。そしてここでも忘れ去られる「実際はどうなっていたのか」という視点。まさかくんちゃんが説明書を読んで一人で全部片づけた訳ではあるまい。犬にしてもこの未来のミライにしても、自分の置かれた状況に全然違和感を覚えていない辺りは、いかにもだれかの空想らしくみえるし、未来のミライ登場の直前に「恋する中学生女子」(この伏線的な場面の絵面や動きは、深夜アニメでもパロディ的にしかやらないような類型描写で、ある意味ぎょっとします)が唐突に出てくるので、物語上もそれを示唆しているといえない事もないのだが、これがだれかの空想だとすると「蜂ゲーム」とか一体どこから出てきたものなのか、恐ろしくて思考が停止する。

いっそのこと、「未来の」ミライさんはだれかの空想ではなく、なんらかの力によって召喚された本物の未来のミライさんだとしてくれたほうが、自然に受けいれられるような気がするのだが、そうだとすると、今度はそのミライさん自身がどうして自分があちこちに時間移動しているのを自明のものとして受け入れているのかがよくわからなくなるわけで、ここでもまた物語は、観客を置き去りにしたまま、一人納得して――あるいは納得したふりをして――どこかにいってしまう。
そのうえ、この出来事がくんちゃんに何かの教訓を与えるかというと、やはり別にそういうことでもなく(だってくんちゃんが頑張って雛人形を片付けたわけでもないから。本人的にはただ「だるまさんごっこ」をしただけである)、かくして、この挿話は、未来のミライの紹介としてもくんちゃんの学習としてもなにひとつ役割を果たさないまま幕を閉じ、映画は次の挿話に続いてしまう。


●『未来のミライ』の限定的な過去

そして遂に、この不思議な力を秘めた謎の中庭は、過去について語りだす。一つは母親の、もう一つは母方の曾祖父の過去を。申し訳程度に未来のミライを先遣にして(といって、ここにも別に合理的な根拠が与えられるわけではない。何となく出てくるだけである)。
この時、母方の祖父母、父方の曽祖父、祖父母などは存在しないかのごとき扱いであるが、それをやると映画がどんどん長くなるし、清水義範ふうにまとめれば「いろいろあった」ということなのだろうから、そのことは決して問題ではないだろう。しかしながら、過去の歴史という厖大な蓄積の中から、くんちゃんのために選びに選び抜かれたふたつの過去の教えてくれることが、まず、幼少時の母親からの「欲しいものがあったら執拗に手紙を書いてねだろう。母親が猫アレルギーでも猫を欲しがろう。おばあちゃんに圧力をかけて!」という徳の高すぎる主張であったり、「散らかっていると楽しいから、どんどん散らかそう。泥棒が入ったか、特高が家探しをした後みたいな状況になるくらい破壊的に散らかそう。そうすると後で思いっきり怒られるよ!」という別に教えられなくてもわかる事例であったりするのは、その選別眼に疑問を投げかけざるを得ないし、曾祖父(福山雅治が意外なくらい好演)が教授する、自転車の乗り方について精神論――その精神論重視の思考が特攻隊に直結しているのではないかという点も引っかかるけれど――そもそも自転車の乗り方はお父さんが教えなければならないことであって、わざわざ過去に教えてもらう必要がなさそうなのは、やはり問題視せざるを得ない。特に後者のほうは――これはあとあと明らかにされるが――くんちゃんの父親は、自転車に乗れるようになるのに非常に苦労しており、それゆえ、自転車を人に教える事に関しては苦労の経験者として福山雅治の曽祖父より有効な助言が出来そうに思えるし、そういう手続きをちゃんと踏んでこそ、ようやく親らしい顔が出来るというものではなかろうか。しかしながら、この物語にあっては、くんちゃんが一人で頑張ってすごいすごーい、という奇抜なオチになる。
このあたり、親とは子供が勝手に成長しているのを手柄顔で喜ぶズルい生き物である、というさりげない嫌味であるという可能性も否定できないこともないが、過去の細田作品全てがそういう複雑な主張が隠されている可能性に対する反証として有効に機能するし、この作品だけを見ても、やはり「可能性はあっても限りなくゼロに近い」という結論になるに違いない。というのも、最終盤に再び登場する過去の出来事(第三話、第四話の続編的位置づけである)において「過去があるから現在がある」という、一足す一は二であるというのと何も変わらない主張が直接言葉で語られ、つまりあそこで語りたかったのは、本当に表面的な話だけなのだ、という事が明確になるからである。

ちなみにここで未来のミライの口を通して語られる過去の積み重ねの先にある現在という理屈は、完全に正しいが、同時に、完全に間違っている。「曾祖父が生きていたから今の子孫(くんちゃんやミライ)がいる」というのはその通りだが、「曾祖父が死んでいたら、曾祖母は別の人と結婚して、その子孫が現在にいる」可能性が高いので、それはそれで「過去の積み重ねの先にある現在」なのだ。一足す位置が二であるのが真であるように、一足す二が三であるのもまた真であり、どちらが正しいという話ではない。

いうまでもなく、主張の幼稚さや単純さは必ずしも作品を貶めない。だがそれをただ言葉で説明したり、説明したことが説明になっていなかったりする幼稚さや単純さは、間違いなく作品を貶めるだろう。


●『未来のミライ』の中庭とそこに生えた木の謎

いよいよ最後の物語について語るのだが、その前に、この作品が内包する謎について触れなければならない。この作品にはいくつもの謎がある。それも作品内では解けない(もしくは明かされない)謎が。

既に述べた、なぜこの家の父親はあのような常軌を逸した家を設計したのか、というのもその一つである。ただしこれは、追及してもサイコサスペンス寄りの解釈にしか進まない気がするので、おそらく監督・脚本・原作の細田守も喜ぶまい。作り手に嫌がらせをすることは本稿の狙いではないのでここは不問としておきたい。
そこで、より中心的な事柄について語ろうと思う。物語の中心にあり、物理的にも、あの特殊な構造の家の真ん中という、文字通り物語の舞台の中心に存在している、中庭とそこに生えた木についてである。あの中庭は、そしてあの木は、はたして一体何であるのか。

作劇的に言えば、それはいうまでもなく舞台装置である。くんちゃんを(そして未来のミライを)それぞれの物語へといざなうための、どこでもドアならぬ、どこでも中庭である。「魔法使いハウルの動く城」の四色の円盤のついた扉みたいなものである。問題は、この装置が何をするものなのか――くんちゃんの空想を具現化するものなのか、擬似的な過去や未来に現出させるものなのか、あるいは本当の過去や未来に通じる場所なのか――、そしてそれがどんな理屈で動く装置なのか――くんちゃんの無意識に反応しているのか、「未来のミライ」の願いをかなえているのか、子供の情操教育をさぼりたい親たちの期待に応えているのか――がさっぱりわからないことにある。

もちろん、映画としては、、一応の答えは提示される。未来のミライは言う。木は家族の歴史の図書館のようなもので、葉の一枚一枚がインデックスのようなものだ、と。

しかし、この説明で納得した人はどれだけいるのだろう。むしろ謎が増えたと感じた人の方が多いのではないか。
あの家族はあの木の近くにずっと住んでいたというのでもないのに、どうしてあの家族の過去が記録されているのか。大体、あの木はそれほど樹齢が高いわけでもなさそうなのにどうして戦時中の事まで記録できているのか。父親が自転車を乗れなかったこととか、木が知っているとしたらそれはあの家に住んでいる本人の記憶から読み取ったという可能性ぐらいしかないが、そうすると曾祖父の海で死にかけた記憶やかけっこの記憶はどうしたのか。家に来た家族の記憶をいちいち読み取って保存しているのだとしたら、それは家族の記憶の蓄積庫でなく、来客全ての記憶を保存しているのではないか。となるともはやあの木は家族の歴史庫という程度でおさまる存在ではなく、近隣住民関係者全ての記憶や過去をどんどん読み取って収集する情報図書館なのではないか。そもそも、中庭に生えているただの木(作中の説明によれば、あそこが普通の建築の家の庭だったころから一応映えてはいたようだが、樹齢百年とかそういう規模の木ではない)がどうしてそのような力を持っているのか。しかも、あの木は「未来」の情報も持っているのであるから、時空を超えた存在なのではないか。いや或いはあれはただの木ではなく、なにか特殊な木なのかもしれない。いやひょっとしたら木の形をした何か別の生命体なのかもしれない。梟が見かけどおりでないように、中庭の木もまた見かけどおりではない、というような。
と、いくら考えても答えは出ない。

そしてなにより、なによりである。未来のミライさんは何故そんな木(あるいは木のようなもの)の秘密を知っているのであろうか。

これが全てくんちゃんの空想であるとするなら、話に脈絡が無くても、ご都合主義の塊でも、未来のミライが唐突に「真実」を語りだしても、大した問題ではないかもしれない。この一連の出来事全てがあきらかに四歳の子供の想像できる範疇をはるかに超えている、というぐらいのことは、瑕瑾にすぎない。
もっともそうすると、「過去から全て繋がっている、積み重なっているから現在がある」といったような、この物語が語ろうとしているはずの教訓じみたものが全て四歳の子供の単なる空想に基づいているということになって、作り手としてはだいぶ具合が悪いに違いない。

とはいえ、あの中庭と木が見せるものが実際の過去であったのだということにしてしまうと、それはそれで非常に厄介なことになったりする。

最後の物語を思い出していただきたい。
過去が実際の過去ならば、あの東京駅と遺失物係、そしてバケモノ新幹線(「ひとりぼっちの国」行、である――単身者や孤児への差別・偏見が常識として根づいた世界なのか?)もまた、実際の未来であるはずで、つまり未来のどこかにあれが実在するということになるのである。おまけに、あの東京駅は、赤ん坊のミライをわざわざ過去から攫ってきて「ひとりぼっちの国」に連れて行こうとしているのだ。暗黒の未来どころのさわぎではない。魔界化した未来なのである。

もちろん、映画としては、あそこにあの挿話がある理由は至極明解であって、要するに「くんちゃんに『ぼくはミライちゃんのおにいちゃんです』を言わせるため」というそれだけのことに尽きるのだけれども、そこまで映画的都合を優先したいのならば、未来のミライさんにインデックスだのなんのと説明台詞を吐かせることは自粛すべきだっただろう。それならばまた夢に出来たはずなのである。雉も鳴かずば撃たれまいに。

それにしても、そういう恐怖体験を経て、大人の階段を一歩登ったらしきくんちゃんの「覚悟」が「ズボンの色へのこだわりを捨てること」であるというのは、観る者に徒労感を与えるのに非常に効果的な役割を果たしているけれど、しょせん四歳児、無意味なことにも誇らしげ、とわざとやっている可能性は、それこそ決して否定できないし、全てを計算しつくした天才の所業である可能性もまたあるかもしれない。
普通に考えれば、どうせ乾燥がちゃんと終わっているのだったら、折角の楽しい家族旅行なのだから、好きな色の服で行けばいいじゃないかと思わないでもないし、そもそもあの親たちは、乾燥機に服を放り込んだまま出かけるつもりだったのだろうかとか、本筋以外のところで気になることの波状攻撃を一向に止まなかったりもするわけだけれど、そのころには観客にもはや突っ込む気力は失せており、映画は再び山下達郎の歌と共に幕を閉じる。あの中庭と木が、あの家族に一体何をしたかったのか誰にもまるで見当がつかないままに。

こんな感じで、映画を観た直後は、さながら出来の悪い夢を見たときがそうであるように、一貫した意味や主張を持たない内容を咀嚼しかねていたのだが、ふと気がついたのは、『バケモノの子』を観たときは、ようやく砂を噛み終えたな、というか、ひたすら空虚で空疎な感慨を覚えただけで、観たものを再検討しようなどという頭の働きは全く無かったのだから、今回のこの「刺激力」は立派な成長なのではないか。

映画で描かれている内容はここまで指摘した通り、いままでどおりに、いかにも細田守らしい空虚で空疎なものなのだが、物語と観客とのあいだにくんちゃんを置くことで、実は大きく意味が変わっている。
そう、今回はその空虚で空疎な世界に正面から向き合うものがいるのだ。くんちゃんのモデルである細田訓氏が細田守の子供であるという「現実」に惑わされてはならない。この四歳の子供はただの四歳の子供ではない。この四歳の子供は、アニメ映画の監督でもある四歳の子供なのだ。
そう考えると、空想的に描かれている内容がちっとも四歳の子供の空想らしくない(どころか、おそろしくおっさんくさい)ことも、妙に説教臭いことも、親が全然親らしくもないどころか、むしろ親失格のようにすら見えることも、すべて筋が通る。また、「同じ空間に違う時代の同じ人物がいる事は出来ない」と前半でわざわざ強調して一貫した法則と思わせた設定が話の都合でさらりとなかったことになる図々しさも、ただの子供に出来ることではない。全ては四歳の子供である細田守が見た(見たい)世界であり、その世界が見せる(見せてほしい)幻想であり、現在であり、過去であり、未来なのだ。

ここで、ようやく冒頭に挙げた庵野秀明による二千十二年の作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』とのかかわりについての話になる。(一応警告しておくが、同作を見ていない人がもしいたとしたら、この次の段落は遠慮していただきたい。完全に作品のネタバレをしてしまうから。)

この奇妙な映画の、十四年間眠っていて、しかも「エヴァの呪縛」により見かけもまったく変わらないまま、世間の流れに完全に取り残されている、という主人公碇シンジの姿は、『END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(千九百九十七年)から。本作『Q』の制作が本格的に再開したのであろう二千十一年までのほぼ十四年間、「皆の求めるエヴァンゲリオン」に携わっていた庵野秀明自身と露骨に重なるように作られている。それまでの十四年間(つまり『序』と『破』である)は、ひたすら、皆が喜ぶような未来を求めて、シンジは自身の意思や希望ではなく、皆の願いのためにそこにいた(特に『破』においては「周囲の期待に応えよう」という意識が、作品をほとんど同人誌化させていたことは、以前指摘したとおりである)。
だが、『Q』において、碇シンジ=庵野秀明は、ふたたび、自分の手で、自分の意志で、自分のエヴァンゲリオンを動かそうとする。そうしてそのとき「大人たち=外野の人々」はあからさまにシンジの意志と行動を否定し、お飾りでいることを求め、それを強制しようとする。自分の主張などするな、引き続き皆の求めるエヴァンゲリオンの乗り手であれ、と。
それに対し、シンジがどうふるまったのか、『Q』が語るのはそこであり、その時、『エヴァンゲリオン』は再び「庵野秀明の物語」になったのである。この映画が公開当時から、賛否両論――というか否の方が多いような状態――だったのは、この、物語の本質的な筋立てを、読み取れない人が多かったせいであるだろう。もっとも、そこを読み取れたところで、映画として面白くなるか、というと、微妙なところではあるのだが、しかし少なくても「意味不明」という事はなくなるし、エヴァンゲリオンとはもともとそうした物語であったのだ。横道から本筋に戻った事は、祝いこそすれ批判するような性質の事ではないはずなのである。

未来のミライ』において細田守がやった(もしくはやろうとした、はたまた、やってしまった)ことはおそらくこれなのだ。これは「未来のミライ」ではない。「現在のマモル」なのである。現実の細田家由来と思われる要素がむやみやたらとあるのも、それを示すためなのだ。ことここにいたって、かれはついに自身の作家性、あるいはその欠如と全面的に向き合おうとしたのである。未来のミライさんがちっとも重要な役割を与えられないのも当然のことで、くんちゃんは自分のことでまだまだ精一杯なのだ。その精一杯の努力の結果がたとえ好きな色のズボンを穿かない程度のことであっても、人類にとって、そして観客にとって、それがとても小さな一歩だとしても、くんちゃんにとってそれはとても大きな一歩なのである。
これは、括目せよ、というほどのことではないかもしれない。しかし、そっと見守るぐらいのことはしてもいいのではないだろうか。かれがまた『バケモノの子』の方向に戻ろうとしないことを願うばかりである。

なお、日本のアニメの未来に向かう一歩なら、『聲の形』や『リズの青い鳥』といった山田尚子作品、『思い出のマーニー』や『メアリと魔女の花』の米林昌弘作品に、それがあるように思えるわけだけれど、それはまた別の話、別の機会に話すことにしよう。

新海誠『君の名は。』のSF方面における諸問題。

くどいようだがまず確認をしておきたい(検索等で間違ってきてしまった人もいるだろうから)。本稿は『君の名は。』を鑑賞した人に向けて書かれている。したがって、中盤の展開どころか終盤の内容までの一切全てがなんの警告もなく言及の対象になる。
ようごさんすか?


では。


『転校生』系列の入れ替わり青春コメディと思わせて、その実態は時間SFでもあった『君の名は。』、その感想は人によって異なるだろうが、おそらく或る一点においては万人が共有するところがあったに違いない。それは、登場人物たちによる時間の移動と歴史の改変に伴って発生する矛盾、すなわちタイムパラドックス関係の処理ーー事態のおさまりどころがよくわからない、ということ。この「わからない」という点については、なにか釈然としないがそういうものと受け入れる、というものから、矛盾だらけでSFとして落第だ許せん、と怒る向きまで様々な反応が考えられるけれど、少なくてもすっきり納得ずくであの結末を受け入れられたという人はおそらくいないはずである。そういう人がもしいたとしたら、それは単に問題の存在に気づいていない人である、というだけのことであって、問題自体が存在しないということではないのだ。

では、作中の出来事、それも時間絡みの要素について、順を追って検討していこう。

冒頭、序章的な位置づけで、主人公らしい二人の東京での暮らしが描かれ、ここからの回想的な――「的な」とわざわざいうのは、本編との明確な関連性がついに示されないからである――かたちで本編に入り、見る側を混乱させる以外は、さのみ意味がないジャンプカットをつかって「田舎の高校生女子・三葉の肉体に精神が入り込んだ東京の高校生男子・瀧」と「瀧の肉体に精神が入り込んだ三葉」が連続して描かれ、この二元中継で物語は本格的に動き出す。映画のこの時点では明かされない設定として(それを暗示する手がかりもほとんどないが、別にそれは悪くない)、この二人の属する時間には実はほぼ三年のズレがあり、これが往年のビル・S・バリンジャーか折原一かという、驚きを伴った中盤の転調の仕掛けを形成するわけだけれど、ここで注目すべきなのは、この時点では二千十三年の三葉と二千十六年の瀧の精神の行き来は、本人たちがなぜか全くその年月のズレに気づいていないせいもあって、タイムパラドックスを引き起こすような過去と未来との間でのあってはならない情報や文物の移動は、一応なされていないようにみえる、という点。時間経過がほぼ同一で、たとえるならば梯子の右の縦木を瀧が進み、左の縦木を三葉が進み、それぞれ横木の部分で意識の入れ替わりが起きるといった状態なため、梯子には歪みが一切生じていない状態といえる。

ただし、この中盤の時点ではまだ隠されている部分だが、一点だけ時間SFらしい要素もあって、それは彗星落下の日の前日、上京した三葉が、まだこの時点では入れ替わり体験をしていない瀧と出逢って組紐を渡す、という、先の梯子の喩えで言うなら、三葉の側の縦木の最先端から、瀧の縦木の末端に向かって言わば対角線上での両者の邂逅があり、組紐という物理的な時間/精神移動の証拠が残されることになる――そして、これが来るべき混乱に向けた大きな一歩となるわけである。

言い方を変えれば、ここまでならば、まだよかった。

問題はここから、糸守町に何が起きたか(三葉視点では、起こるか)が明らかになってからである。

と、そこへ話をすすめるまえに、時間(時空間)移動とそれに伴って発生する諸問題に対して、SF作家がどう対処してきたか、人類が如何に時空連続体の縺れと戦ってきたかという事をざっとおさらいしておきたい。時間(時空)移動という架空の概念が起こす問題に対して、まずやらなければならないのは、世界観つまり時空とはどういうものかというものを決める事から始める必要があるわけだが、それは大きく分けて以下の三つである。

〈一〉歴史は時間移動者による上書きが可能である。
〈二〉過去は本質的に不変である。
〈三〉世界は一つではない。

順を追って説明していこう。
〈一〉は古典的な時間SFに多い考え方で、当然、矛盾ももっとも多く発生する。というか、この世界観に基づいて、時間旅行者たちに適当な時間旅行を沢山させてしまったがために、世界中の時間旅行もののSFで矛盾が猖獗を極める事態になった、といってもいい。有名なのが所謂「親殺しのパラドックス」――時間移動者が過去改変により自分の存在の基本にかかわる人物、具体的には自分の親などを抹消してしまったら、時間移動者の存在はどうなるのか、という問題で、存在の基盤をなくした時間移動者が存在しなくなったら、それにともなって過去改変も起きなかったことになり、過去改変が起きなければ時間移動者が存在しなくなる理由もなくなるわけだから、時間移動者は存在し続けて過去改変を起こして、その結果、時間移動者の存在の基盤がなくなって、と無限に歴史が確定しないということになって、これは非常に厄介である。古典的作品ではそれこそ、時間移動者が自分の行為の報いを受けて消えるところでオチにしてしまうような作品もあったが、そこで終わるなら、なべて世はこともなし。しかし今時はそうはいかない。現実と違い、フィクションの世界は、そしての観客はそんなに単純ではないのだ。読者に「時間移動者が消えて過去改変をしなくなったら」と問い詰められたらどうしようもないのである。これぞ矛盾の真骨頂といえるだろう。

SF作家たちは困惑し、そして対処療法を編み出した。そのひとつが〈二〉である。
この時空理論は決定論的宇宙観などとも呼ばれ、たとえば、時間移動者が過去に戻って改変工作を行ったとしても、それはなんらかのかたちで無効化されるとか、はじめからその時間移動者の行為自体がすでに過去の一部に含まれていたり、といった展開になって、時空は本質的に矛盾を回避する構造をもっている、とするもので、歴史の修正力、と言われたりするちょっとオカルト風の力も、基本的にはこの仲間である(厳密には、これは予定外に改変されたものを「戻す」もしくは「戻そうとする」ものなので、全く同じではないが)。この手の時空理論で世界で一番有名なのは、おそらく『ターミネーター』の第一作だろう。スカイネットターミネーターを過去に派遣したのは起死回生の一手どころか敗着の一手だったというあれである。日本ではおそらく『ドラえもん』(ただし、序盤のセワシの目的を含め、エピソードごとに揺らぎがある)だろうか。のび太はどんなに失敗をしたと思ってもそれによってしずかと結婚できるわけだし、未来の自分が助けに来てくれたから過去の自分を助けに行けたりするわけである。

この時空理論は、それこそ『ターミネーター』や『ドラえもん』がそうであるように、ちりばめられた様々な伏線がクライマックスでまとまって全ての不可解な事象の真相が明らかになるといったミステリ的な面白さを生み出しやすいが、逆に、すべての事象がお釈迦様の掌の上の出来事にすぎなかったとでもいうような窮屈さもあり、これじゃあ折角過去に戻っても予定された通りのことを予定された通りにしただけで能動的にはなんにもしてないのと一緒じゃねえか、と憤る時間旅行者をたくさん生み出しもした。それはそうだ、自由意志がありそうでない世界観でもあるのだから。(尚、この世界観をもちいて、時間移動による因果の連鎖を悪魔の領域にまで複雑化させたのが、ロバート・ハインライン原作スピリエッグ兄弟監督による傑作『プリデスティネーション』になります。暇な人は是非どうぞ。)

というわけで〈三〉の登場となる。
これは「並行世界存在説」といえばわかりやすいだろうか。時間移動者が過去を改変したその瞬間(過去に出現したその時点で過去が改変されているという考え方の人もいるが、その辺りは人による)、世界が分岐し、当初の時空αと改変された時空βという並行世界が出現する。端的に言って、これは大発明だった。時間移動者が好きほうだいに過去を改変しても、タイムパラドックスというかたちでのしっぺ返しはやってこないし、それでいてやったことは確実に世界に影響を与え、なおかつ「修正力」という邪魔もなく「歴史に予め取り込まれていた」もないという、要するに〈一〉と〈二〉のいいところ取りなのである。なんという発明だろう。

代表的な作品ではこれまた『ターミネーター』の、今度は第二作。御記憶ですよね? 「未来は変えられる」というあの結末のサラ・コナーの独白。一作目の主張(全ては予定されていること、すなわち未来は変えられない)と世界観が違うじゃないか、とたぶん世界中のSFファンが突っ込んだと思われるが、娯楽活劇として圧倒的に面白かったので大きな問題にはならなかった。気を利かせて世界観の再修正を図り決定論型宇宙観の〈二〉に再度近づけた(完全に決定論宇宙化したわけではないが)、第三作がこのシリーズの愛好家の大人気作にならず、評論家的にも絶賛の嵐にならなかったあたりに、娯楽作品というものの難しさが表れている。

そして、この平行世界存在説もまた万能――フィクションにおける時間移動理論の決定版――という訳ではない。というより、問題もたくさんある。例えば、「人間の個人の行為で世界をいくつも発生させるのは人間中心的思考にすぎないか?」とか「時間旅行者が改変しただけ世界が増えたら並行世界だらけになってしまうのではないか?」とかあるわけだが、なかでも物語としてもっとも大きい問題は、「並行世界をいくら作っても当初の世界の過去は変えられない」ということ

そうなのだ。

先の親殺しのパラドックスの例でいうと、この理論では、過去に戻って自分の親を殺しても時間移動者が消滅することはなくなるが、それは改変された時空βの自分βの親になる予定だった人を殺しているだけで、当初の世界αの自分の親αには手も足も出せない。そちらの時空αは全く何の問題もなく存続しつづける。『ドラえもん』でそういうテーマを取り扱った大長編があったのを思い出す人もいるかもしれない。アニメにもなった『Fate/stay night』というタイプ・ムーン作の大人向けPCゲームでは、過去から未来まで無限に分岐していく並行世界のそれぞれに介入し、世界を救って回っていた登場人物が最終的に発狂する、といった挿話があったが、それは残念ながら発狂するに決まっているのだ。無限に世界を救いつづけたとしても、それは「救えた世界」を無限に発生させているだけで、救えなかった世界が消えている訳でなく、むしろそちらも無限に発生しつづけるのだから。
なので、並行世界存在説に基づく世界観は「過去で遊ぶ」には適していても、真面目に「過去と向き合う」には実はちょっと困ったものだったりする。

ちなみに時間SFといって高確率で人が思い浮かべるであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作はどうかというと、一作目は全体としては上書き型の〈一〉で、ただし「ドクの銃撃」絡みは決定論型の〈二〉ともいえ(上書きのおかげであのようになった、というも解釈は可能)、そして並行世界を股にかけた追っかけっこに発展する二作目は当然のことながら〈三〉ですが、ほぼ西部劇でSF要素に乏しい三作目はドクの墓の件から判る通り決定論の〈二〉だったりするので、ヒジョーにややこしい。というか、まとめてみると目茶苦茶、ともいえるので、シリーズ総体では時間SFとしては参考にしてはいけない作品なのかもしれない。


とまあ、フィクションの世界であっても、時間、特に過去とはかくも厄介なしろものであるわけなのですが、話を『君の名は。』に戻そう。それも、本作がタイムパラドックスを巡る物語として本性を現す「ティアマト彗星の日」の地点に。


ときに(洒落ではない)、この映画の時間SF的な意味での世界観は一体何だとお思いでしょうか。
上書き型!と答える方が多数だと思うが、それは大いなる勘違いである。ご案内の通り、映画の中で「ティアマト彗星の日」は、二度描かれている。最初は三葉の視点で彗星が落ちる直前までが描かれ、次が三葉と入れ替わった瀧の視点での落下地点からの回避工作と「黄昏時、幽世における邂逅」に至るまで。そしてここで、この映画は初めて本格的な歴史の改変を行う。妙に解り難い見せ方になっているが、最初の時空――仮に「時空α」としよう――では、彗星の日の朝に三葉は瀧とは入れ替わっていない。糸守村の悲劇を知った二千十六年の瀧が、口噛み酒を飲んで「半身」である二千十三年の彗星の日の朝の三葉と入れ替わるのは、「時空干渉により分岐して生まれた二周目の歴史」(いわば時空β)の彗星の日の朝なのである。三葉の友人たちが三葉の髪型の変化に驚くくだりが二度、状況を違えて描かれているのはそういうことだ。一回目は東京で起きたことの衝撃で落ち込んだ三葉が登校しなかったから、祭りの時があの髪型のお披露目の機会になりそこで初めて皆が驚き、二回目は中身が三年後の瀧だから祭の前にあの髪型で普通に登校して、皆が驚く。

問題はここだ。こここそが時の結び目ならぬ、時空のもつれの中心である。二回目の彗星の日の朝、恐るべき悲劇の発生を知った瀧が三葉に入って、三葉を含む糸守の人々を救うべく奔走を開始したとき、一回目の彗星の日、ひいては時空αはどうなったのだろうか。

単純な上書き型の世界なら、それは既になかったことになっているだろう。だがそうではないし、そうはならない。というのも、もしもなかったことになっていたら、瀧(三葉に入っている瀧)は一体何のために奔走しているのだろう。え? 時空は紳士だから悲劇の回避が確定するまで記憶の上書きを待ってくれるって?

残念ながらそうもいかないのである。

時空αでは起きなかった入れ替わりを既にやってしまっていて、その当事者である瀧たちにしてみれば「彗星の日の朝に入れ替わりがあった」ことは疑いようのない事実であり、となれば、それを起点とする上書きの開始は避けられないはずで、少なくても瀧の中では「ティアマト彗星の悲劇」という事実はどんどん不確定なものになっていないとおかしいのだ。
バック・トゥ・ザ・フューチャー』一作目の終盤を思い出していただきたい。両親の結婚の可能性が遠のくにつれて息子の存在が揺らいでその手が透けてみえるようになっていったのは「上書きが徐々に進行していた」からである。上書き型ならば、変化の影響を一番受けやすいところから変わるのだ(ほんとうは一番影響を受けないところから変わるのだ、とか、まだらで変わるのだ、とか、無作為とかで変わるのだ、とか、そういった理屈もどこかにあるのかもしれないが、そうであると説得的に示してくれる理屈はいまのところ発見されていない)。

時空αが上書きされていないという証拠は他にもある。それは三葉の記憶である。三葉は既に本編で描かれた通りに「三年前に彗星の破片が落ちて村が壊滅し、三葉も死んでいる世界の瀧」と何度も入れ替わっていて、この瀧はいってみれば時空αの瀧αであり、つまり、この瀧αと何度も入れ替わり「東京生活」を満喫していた三葉にしてみれば、時空αはすでに過去の体験の一部であり、即ち、その時空αが過去として内包する、事実として確定している彗星の日とそれに伴う村の壊滅もまた、三葉にとっても確定した過去なのだ、ともいえる。そしてこれが上書きされたり、不確定状態で記憶や認識がゆらいだりした気配は一切ない。もしゆらいでいたりしたら、幽世での二人の邂逅が随分としまらないものになっただろう。今までの二人の入れ替わりの記憶自体がぼんやりしている者同士が出会って、ええとうーんと僕たち私たち一体ここに何しに来たのかわかるようなわからないような、みたいな。

これではどうしようもないので、「かたわれどき」に至るあの作中二度目の彗星の日の朝、つまり、瀧と三葉が入れ替わったその時に世界が分岐したのだと、時空α時空βが生まれたのだ、とこう考えるとすっきりするようにみえるのだが、この場合、今度は瀧は永遠に三葉を助けられない(正確には、三葉βは助けられるが三葉αは助けられない)という、別の意味ですっきりしない話になってしまう。

おまけに、厄介な事に(時空αの三葉にとっては幸いな事に、かもしれないが)、平行世界型の解釈では説明のつかない現象――記憶の消去とか時空の修正波(アシモフ博士風に言えば、変化の風)によるスマートフォンの書き込み記録の消去といったものは、時空そのものがじゃんじゃん分岐することはためらわなくても時空内事象の改変は好まない平行世界存在説との相性がいいとは言えず、仮説の船は遂に行き先を見失うのであった。

念のために付記すると、決定論的な世界観に関しては、これを基準に更正すれば無矛盾な物語が構成可能だったかもしれないのは――というか、思うに、物語上でも最善手はたぶんそれである――、三葉が上京して瀧に渡した組紐を手掛かりに因果の連鎖を構築し、瀧は村の壊滅は情報として知ることができるが、関係者の生死は知りえない(もしくは最終的に誤報であることがわかる)とか、そういった時間差隠蔽の仕掛けとは別の展開上の仕掛けと工夫を駆使して、あの再会までお話を運ぶ、と言ったやり方はおそらく無理ではなかったはずである。ただし、それでは新海監督がやりたかったであろう「一目ぼれみたいな、運命的な関係みたいな、大切な出会いの話」という自分に自信があるんだか無いんだかよくわからない結末の邂逅が構成できなくなる(ようするに、ただの予定通りの再会になってしまう)から、そもそもそういう方向性で作ることは構想外だったに違いなく、決定論的世界観は決定論的にありえなかったにちがいない。

では、ここで横紙破り、一本で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三本分をまとめた感じで、問題の突破を試みてみよう。

二千十六年の瀧が二千十三年の三葉の二回目の彗星の日に入れ替わりを果たして世界は時空αとβに分岐、同時に介入による時空の変化の風は、αとβ両方に徐々に、しかしゆっくりと加減を見ながら吹き寄せ、両者をテキトーに改変しつつも上手いことふたりの記憶は改変されず(つまりどちらも時空αの記憶のみを保持している)、そしてかたわれどきでの邂逅をもって共に平行世界も統合され、そこから一気に改変が進む、としてみよう。二人が再び別れ、それぞれの時間に戻った瞬間から改変と修正がどんどん進み、当事者すら何が起きたかもわからないところまで進行していったのだとすると、果たしてどうなるか。

それはいってみれば時空γの誕生である。
そこにおいては、いうまでもなく三葉ら糸守の住人は二千十三年十月を越えても生きているが、時空αの二千十六年の瀧αと三葉γが入れ替わりを起こしようがなく(平行世界ですらない。既に存在しない時空である)、しかしひょっとすると時空γの二千十六年の瀧γとは入れ替わりをひょっとしたら起こしていたかもしれないけれど、それがどんなものだったかは観客は知るべくもない。瀧γにしてみても三年前に見知らぬ高校生から組紐を貰っているかもしれないし、二千十六年にはその高校生と入れ替わり現象を起こしているかも知れないけれど、こちらの彼女はティアマト彗星の日に死んでいたりはしないから、死んでいない彼女を死から救う必要はなく、口噛み酒を飲んで彗星の日の朝(二周目)に入れ替わって運命を変えるべく奮闘もしないし、当然、かたわれどきでのつかのまの邂逅と告白ももちろん起きないままで、貰った組紐を返して因果の輪――結び、といったほうが美しいだろうか――を完成させることもなく、おそらくは祖母たちがそうだったようにいつのまにか入れ替わり現象も消滅し、全てを「夢の中の出来事のように」忘れていっただけの二人に違いなかった。
つまり、あのエピローグで出会った二人は、それまで百分近くにわたって映画『君の名は。』が描いてきた物語=世界とはほぼまったく関係のない世界で、それぞれの人生を送ってきた二人、ということになる。

さて、いったいなんというのだろうか、かれらの名は。

高畑勲『かぐや姫の物語』 あるいは、夢の、世界の、底の底の底。

あんたは今自分が十字路に立って進むべき道を選ぼうとしていると思っている。
でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。
選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから」
コーマック・マッカーシー『悪の法則』(黒原敏行・訳


「君の十年はどうだったね?」
宮崎駿風立ちぬ



       一

十一月二十三日、朝、立川シネマツーにて鑑賞。なんと客の入りは七割。同じスタジオジブリ作品の『風立ちぬ』が朝から満員だったのに比べて、これは一体どういうことかと思ったが、元々高畑勲作品は宮崎駿作品に比べれば集客は弱かったのだし、実に十四年もの昔となる前作『ホーホケキョ となりの山田くん』はジブリとしても記録的といってもいい不入りだったし、評判もすこぶる悪かった(そのせいもあって、個人的にも未だ見ていない。録画したものを見ようとしたのだが、最初の五分で再生を止めてしまった)わけで、その逆境を思えばむしろこれでも大入りといえたのかもわからない。
考えてみるとこの作品は期待材料よりも不安材料が多かったのだ。まず、『竹取物語』を原作とする、という、はっきり言って何の魅力も感じない企画、さらに、鳥獣戯画的な絵柄をアニメとして動かしているらしい、という実験アニメのような、そしてそれに何の意味があるのかわからないコンセプトの噂があって、そこへ『風立ちぬ』の冒頭におかれた予告編での、あの疾走の映像である。
確かに映像としてはとてつもなく衝撃的であり、作り手の狂気すら感じさせる迫力だったのと同時に、「『竹取物語』ってこんな話だったけ?」という困惑をもたらす映像でもあって、その後のテレビの特集等で断片的に見せられる本編映像が、原作そのままのような翁たち、あるいは、まるで現代劇のような少女の目覚めの場面の一コマ、そして、雪原に倒れ伏す少女と、総合すると一体どんな物語なのか全く想像ができないという、困惑に拍車をかけるものであったから、高畑勲という作家の偉大さ・非凡さをよくわかっている人でさえ(いや、わかっているからこそ?)、素直に期待に胸を膨らませて劇場に行った人は少なかったのではなかろうか。むしろ、何がおきても驚かないぞ、みたいな覚悟を決めていったのではないか。

そして、そんな不安が最高潮に達したのは、もしかしたら本編が始まってからだったかもしれない。具体的には、和紙の貼り混ぜ風の背景に製作スタッフを載せる簡潔で美しい冒頭部から、先行公開されていた竹林で翁が竹取をする場面が始まり、宮本信子が原作の文章をそのまま朗読しはじめたその瞬間である。ひょっとしてこのままずっと本編中ずっと原作朗読が流れ続けるのではあるまいか、と。

そんな観客の不安を知ってか知らずか、宮本信子は言葉を現代語に改めて最低限の語りしかしなくなり、いよいよ物語が本格的に動き出すわけだが、ここで注目すべきは、この時点ではほぼ正しく「竹取物語」であることだろう。竹取の翁が子供を授かった物語、ということである。だから、カメラは基本的には翁や媼の視点に近く、ほぼ保護者のそれとしてヒメを映しだしていき、「彼らにとっての大切な授かりものであるヒメ」という気分を観客もまた味わうことになる。だから例えば蛙を追いかけて縁側から落ちる場面などでの翁の動揺も観客は我がことのように感じられるし、翁と子供のヒメ・タケノコの呼びあいでの冷静に考えるとちょっと異常とも思える翁の執着もむしろあたりまえのように思えるだろう。

しかし、この作品が竹取物語であるのは大体ここまでなのだ。ヒメが映画独自の登場人物である捨丸たちと遊びだしたあたりから、映画は翁の目に映るヒメを追うことをやめて、捨丸ら子供たちの目に映るちょっと変わった子供であるタケノコを追うようになる(ヒメが捨丸たちと遊んでいることに気づかずに翁が動揺してうろうろする場面は、あとに続く「月からの仕送り」を受け取る場面へのつなぎというだけでなく、そのことを象徴的にしめしている)。このことは同時に、この作品が特定の誰かの立場に肩入れし続ける類の作品ではない、ということも示していて、上映開始当初の不安とは別種の不安――なにかとても観客を突き放した残酷な悲劇を見せられるのではないか――に観客を陥れることになるわけだが、その予感は一部当たりつつも、しかしそれはそれほど自覚されない。
というのも、眼前で展開される映像の美しさに見とれてしまい、野暮な予測などお門違いなぐらいのきもちになってしまうからだ。作画、スケッチがそのまま動き出したような作画のとてつもなさもさることながら、色彩がともかく華やかだ。最近のジブリの御世辞にも美しいとは言い難い色調とは一線を画した色遣いで、とくに作品全体を象徴するヒメの衣服の桜色の鮮やかさ、そして山の草木の緑の多彩さが素晴らしい(徐々にわかってくることだが、この多彩自体もまた映画の主題の重要な一部となっている)。
その素晴らしさは、極端な話、人間が一切出てこなくても、どんなドラマも存在しなくても、この映像美だけでも映画館で見る価値がある、それぐらいのものである。そして恐ろしいことに、この色彩美、映像美は映画が終わるまで途切れることなく続くのだ。
そんなこんなのうちに姫はタケノコのごとく育っていき、猪との遭遇とか、水浴びとか、瓜泥棒であるとか、雉獲りであるとか、「山」を体験していく。この物語のキーソングである「わらべ唄」の「鳥 虫 けもの 草 木 花」の世界を身をもって知っていくわけである。
その、順調に進行していたら「まわって お日さん よんでこい」となるはずだった体験の世界、ヒメの幼年の時代は、翁の都行きの決意により唐突に終了することになる。


       二

翁と媼に連れられて、ヒメの都の生活が始まり、ここでカメラは一番ヒメに近づく。といっても、あくまで客観であることは維持されるのだが、それでも、御簾を透かして屋敷の様子をうかがう場面に始まり、本編中もっともヒメに寄り添った映像が数多く展開されることになる。同時にこれは、これは必ずしも映画がヒメの物語になったことを意味しない。奇妙に平面的なデザインの指南役の相模や異様に画一的に描かれた沢山の使用人たち、そして作中で何年たっても容姿が変化しない女童などを見れば、これがある偏った視点からの世界だということは明らかなように、ヒメという人物の描写のひととおりは竹取の里ですんでいるから、ここではヒメ本人というよりはヒメの目に映った世界そのものを描こう、ということである。いうまでもなく、世界はヒメにはちっとも優しくなく、残酷ですらあり、ヒメの才能と持前の自由奔放さであってもどうにも対処しきれない醜悪な姿を現してくるようになって、映画は第一のクライマックスを迎えることになる。そう、あの疾走である。
意外にも、物語の流れの中で見たヒメの疾走は、予告編でみた時のような狂的な不気味さはなく、久石譲の、いい意味で久石譲とは思えないような鋭い音楽の効果もあって、押さえても押さえてもとめどなくあふれだす怒りと悲しみの場面となり、さらに、疾走に続く展開――生家に人手に渡っていたこと、捨丸たち木地師の一族は山を後にしたことを知ったヒメが、まるで安らぎの地のように雪原に倒れ伏す場面の、甘美なる死の誘惑の美しさは、動から静の転換の見事さもあって、怖ろしいほどだ。

そしてここで、映画は不思議な捻りを見せる。時間が戻るのである。

いや、正確には時間が戻ったというよりは、おそらくはあの浮遊する天人の使いによって、雪原で自暴自棄になっていたヒメだけが時間をさかのぼって(のぼらされて)、疾走する直前に戻されたというべきなのか。ともあれ、ヒメの少女の時代は肉体的にも精神的にも再び唐突に終了し、新しい時代を彼女は生きることになる。


       三

ヒメの新しい時代、それは「かぐや姫」の時代でもあり、大人の時代でもある。成人の証しとして眉毛を抜き(とはいえ、やはり絵的に見苦しいと思ったのか、後半さりげなくこの眉なし設定は消滅するが)、お歯黒もして(これもやはり、後半さりげなく消滅するが)、かぐや姫という名前にふさわしいような高貴の姫のように生き始めたヒメの視点や心情をカメラはもうほとんど代弁しない。御簾ごし掛けられる声からかぐや姫の真意をうかがう五皇子のように、凛々しくも無表情な面差しの奥に隠されたヒメの真意を観客は推し量るしかないのだ。おまけに物語は物語で大筋は『竹取物語』に従うふりをみせつつも随所で様々な変化を加えてくるから、観客は二重三重に思索を強いられるしかけで、この辺を面白いととらえるか、いかにも問題を解けと示されているようでお説教くさいと思うかで、あるいは評価は変わってくるかもしれない。
でもここは楽しんだ方が勝ちだろう。例えば、五皇子が不可能な探索行に向かわられる過程の改変の上手さをみるといい。原作では、かぐや姫自身が探索すべき宝物の指定をするところを、ここでは五皇子が軽々と口にしてしまったことを逆手に取るというかっこうになっていて、これはヒメの臨機応変の判断力を高さを示し、口にしたことの責任を取らせるという意味で原作以上に「誠意を試す」課題としての重みが増した、ということもできる。原作では、ひたすら嫌がらせ(断る口実)のためだけの文字通り無理難題とも取れるわけだが、この様にすることで、ヒメの要求の強引さを緩和しつつ、同時に五皇子の行動の極端さに説得力が増す仕組みである。ひとは他人に与えられた課題より、自分で言い出した課題の方がその解決に必死になるものなのだ。ヒメの賢さはもはや悪魔の域に達しており、そんなヒメを作り出した高畑勲の賢さはもはや魔王の域といっていいのかもしれない。

しかもこれは単に展開を円滑にして説得力を持たせるためだけの小細工ではないのだ。

原作では、一種独立した五つの短編のような五皇子の探索行(とその失敗)だが、五人が与えられた課題にたいして、かれらなりにどういう解決策を提示したか、をもう一度よく思い返していただきたい。

車持皇子は、虚言とお金もないのに作らせた宝樹。
阿倍右大臣は、お金を積んで買い取った偽の皮。
大伴大納言は、役に立たない武力と虚勢。
石作皇子は、説得力はあるが上っ面だけの誘惑。
石上中納言は、無駄な努力と無意味な死。

これ、その後ヒメが口にするキーワード「ニセモノ」が五人すべてを貫いているだけでなく、虚言でどうにかしようとする世界、お金でどうにかしようとする世界、力でどうにかしようとする世界、実態を伴わない理想が誘惑する世界、突然無意味に人が死ぬ世界、と五人で「この穢れた世界そのもの」を象徴しているのである。このあたりの隅々まで「息がこもっている」采配のうまさと構成の確かさは、高畑勲の真骨頂といってもいいだろう(頭から「せんぐり」に話を作っていく宮崎駿には絶対できない構成である)。

そして、さらにもうひとり、御門という怖ろしくゆがんだ外見をもった、権力ですべてを従えようとする世界の象徴の出現によって、ヒメの世界はいよいよ救いがないということになり、追い詰められたヒメは、故郷と捨丸に活路を見出そうする(なお、ここでヒメが捨丸に語る、「ちゃんと生きられる世界を選べたのに選ばなかった」という告白は、偶然にも同時期に公開されたリドリー・スコットの『悪の法則』の主人公に対する「おまえはもうすでに選んでしまった世界にいるのだ」という宣告と表裏一体をなしていると思う。ヒメは選ばないことを選んだために間違った世界に生きることになり、『悪の法則』の主人公は選ぶことを選んだことで間違った世界に生きることになるのだ)。
といっても、すでに手遅れであると知っているヒメは世界を変えることを望めるわけもなく、かくして、ふたたび世界からの脱出を試みることになる。今度は捨丸と二人で、「飛翔」というかたちで。

この「飛翔」の場面はしかし、素晴らしく手間がかかっているし、とても美しくはあるのだが、不思議と「疾走」ほどはインパクトはない。疾走と異なり、はじめから現実でないことが明確であるせいもあるが、それ以上に、ここでのヒメがじつはすでに諦めてしまっていることを観客にはっきり示してしまっている、という点があるいは高畑勲にとっては誤算であったかもしれない

というのも、二人がどんなに激しく大胆に飛翔しても、観客視点では、かれらが必ず失墜することがわかりきっているからだ。二人がどれだけ活き活きと飛んでいても、その最高潮の瞬間、巨大な月が監視役の如く出現した時に、これは絶対墜ちるな、と思えてしまう。言いかたをかえると、月の出現に対し、ヒメがそれにも動じずに飛んでいけるのではないか、そんな期待を観客が持てるほどの強烈な勢いに満ちた生への情熱を画面に満ち溢れさせることはできていなかった、ということである。それは、いくら若々しくても七十代後半の監督にしてみれば――これは『風立ちぬ』における宮崎駿にも言えることだが――生より死への情動のほうがより身近に、力強く、もしかすると魅力的にすら感じられる、ということであるのかもしれない。

ともあれ、ヒメの大人の時代は、ふたたび無難なかたちに「再配置」され、またも唐突に幕を下ろす。そしてついに、「死」がやってくる。


     四

そう、死は文字通り「やってくる」のだ。それは阿弥陀如来の来迎図そっくりの姿で。そして人類が想像しうる最悪最強の悪夢の如く、圧倒的にのどかで華やかで軽やかで美しくそして優しい「天人の音楽」(字幕版の表記によれば「楽の音」)を奏でながら。

正直にいうと、最初このどこからどう見ても来迎図な絵面には、その音楽の良い意味での不整合感以上に面食らったことは確かである。ヒメの周辺を飛んでいた天人の使いの深海生物ふうの動きと色彩からして、なにかこう名状しがたい、海の底の都から来たような感じのおそろしいデザインの方々がやってくるか、竹取物語絵巻そのままの人々がやってくるかと思っていたからだ。主題的にはもちろんまったく間違っていないのだが、しかしそこまで親切に絵解きする必要はないのではないか、という気持ちは実はいまもあったりする。
しかし、この来迎とヒメの帰還に至る場面自体はそんな欠点を些細なことにしてしまう勢いで素晴らしい。突然、慈悲なく、容赦なく、無感動にやってくる死というものの恐ろしさを、まったく恐ろしくない雰囲気のなか、死そのものを一切描くことなく、なおかつこれでもかというほど強烈に描き出したアニメーション作品はかつてないのではないだろうか。実写作品だとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』あたりが、これと似たような発想と描写をやっているが、全編がブラックユーモアに満ちた同作と本作とでは受ける衝撃の度合いが違うだろう。

そしてヒメが最後にまた話し出す。ここもまた親切すぎるといえば親切すぎると思わないでもない。「わらべ歌」の詞をもう一度言わせて、そこからの立ち切りをやりたかったのはわかるけれども、もっと大胆にぶった切って終わっても観客には充分つたわったのではないか、高畑の最高傑作である『火垂るの墓』はそういう多くは語らない手法を採ることでより多くを語れていたのではないか、と。
しかし、たぶんそのことは高畑も百も承知なのだろう。だから、映画は最後にもう一つの動きを付け加える。記憶を抹消されたヒメが地球を見て、(おそらくわけもわからず)涙を流す。これは直接的には、ヒメがそもそも地球に下ろされることになった原因(罪を犯した相手)である、わらべ歌を歌っていた天女と同じ境遇になったことで、またヒメのような新しい罪人の誕生する可能性を示唆しているわけだが、もうひとつ、重要な意味があるように思う。

実は、この映画、ヒメの地球での行動は正しかったのか、間違っていたのか、記憶をなくしたヒメは幸せなのか不幸せなのか。そうした問いかけに対して、はっきりとした答えを用意していない。各種インタビューでは、高畑勲は明確に「ヒメは間違った生を生きたのだ」と言っているが、ただ間違えたというだけの話なら、その記憶が抹消されたことによって、すべては灰色に、すべては平穏になる筈なのだ。しかし、ヒメは涙を流す。
だから観客は考えなければならない。その涙の理由を。

はっきりしているのは、ある純粋な魂が穢れた世界を生れて死ぬというかたちで旅をした、ということだけ。つまりそれは人間の生そのものであり、観客の一人ひとりであり、高畑勲そのものである。考えて見ると高畑の作品はずっとそうだった。また、『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』を思い返してみるといい。それらもまた、ある種純粋な魂(必ずしも善や正義を意味しない)と、「穢れた世界」の物語だ。そして、その穢れの中で生きていくか、それを拒絶し、純粋のうちに死んでいくか。それは、どちらも正しく、どちらも間違っている。誰にとっても正しい人生などというものはなく、そこに「正解」はない。そういうことではないか。

これが例えば宮崎駿なら、ある種自分の中にある信念や願望の強さをもって一つの指針、手繰るべき糸とするのだろう。『風立ちぬ』というのはまさにそういう映画だった。だが、高畑勲はそこにすら疑問符をつける。ヒメの行為に正解がないように、翁にも、媼にも、捨丸にも、五皇子にも、御門にも、そして月の天人たちにも、正解はない。高畑勲は自分の選択の正しさを信じない。高畑勲は正解の存在を信じない。
そのどこまでも迷い続ける心のざわめきが、涙となってヒメの頬を伝うのだ。




       *

最後に、俳優陣についてちょっと触れておきたい。主演の朝倉あき地井武男をはじめ、違和感のある芝居をしている人が誰ひとりいないという鮮やかな配役だが、特に上川隆也の石作皇子は出色で、大真面目に目をキラキラさせているのになにかいつも胡散臭いようなこの人のキャラをここまで完璧に引き出したことはなかったのではないか。伊集院光橋爪功も本人がそのまま実写で出ても違和感のないような面白さだが、それでいて役者の知名度に頼ったつくりでないのが凄い。
しかしひとつ気になることがある。物故した地井武男の代役として一部で三宅裕司が翁の声を当てているらしいのだが(それがクレジットの「特別出演」の理由)、それと知った上での二度目の鑑賞でもどこが三宅パートなのかさっぱり判らなかった。
もっとも、それと判るような代役なら監督がOKを出さないだろう、という説もあり、言われてみるとそのとおりであって、判らないのが正しいのかもしれないが、それでもやっぱり気になります!

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』あるいは、円環を成す円環について。。

   ――革命的若者は、火山の情熱を掻き立て、怒りを目覚めさせ、
     冷静にして確実な計算により疑う心と憤る心を結びつけ、
     かくして多くの人々を反逆へと駆り立てなければならぬ。
   ――天国では、すべてがうまくいく。


上映開始二日目の日曜の夜、立川シネマ・ツーで観た。一階のシアター前にずらりと並ぶ、列誘導のために設置された柵と、割と早い段階から待機している客の存在が、この作品の特殊な盛り上がり方を端的に表していたかもしれない。座席は既に決まっているのだし、入場特典の色紙は人数ぶん足りていないようなら、その旨の通告があるだろうから、つまり充分あるということで、中身にしてもランダム配布なのだから、先着の利点は全くない。また、早く席に着いたからといって、早く映画が始まるということも多分ないだろう。それでも、早く並びたいし、早く色紙を手にしたいし、早く席に着きたいのだ。待ち望んだ作品ならば、不合理であろうと、そういう気持ちに誰だってなるのである。待ち望む、というのはそういうことだ。

正直なところを言えば、いくら期待はしていても、うまくいくはずがない、と思っていた人が、それほど熱心でないファンでなくてもいたのではなかろうか。いや、熱心なファンであっても多かったのではないかと思う。
それどころか、熱心なファンであればあるほど、期待と同じぐらい失敗の予感を持っていたかもしれない。テレビシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は(いろいろ問題はあったにせよ――詳細はテレビ版感想https://sinkuutei.hatenadiary.org/entry/20110422/p1を参照――)、すくなくても、物語の着地、ドラマの完結性という意味では、人気が出ればいつまでも引き延ばす、あるいはそもそも人気が出たらいくらでも続きが作れるようにする、もしくは長い話の端緒だけアニメ化する(当然人気が出れば随時アニメ化する)、というような長期的な商売を見込んだ作品群が多い近年のアニメ界において、水際だった潔さであったのだから。主人公まどかは概念のみの存在と成り果てて作中の現実からは姿を消し、唯一、概念化のまえのまどかの記憶の残滓を有するほむらにしても、漠然した記憶を懐かしむ以上の何ができるわけでなく、「夢狩りの不安な歌」をうたうだけ、という物語の「先」は、普通に考えればもうありえなかったのだし、無理矢理続けた場合は、まず真っ先にその見事な完結性という美点が損なわれてしまうのである。新しいまどかやほむらの物語が見たい、しかし同時にテレビシリーズのいいところは壊さないでほしい、というのは、原理的にほぼ不可能としか言いようがなかったのだ。

そんな期待と不安の中、映画はいきなりテレビシリーズ第一話の変奏曲として始まる。とてもよく似ているが違う世界。その違いは全体に(登場人物にとって)好ましい方向に調整され、テレビシリーズで起きた悲劇の大半はなかったことになっている。まどかの目覚めの場面からつたわる、あからさまな「過去をなぞっている」ことのアピールにはじまり、魔法少女もののパロディのような、これでもかという媚態に満ちた変身場面のくどさ、しつこさや、一見萌え場面のようでいて圧倒的に空々しいケーキの歌によるナイトメアの浄化場面の居心地悪さ、そういったことすべてがたった一つの真相をしめしている。

これはまちがいなく「誰かが見ている夢の世界」であり、より具体的にいうなら『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の世界だ(それが意図的なものであることは、中盤の町の外に出ようとするシークエンスでより明確に示される)。

そういう架空の世界の解釈・理由を巡る観客と作り手の知恵比べ、それがこの「新編」前半のテーマであり、物語のテーマにもなっていく、とたいていの観客は予測するだろう。
そして、この時点で観客がまず考えるのは、おそらく、これは誰の夢か、ということにちがいないが、これに関しては実のところ、作り手にしても隠す気はないようである。というか、隠す気がないようにみえる。
それというのも、夢の世界を一番望むのはだれかというところから考えれば、すでに概念化した人ではない人に夢を見ることはできないだろうし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人でもありえないし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人の為に一緒に死んでしまった人は死んでしまっているので夢を見ようがないし、ソウルジェムごとむしゃむしゃ齧られてしまった人は夢を見る魂がないのだから夢は見られないし、となったら、唯一概念となった人でない人のことを漠然と憶えていて、なおかつその人にもっとも会いたいと思っていて、円環の理に回収もされていなくて、爆死もしていなくて、むしゃむしゃ齧られてもいない人しかありえないわけである。

この作品に映画として欠陥があるならまずここだ。

観客には犯人がわかっているのに、探偵がいつまでも犯人を探しつづけている。倒叙ものならば、犯人の正体以外にも動機やらその手段やら、あるいは露見や捕獲の仮定を考える楽しみがあるけれど、動機は間違いようがないし、手段は魔法だろうし、露見は本人が気づくだけである。オハヨウで終わる話である。そこに一切のサスペンスが期待できない。
あるいは、ある種のショーとして、「ありえたかもしれない魔法少女五人組(魔法少女戦隊まどか☆マギカ?)の活躍」をたっぷり描きたかった、ということなのかもしれない。しかし、いくらなんでも長すぎるし、それが架空の世界であるという、物語の秘密の底が既に割れている以上、観客の興味はその先に移ってしまっている。結果的に、ほとんどの人にとって、ティーパーティーの場面が茶番の為の茶番(文字通りの意味だ!)になってしまうのは避けられないし、アクションとしてはおそらく前半最大の見せ場であろう、マミ対ほむらにしても、対決の中心にいるべべが、マミにとってはどうしても守らなければいけない大切な友であり、またほむらにとってはどうしても確保しなければならない存在であるという、いってみれば双方の戦う動機づけとしての存在だという描写に乏しいし、そもそも架空(と容易に予想がつく)世界での戦いであるという状況の時点で、二重三重にその戦いに迫真性があらかじめ失われている。どんなに見た目が派手で華やかであっても、どこまでも演武以上のなにものかにはなりえないのだ。

そんな長く濃厚すぎる夢の世界の描写に、いささか飽きたころに、ようやく世界のほつれが見え始め(ここでの顔だけが落書きみたいになるモブキャラの描写はいい)、それこそ『ビューティフル・ドリーマー』的な謎の核心に迫る展開が始まるわけだが、この時点でおそらくほとんどの観客は、既に夢の世界を夢見た「犯人」を見抜いているし、この夢の世界を夢見るぐらいだから現実はその正反対であるに違いないということも推測しているに違いなく、つまり、ここでもまた登場人物と物語はだいぶ観客におくれをとってしまっているということになる。

もしかすると、これは意図的なものであるのかもしれない。予測可能な設定と展開とをこの時点までにあらかじめ観客に飲み込ませておくことで、実際の謎解きの場面の負担を軽くして、その後の怒涛の新設定・新要素の数々を受け入れやすくしているのだ、と。

それはたとえば、ソウルジェム内部でのみの魔女化であるとか、「円環の理の鞄持ち」としてのさやかの本当の復活であるとか、テレビシリーズでは影も形もなかった新しい魔法少女の参入とか、そういったもろもろのことであるけれど、しかし考えてみたら、テレビシリーズラストにおいて、円環の理の誕生による宇宙原理そのものの大転換という大技をすでにやってしまった世界観においては、この程度の新設定、新要素など大した負担ではないのではないかと思う。というより、はっきりいってしまえば、既にどんな強引な追加設定・追加要素をだしても、そういうものなのだ、という程度の驚きしか与えられない世界に、『まどマギ』の世界は既になりはててしまっているのであるから、そもそも謎解き的な要素の存在自体がお門違いであったのかもしれない。

推測するに、その辺の事情はおそらくスタッフも薄々察していて、だからこそ、過剰ともいえる劇団イヌカレーの異空間演出の大活躍があり、それに伴う(はっきりいってしまえば、無くてもたいして問題はない)派手なアクションがたっぷり用意されているのだろう。

だが、これが意外に盛り上がらない。
いや、劇団イヌカレーは頑張ってるのだと思う。仮にキュウべぇやさやか達の説明がまったく理解できない人であっても、画面を所狭しと動く、魔女とその眷属(配下?)、魔法少女チームの大乱戦は非常に賑やかで華やかで適度に過激で、つまり退屈せずに見ることができたはずだ。ただし、テレビシリーズにおいては、蒼樹うめ原案によるいかに萌えアニメらしいキャラクターデザインとの意図されたミスマッチ(キャラがアニメ内三次元存在であるのに対して、徹底して二次元存在である魔女と異化作用)ゆえのイヌカレー効果だったわけだが、それはもはやそういうものとして――少なくてもこのシリーズのファンにしてみれば――しっかり定着してしまっていることであって、ミスマッチも異化作用もない、おなじみの風景でしかなく、そして、おもうに、切り絵や写真加工を画面いっぱいに平面的に配置するイヌカレーのスタイルは、本質的に劇場の大画面向きではないのではないだろうか。すくなくても、テレビと同じ方法論でやってもそれは効果的ではないのだ。いつも通りの平面魔女が大画面を埋め尽くしても、それはテレビ画面で見られたものを無闇矢鱈と大きくしただけで、巨大な紙芝居以上のなにものでもなかった、とすらいえるかもしれない。大画面をささえるには、大きなぬいぐるみだけではおそらく力が足りないのである。
もっともこれは実質的に初の劇団イヌカレー初の劇場オリジナルである。本作の続編や、あるいは別の劇場作品において劇団イヌカレーが登場することがもしあれば、もっと劇場映画らしい見せ方を提示してくれる可能性はあるだろう。

とまれ、大騒動――架空の世界での出来事であること自体は変わらないので、やはり茶番感覚は抜けないままではあるが――の果てに、夢の果てが遂に描かれ、現実が姿を現すわけだが、ここでまた例によって例のごとくインキュベーターの陰謀が語られ、これまた例によって例のごとくSF的な設定らしきものが披露されるわけだが、テレビシリーズ以上にどうでもいい感じがしてくるのは気のせいではない。既に述べたように、この作品においては、魔法という名の奇跡の存在が前提としてあり、魔法によってほぼなんでもあり得る世界であるという認識が観客にはある。使われる言葉はSF風でも起きる出来事は魔法そのものであり、提示された設定と理論を咀嚼するのではなく、提示された映像と状況を丸呑みするしかない、ということも、観客はすでに充分知ってるのだ。
だがそれでも、ここで終わっていれば問題は少なかったかもしれない。この映画が真の姿を、そして真の問題をさらけだすのはここからだからである。

甘い夢想から苦い現実に戻り、そこで昇天と再会、という終わり方は、テレビシリーズのエピローグで暗示されたほむらの未来をただ具体的かつ無難に作品化しただけという安易さはあるにせよ、絶望の果ての救済、という流れ自体は、物語としては自然なものであったのだ。
だが、この映画の作り手たち(総監督の新房昭之、監督の宮本正裕、脚本の虚淵玄)はそれで良しとはしなかった。まどかとの再会を願い、まどか=円環の理による救済の時を望んでいたはずのほむらが、まさに救済を拒むという大胆な路線変更が彼らの選択だったのである。

戦いに疲れた暁美ほむらは絶望の果てに魔女となり、さらに「愛によって」悪魔と化し、鹿目まどかによって浄化され円環の理に取り込まれることを拒否、まどかがまどかたる記憶と実存を円環の理から引きはがし、己の作りだした夢の世界に閉じ込めた――

この展開は確かに意外だ。衝撃的ともいえる。
この逆転劇、じつは、最初から計画されたものではなく、パンフレットに掲載された虚淵玄のインタビューによると、当初の構想では、その直前の、いわば偽のクライマックスが、実はそのまま真のクライマックスであったのを、監督たちから「このあと続いていくような物語にしたい」という要望をだされて、まさに登場人物の誰もが予想してなかった展開を見せることになった、ということらしいのだが、これが商業的な要請であったとしても、それ自体はおそらく間違ってはいなかったと思う。
というのも、もし、はじめの構想どおりに魔法少女の死というかたちでの救済と、ほむらの昇天によるまどかとの再会を幸福な結末として描いてしまったら、テレビシリーズの結末から一歩も出ないどころか、むしろその地点よりさらに後退してしまった状況で、この『魔法少女まどか☆マギカ』という物語が、もともと、死による救済という予定調和の「円環の理」に取り込まれて終わる物語であったものが、それこその映画で描かれた通りに、閉鎖空間での魔女化とでも言えそうな、おぞましい自家撞着の時空のうちに「真の結末」を迎えることになっていたかもしれないのだ。

念の為に書いておくと、これはテレビシリーズの結末が失敗している、という意味ではない。

テレビシリーズの結末というのは、改変後の世界で唯一まどかのことを憶えているほむらが、しかし、思い出に内向するのでなく、あくまで前向きに生き、戦い続けようとするところで終わっているから、意味と価値があったのだ。ほむらの死と昇天、まどかとの再会はあくまで未来の可能性でしかなく、過去に後ろ髪をひかれつつも、少なくても現在をしっかり生きること。まどかの物語としてはそれほどうまくいっていないテレビシリーズも、ほむらの物語としてみれば、それなりにスマートな着地を見せていたともいえるだろう。
そして、くどいようだが、それがそのままで終わっていれば、である(だから、あの物語の続編制作は、設定的に困難であるだけでなく、主題的にも困難だった、ということもできる)。

しかし、救済を否定することの正しさは、その否定の仕方の正しさを保証するものでない。この新編で描かれたものが正しい「叛逆」であったかというと、これまた否定せざるを得ない。

いいかな。
まず単純に、設定上の伏線やそこに至る登場人物の感情の動きが一切描かれていない。だから、予想外は予想外でも、その意外は唐突とか強引という意味での予想外であって、決して心地よい逆転ではない。むしろ裏切りと称したほうが相応しいものである。それも、設定面だけならまだしも、ドラマ面で、「あなたの守った世界を私が守り続ける」と決意したテレビシリーズのエピローグのほむらの姿が脳裏に焼き付いている人ならば、なおさらそう強く裏切られたと感じるはずだ。もっとも裏切ってはいけない人たちをこの映画は裏切ってしまったのである。暁美ほむら鹿目まどかの救った世界を守り続けることができなかったのだから。

「円環の理の誕生」規模の大魔法、ようするに大奇跡をまたも使うというのも知恵がない。あれは全十二話のシリーズの最後であったからこそ使ってもぎりぎり許される荒業であって、一度目は素晴らしく感動的な奇跡でも、二度目は喜劇になってしまうのが世の理なのである。トランプの「大富豪」で革命ばかり続いたらみんな馬鹿馬鹿しくなってしまうだろう。
だいたい、ほんの数百年ばかり愛という名の妄執を募らせたら世界の理を改変できるとするなら、長い人類史、そして無数の平行宇宙において、ありとあらゆる願いを持った「悪魔」が無数に出現して宇宙原理を改変しまくってもおかしくなく、このすでにありとあらゆる全般的ぐちゃぐちゃである宇宙が悪魔の跳梁によって、ありとあらゆる全般的さらにぐちゃぐちゃである宇宙と化してしまう可能性だって十分あるではないか。そうなったら魔女も魔獣も悪魔もない。機械仕掛けの神ならぬ魔法仕掛けの魔王が暴れているようなものである。

なにより、最大の問題は、この展開によってもたらされた「終わり」が何かの「結末」になっているのか、ということで、はっきり言ってしまえば、まったくなっていない。たとえるならば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』程にも終わっていない。

この映画の最後に描かれる世界は、ほむらの願いによって閉じられた世界である(設定上はどうとでもあとで説明がつけられるけれど、実態としてはそういうことだ)。それは、テレビシリーズのほむらが時間を繰り返し遡行するという人為的な円環の生成によっておこなっていた時空の封じ込めを、新しい夢の世界への主要人物の取り込みという、より直接的にわかりやすいかたちでおこなった、というだけのことで、つまり、テレビシリーズでほむらがやっていた円環の生成をまた円環を作成してやっているわけである。円環の作成の円環の作成、二重の円環の生成なのである。
しかも、ほむら以外の登場人物が円環の中にあるために一切変化をみせず、反面、意識だけは円環の理から逸脱しているほむらだけがどんどん病んでいくという展開になるであろうこともまた、テレビシリーズと近似であって、さらにその先にありえる結末もまた、テレビシリーズと同じく覚醒したまどかによるほむらの精神の解放しかなく、どこまでもテレビシリーズの展開をなぞっていかざるを得ないという状況になってしまっているのだ。現在だけでなく、未来もまた閉ざされてしまっている。新房昭之虚淵玄は、救済の拒絶というかたちで円環を破壊したさきで、よりたちの悪い円環に取り込まれてしまったのである

映画製作当初の「真の結末」が予定調和であるとするなら、このあたらしい「真の結末」は無間地獄とでもいうべきものなのだ。


ここに抜け道にはなかったのだろうか、というと、いくらでもあった。予定調和の結末も、、一つの抜け道である。あるいはより王道の結末もあったはずで、たとえば、ここで、またも、というか当然というべきか、『ジュエルペット てぃんくる』を思い出せれば、それでよい。あるいは『魔法のステージ ファンシーララ』でもいいし、『時をかける少女』でもいいし、『劇場版少女革命ウテナ アドゥレッセンス黙示録』(*1)でもいいし、『涼宮ハルヒの消失』でも、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でも『銀河鉄道999』でもいいだろう。

共通するのはいうまでもなく、「子供が子供であるところから一歩踏み出す」ということだ。「少年が大人になる」ということだ。「魔法の季節から卒業」ということだ。魔法少女の物語の王道の結末は、魔法少女魔法少女でなくなって終わるのだ。『てぃんくる』のあかりや『ファンシーララ』のみほは魔法の力を一切失うし、『時かけ』の真琴はタイムリープ能力を失う。『消失』の黒幕はその願いの具現化した世界を失い、主人公に「殺され」るし、『アドゥレッセンス黙示録』の天上ウテナは文字通り裸一貫で「青春の学園」の外へと飛び出していく。そして、『ビューティフル・ドリーマー』の夢の世界を破壊した諸星あたるは「責任とってね」と宣告されるのだ(*2)。

魔法少女まどか☆マギカ』の結末も、それこそが最も自然なものであったはずなのである。そしてそれは、すでに魔法少女でない概念になってしまったまどかにはできないことであって、ほむらだけに許されたことであったはずなのだ。

今、万感の思いを込めてカラフィナが歌う。
今、挽回の思いを込めて円環の理がゆく。
一つの旅が終わり、また新しい旅立ちが始まる。
さらばまどか。
さらばインキュベーター
さらば魔法少女の日よ、と。

もっとも、これをやってしまうと、それこそほむらとまどかの物語が終わってしまうだけでなく、『魔法少女まどか☆マギカ』という作品そのものが完結してしまうわけだから、現実的な問題として、あるいはほむら昇天エンド以上にありえなかったかもしれない(*3)。

個人的には、それでよかったのではないかと思う。どんな物語だっていつかは終わらせなければならないのだし、終わりどころを見失なった物語は悲惨である。客にあきれられ、飽きられて、閑古鳥の内に店じまいをしなければならない。逆に、綺麗に終わることができれば、むしろそのことで、人々の心に残る。終わることでむしろ作品としては長生きするのである。
まどマギ』はといえば、物語をきちんと終わらせるタイミングとして、最善はいうまでもなくテレビシリーズであり、その次は、今をおいてほかになかった。だってそうでしょう。今回の結末をふまえて物語を再起動しても、前述の如く、同じドラマ、同じ展開の繰り返しになってしまう。おまけに、キャラクターの非業の死、イヌカレーの映像、キュウべぇの正体、そういったこのシリーズの大きな力となってきた要素の補助を一切なしでやらなくてはならないのだ。前作より人気の出る目がまったく見えない。(その傍証として、結局ろくに見せ場のなかった百江なぎさの存在感の無さを挙げてもいいかもしれない。あの世界の物語的土壌は既に枯れつつあるのだ)。
ほむらの「悪魔」化からの、説明的な対話と独白の連鎖によって物語の落としどころを探して回るというだらだらと弛緩した展開が、シリーズの今後に横たわる大きな問題を既に先取りしているとみるのは、穿ちすぎではあるまい。もはや、望ましい「真の結末」は誰にもわからないのだ。ほむらにも、まどかにも、そして作者たちにも。

さて、この文章もそろそろ落としどころがわからずに、だらだらと弛緩してきた感があるので、ちょっと原点にたちもどって、では、この『劇場版魔法少女まどか☆まどか[新編]叛逆の物語』は楽しかったかどうか、ということを検討しておくと、いろいろ不満はあるけれど、決して退屈ではなかった、ということは言っておきたい。退屈さがあるとすれば、それは既に述べたストーリー上の問題と、観客として新房昭之&シャフト&劇団イヌカレーのスタイルに慣れ過ぎた故の刺激の乏しさのなせる業であって、言い方を変えれば、伝統芸能の安定感の退屈さであり、それ自体は決して悪い事ではないのだろう。映像・演出面では、前半のパートに単なるループ感におわらない濃密さを出せなかったのは惜しいとは思うけれど、『まどマギ』という枠、イメージを崩さない中での「劇場版」化にはそれなりに成功していた。すくなくても、内容的にも映像的にもどこまでも「総集編」でしかなかった[前編][後編]とは大違いだったといえる。特に中盤の廃墟的な風景は好みだ。
音楽的には、「Magia」クラスの強烈な楽曲が欲しかった気はするが(ラストのバトルにはあのレベルの激しい音が必須ではなかったか。*4)、サントラは欲しい。

それにしても[続編]は一体どうなるのだろうか。続編を想定したような作りで劇場版を作っておきながら、そのまま企画そのものが消失してしまったと思しき『涼宮ハルヒの消失』パターンになるのでなければ、間違いなくテレビシリーズ[第二期]はあると思うけれど、既に二度にわたってルールの上書きがなされ、誰が死んでいも誰が生き返ってもおかしくない世界においてて、一体どんなサスペンスある物語が作れるのか。いっそのこと、劇場版全体を誰か(というか、ほむらだな)の夢というとしてしまって、テレビシリーズのラストシーンから再度話を作り直すという手もありかもしれない。荒廃した世界で孤独に戦い続けるほむらの物語、それは『マッドマックス2』や世紀末救世主伝説にいささか似てはいるだろうけれども、すくなくてもそれなら円環に閉じられることはない。すくなくても新しい未来へ一歩踏み出すことができるはずだ。
ちなみに、あの砂漠のラストカットは、原作:光瀬流/漫画:萩尾望都(ご存知『銀の三角』の作者である)の『百億の夜と千億の昼』の最後のひとコマと似ていたりする。それは全てが円環となって連鎖し、主人公が一からまたやり直す物語であるが、一からやり直して、また同じ結末に至るかは、誰にもわからない。主人公にも、作者にも。それはそういう結末だった。

なんにしても、こんどこそ、ほむらの戦いが終わりますように。そして魔法少女たちが魔法少女という呪いから解放されますように。


   ――天国では、全てがうまくいく。
     あなたはあなたの良きものを得て、あなたは私のものを手に入れる。 
     天国では、全てがうまくいく。
     あなたはあなたの良きものを得て、私は私のものを取り戻す。 


(*1)内容面だけでなく、演出的にも[新編]中盤のバスの場面などには、本作のエコーがあるように思う。ラスボスが平面的な巨大物、というのも似ていると言えないこともない。
(*2)このあたるが責任をとらないで逃げようとしたら、怒って追っかけてきて「恨みはらさでおくべきか」「さてもおそろしき執念じゃあ」となるのが、『天使のたまご』、責任とって子育てにいそしんでいるのが『迷宮物件』、という話は有名である。
(*3)完璧終わっている物語を無理矢理続けた『さよなら銀河鉄道999』や原作漫画『銀河鉄道999』がどういう結果となったか、という話でもある。そしてそれは、まさにこの[新編]のことでもあるかもしれない。
(*4)ところで、カラフィナのあの曲のモチーフは後期ミランダ・セックス・ガーデンのハード系の楽曲、具体的には「Cut」「Cover My Face」あたりだったりするのだろうか。

〔13/11/22追記〕
テレビシリーズ(および[前編][後編])と、[新編]の内容を「親友を事故や災害で失った人の物語」という観点から見てみると、あるいは問題がわかりやすいかもしれない。
友人を失ったという事実を受け入れられずに、脳内で何度も事件の時を思い返していた人が、ついにその死を受け入れたのがテレビシリーズ(および[前編][後編])で、やはりその死を受け入れられず、自分が作り上げた親友の幻と妄想の中で暮らそうというのが[新編]。

宮崎駿『風立ちぬ』――あるいは、風はたった、それは何処から来て、何処へ行くのか。

 吾らは夢と同じ糸によって織られているのだ
 ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる
 ――シェイクスピア『あらし』


奇妙な作品だった。劇場公開初日、吉祥寺オデヲンでの午前の第一回に赴き(上映四十分以上前に劇場に辿り着いたのにも関わらず、既に八割の入りという異常な盛況だった)、さらに同じ劇場で翌週金曜日のレイトショーをもう一度見て(こちらもほぼ八分の入り)、そうした結果、この作品を端的に表現するとしたら、それが一番ふさわしいのではないかと感じた。個人的な作品だ、といってもいいような気もするのだが、そういうのには、いささか開かれてすぎているような気がするし、実はそこまで個人的な内容ではないような気もするのである。

そもそもこれは、なんの映画なのか、そこからして言いにくい。
退屈な内容ではないが、ではハラハラドキドキの娯楽大作かというとそうではない。重厚で深刻な歴史文芸映画かというとやはり違う。もっと足取りは軽い。内容に事件性は乏しく活劇要素が限りなくゼロなのに、不思議な緊張感は終始漲っていて、見ていて全く気が抜けない。
零戦の開発者として知られる堀越二郎の生涯に取材したというふれこみなのだから、偉人伝の一種のようにみえるがそうではない。もっと断片的なものだ。零戦開発に至る設計開発史を精緻に描いているわけでもない。それなりに専門的な描写はあるが、主眼ではない。堀越二郎の生涯と並ぶもう一つの原案である堀辰雄の『風立ちぬ』にちなんだ悲恋物語の要素もあるが、この糸を辿っていくと最後に待つのは奈落である。

あるいはこれは映画とすら言ってはいけないのかもしれない。映画といえるほどまとまりのあるものではないかもしれない。ただし、この作品に奇妙な何かが満ちていることだけは間違いない。だから、奇妙な作品であると、これだけは言えるのだ。

  *

この作品の奇妙さは、その冒頭の場面からもみてとることができる。蚊帳の中で眠る少年時代の二郎にカメラが寄っていき、次の瞬間、屋根を上る二郎少年を映し出すくだりで、ああこれは少年の見ている夢だな、と即座に分かった人はどれくらいいるのだろう。まず、不自然な場面の飛躍(いわゆるジャンプカット)だ、という違和感からくる認識があって、ついで違和感があるからこれはもしかすると夢かもしれない、と考え、その推測が、続く場面に登場する鳥のような翼端をもつ創作飛行機によって裏付けられる、という思考経過をたどった人がほとんどなのではないだろうか。そして、こうも考えたはずだ、宮崎駿はこんなに不親切で独りよがりな描写をする作家だったろうか、と。

 もちろん、そういった軽い混乱と違和感は、その鳥型飛行機による二郎の飛行場面の如何にも宮崎アニメといいたくなるような爽快感、そして、あの素晴らしく不気味な動きで宙に浮いている爆弾らしきものの群や、雲の中から姿を現す空中戦艦の異様で不気味なデザインの感動にのまれて、頭の片隅に追いやられてしまうのだが、まったく消えてしまうわけでもない。その夢の場面でさえ、何でもない風景とそこに暮らす日常の人物のはずが、二郎の飛行機への妙に誇張された反応を見せることによって、ただの願望充足の夢でないことを暗示していて、いかにも宮崎アニメらしい爽快さを完全には楽しませてはくれない仕掛けにはなっているのだ。この素晴らしく爽快で、素敵に不気味で、すこぶる楽しい夢の場面は、墜落というギリシャ神話伝来ともいえるごく古典的な結末に到達し、(この監督のやりかたとしては)凡庸な演出をもって終わる。感動とかすかな違和感を観客に残して。

 奇妙なのはそこだけではない。例えば、時間の進みを示す描写も奇妙である。正確には、時間の進みを示す描写の不在が奇妙である、といった方がいいだろうか。小学生の二郎が大学生の二郎になる場面は、大きな時間の経過を示すカットもなくあっさりと変わる。その後も、パンフレット掲載の年表によれば、震災の場面から復興した東京での学生生活の場面までが二年、そこから名古屋の工場に行くのにまた二年、ドイツ行までまた二年、帰国して試作機の設計主任に選ばれるまでに三年、菜穂子に再開するのがその翌年(七試単戦の制作とその失敗、身体の披露静養と失敗の傷心慰撫を兼ねての軽井沢行、そして再会、という流れを原作未読でわかった人がはたしてどれくらいいるのだろうか? 軽井沢の旅館のベッドで二郎が夢とも空想ともつかぬかたちで見る七試単戦――のちに醜い家鴨の子といわれてしまう――の墜落場面、あれが失敗の場面の「回想」なのである)、本編における「現実」部分の最後である九試単戦の試験飛行までまた二年、とものすごい速度で時間が進んでいるのに、そういった時間の流れの速さを感じさせるような説明的なコマはほとんど入れられず、すべては一年の間の出来事ですといっても通用しそうなぐらいに、本来離れている時間が余白を作らずに並べられていく。
 空間についても同じことがいえて、東京から名古屋、名古屋からドイツ、ドイツから西欧諸国と、まさに世界を股にかけた展開をみせているのに、その長い移動の描写はほとんどなく、たとえば『もののけ姫』で北の地を追放されたアシタカが西の山にやってくるまでをあれだけ長々と(時に恥ずかしくなるほど)時間をかけて見せた監督と同一人物かと思うほどだが、つまりここでも余白を作らないという方針が徹底されているとみるべきなのだろう。
 そして、夢と現実に至っては、余白がないどころではなく、お互いにゆるやかにまじりあい、あるいは、侵食し、もはや不可分の関係になっている。現実と対置するものとして夢があるのではなく、現実の延長に夢があるのであり、夢の果てに現実があるのだ。それはちょうど、二郎の読んだ英語の本の内容がカプローニ伯爵の夢というかたちで二郎の前にあらわれ、その夢に鼓舞された二郎がカプローニ伯爵のような設計家を現実に目指すという作品の構造とも一致して、映画全体の主題にも大きくかかわっていく。

 かくして映画は定型の持つ安心感と過去作に基づく作家への期待をそれとなく、だが確実に裏切り続ける。だから、むしろ積極的なファンほど緊張を強いられる可能性すらあるだろう。見慣れた、そしてよく知った、さらには愛していたかもしれない、「宮崎アニメの約束事」とは異なる、新しい約束事を見つけ出さなければならないのだ。

 このあたりの「新しさ」は、喫煙の描写などにもあらわれている。従来の宮崎アニメにおける喫煙描写はルパン三世やポルコ・ロッソのそれを思い出してみればわかるとおり、古典的なハリウッド風味といったらいいのか、ようするにハンフリー・ボガートごっこの延長としての、かっこいいとはこういうことであるという、要するに作り手の自己満足の場面でしかなかったわけだが、この作品においては、喫煙者をかっこよくみせるための小道具というよりは、喫煙者の自制心の弱さやその耽溺の異常性を示すそれにかわっていて、だから、あの作中で一番といっていいような好漢たる本庄がこと煙草の件になると誰彼かまわずそれをねだり、それでも無いとなるとシケモクでも吸うという、非常にみっともない姿を晒すのだ。そういったやや引いた姿勢こそが、終盤の二郎が菜穂子のいる部屋で煙草を吸う印象的な(そして、引き気味のカメラが示すように必ずしも作者も肩入れをしていない)場面を生み、あるいは宮崎アニメ史上最も皮肉で冷静な笑いに満ちた場面、すなわち、大震災による火災の真っ最中に火をねだって煙草をぞんぶんに吸う場面に結実するのである。

    *

少し話をもどそう。冒頭の二郎の飛行の夢についてである。

 この夢は、もちろん第一義的には、二郎の願望と恐怖と不安の集成であり、鳥のように空を飛びたい、鳥のように空を飛ぶ機械を作りたい、あるいは空を飛ぶことで見知らぬ人にも(出来れば男性より女性に)ちょっと騒がれてみたい、そんな数々の願望と、まだ直接戦火を体験していないとはいえ、人一倍海外についての知識が豊富で、当然そのころ勃発中の世界大戦についてもそれなりの知識があったであろう少年の戦争への恐怖心、さらに加えて、近眼によってパイロットになれないのではないか(これはホラー映画的に強調されるゴーグルをしたときの眼球の描写でもそれとなく示される)という、より直接的な不安、そういった、まあだいたい年頃の少年らしい内面を、ある種観客の受け狙い的なものも込みでひとまとめに見せてくれたものであるけれど、これは、『アラビアのロレンス』の冒頭部、トーマス・エドワード・ロレンスの交通事故に終わる最後のバイク運転の場面と同じく、映画全体の展開の暗示にもなっていて、具体的には、順風満帆の飛行開始から、ひとびとにもてはやされる中盤、戦争という悪夢に巻き込まれ、容赦ない墜落に終わる。『アラビアのロレンス』が英雄ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であったことと、『風立ちぬ』が天才ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であることはおそらく無関係ではない。ロレンスの最後の旅がたった一人の旅であったように、二郎の最初の飛行もまた、たった一人の飛行であった。

 また、ここで「墜落」した二郎がその後二度と自ら飛行機の操縦席に乗らない、というのも重要で、それは夢のなかでさえ一貫している。カプローニ伯爵の飛行機に乗るときは常に客分であって、パイロットを夢見ることさえない。ただの夢が二郎の未来をすでに決め始めているのだ。
 ただし、このあたりは、見ていてすぐにピンと来たわけではない、ということは告白しなければならない。見終わって内容を反芻して初めてああそういうことだったに違いない、と思ったことばかりである。カンが悪いと言われてしまえばそれまでだが、正直、濃厚な作画と、これから述べる、奇妙な話のつくりに翻弄されて、全体の構造を考えたりする余裕はまるでなかったというのが実情である。

    *

いや、奇妙、というよりは、雑、といった方が、もしかしたら相応しいかもしれない。ここについては、実際のところ真意がよく解らないところも多い。だから、公開直後の感想では「脚本の出来は良くない」というようなことを呟いたし、基本的には今でもまだそう思っていて、幼少期が冒頭の夢や、不正を見逃せない二郎の性格描写、妹や母との関係(父親との無関係、その代理的な意味でのカプローニ)といった今後の展開に必要な情報を提示するだけに終わってしまい、妹とは結局笹取りにいったのかとか、あのいじめられていた少年とのその後の関わりはとか、飛ぶ夢は以後見たのかとか、そういう細かい挿話がまるで膨らまないままに青年期に移行してしまうのは、そこが単に序章だから仕方ないということもできるが、その後のどの時代でも、基本的に同じ調子で話が進んでいくのは、やはりまずいのではないか。

 特に惜しいと思うのは、少女時代の菜穂子と学生時代の二郎の出会いから震災に巻き込まれるあたりの展開で、四分間の予告編でももっとも印象的に使われていた、雑踏の中を二人が手を繋いで雑踏を駆け抜ける場面がそこから何か二人の関係を深める挿話があるでもなく、あっさり里見邸に到着してしまう。テレビで見ていたら、放送時間の都合で何分か削除されたんじゃないかと思ってしまったに違いない。そしてその場面で二郎の菜穂子に対する印象をきちんと描いていないことが、次の服と計算尺を菜穂子の御付の女性(名前失念)が送り届けに来る場面のわかりにくさにつながってしまう。二郎が何をあわてて女性を探しに行ったのかというと、御付の女性に会えば菜穂子の様子がわかるからだ、という確かな理解が観客に訪れるのは、だいぶあと、「帽子を拾ってくれた頃から君のことが好きだった」という台詞を聞いてからだろう。
 また、ドイツでのスパイらしき人物とその追跡者のくだりのようにまったく話が膨らまず、なおかつ、それ単体でもほとんど意味もなしてないように思えるところも散見される(大きく見れば、「破裂」寸前の政情不安の暗示ではあるのだが、暗示というには具体的すぎて印象的すぎるのだ)。さらに、ゾルゲ事件を連想させる、謎のドイツ人カストルプ絡みのあれこれもそうだ。彼がむしゃむしゃ食べているクレソンはとてもおいしそうだが、それは本編には全く関係がない。

 一体にどのエピソードもその場その場の機能優先というか、刹那的なのだ。話を展開するのに必要な情報を提示したら、至極あっさり次の話題にいってしまい、それきりなのだ(執拗に出てくるクレソンは悪い意味で例外といえる)。

 もちろんそういうやりかたが効果をあげているところもあって、名古屋に向かう汽車の行く手に広がる職を求める人々の群や銀行の取りつけ騒ぎの暴徒を、二郎が窓越しに見つめる場面は、『千と千尋の神隠し』の千尋の「沼の駅」への旅の場面の思わせるが、千尋の旅が、はじめての死の世界との邂逅であったように、二郎にとってもそれまでの順風満帆の世界と窓を隔てた向こう側にすぐ存在する怒りと困窮の世界とのほとんど初めての邂逅であって、それをさらりと、しかし印象的に点描することで、その後の「シベリア」の話題へつなげ、本庄の口から「偽善」という単語を導き出すあたりは、まるで宮崎駿ではなく高畑勲が脚本を書いたようですらある。

 とはいえ、やはり全体としては、踏み込みが浅く、潤いのない脚本(といっても絵コンテが初稿というスタイルだから、厳密に本そのものは存在しないわけだが)であることは否定しがたく、こういうところでそれこそ高畑勲が監修なり助言なりをする役回りを演じてほしかったようには思う。もっとも今回、予告編として流れた『かぐや姫の物語』の異様で狂的な迫力に満ちた映像を見る限り、他人の映画に関わっている余裕はおそらく高畑氏にはなかったに違いないのだが。
 そんな踏み込みが浅く、潤いがなく、同時にそれゆえに上澄みだけをすくいとったような小綺麗さも兼ね備えた本作の傾向を最も象徴するキャラクターとしてあるのが、そう、菜穂子である。

    *

周知のようにこの作品の里見菜穂子、のちの堀越菜穂子は、宮崎が漫画版『風立ちぬ』を描いた際に、堀辰雄の「風立ちぬ」の節子をもとに「菜穂子」の黒川(!)菜穂子のキャラクターを若干加味して作りだしたもので、彼女の辿る運命は「風立ちぬ」の節子ではあるけれど、自らの意志で病院を抜け出してくる現代女性的な(当時の堀的な意味合いで)精神的な強さは「菜穂子」の菜穂子によっている。彼女の名前が節子でなくて菜穂子であるのは、それが『火垂るの墓』の主人公の妹と重なってしまうというだけでなく、芯の、そして、真のところでは菜穂子は節子でなくて菜穂子の菜穂子なのだ(ああややこしい)という想いがあるのだろう。
 この菜穂子は、菜穂子の菜穂子以上に、ヒーロー的な精神の逞しさをもちつつもあくまで「塔の中の姫君」であるという、『魔女の宅急便』以降意識的に封じてきた感のある、宮崎駿にとっての理想的なヒロイン像の再現でもあって、もう一人のクラリスでありシータでありサツキであり、しかしナウシカではなく(彼女は完全にヒーローでもあるからだ)、それ故、彼女は遂に襲いくる不幸に勝利することができずに終わり、それはまるで、主人公にとって都合のいい悲劇を提供するだけの作り手のご都合的な要員のようにみえないこともない。特に終盤の菜穂子の出立のあたりの黒川の奥さんによる説明的過ぎる台詞(あれは世界屈指の娯楽映画の天才の優しさが裏目に出た瞬間で、明らかに言わせすぎだった。場面の奥行きがなくなってしまうし、その動機が単純化され過ぎてしまう。)は、そんな印象をより強化してしまうようなところもあるのだが、彼女の役割はもっと別のところにあって、そういう意味では宮崎のこれまでのどのヒロインとも似ていないし、堀辰雄の二人のヒロインとも似てはいない。さらにいうなら、漫画版『風立ちぬ』の菜穂子とも違うヒロインなのである。

 よく本編の内容を思い返していただきたい。この作品の菜穂子が二郎の生きがいである飛行機とその設計について、どう接したか。じつに最後までそれにはまったく興味を示していないのだ。「仕事をしているあなたの顏が好き」と甘い声で囁いても、「あなたの作った飛行機が好き」とか「あなたの飛行機が飛んでいるところを見たい」というようなことはいっさい言わないのだ。漫画版の菜穂子はそうではなく、二郎が軽井沢で作った紙飛行機をお守りにしてみたり、あるいは療養所に送られてきた二郎の手紙に仕事の話ばかりであることに苛立って(苛立ちはそれに無関心でないからこそ発生する)みたりと、なんだかんだで二郎と同じ夢を見ようとするし、二郎のほうでも、美しい飛行機を設計する大きな動機として「菜穂子に見せたい」があり、「見せたい人はただひとり」とまで思っていて、念願の九試単戦の飛行実験の成功の場では「見せたい人はもういない」と嘆くのだ。つまり漫画版の二人は、夢の共有を果たしていて、これは『ルパン三世 カリオストロの城』を作った頃に宮崎が言っていた「二人が並んで同じ風景を見る関係」のまさに具現化であって、それゆえに悲恋の、悲劇の結末、となるわけだが、驚くべきことに、映画においてはその要素は完全に排除されている。

 二郎の飛ばした飛行機を拾った菜穂子がその飛行機を再度飛ばす場面を見よ。菜穂子の投げ方のなんと粗雑で、「飛行機」というものへの関心の感じられないことか(あの投げ方は、もしあの飛行機が二郎制作のものでなかったら、そのまま丸めてゴミ箱に捨てる人間の投げ方である)。また、二郎のほうも、菜穂子の為に飛行機を設計しようという動機は持たない。設計中に彼女のことを思い浮かべることもない。むしろ、彼女の容体の急変を聞いて東京へ向かう車中、不安と恐怖を忘れるために必死に計算をし、設計作業を続ける場面に示されているように、飛行機も設計も彼女とはまったく異なる世界のものとしてある。

そういう意味で、菜穂子は宮崎アニメのヒロインとしてまったく違う地平に立っているし、それは二郎にとっても実はそのようでありそうであり、つまり、もしかするとヒロインですらないのかもしれない。

では、菜穂子とは何だろう。その手掛かりになるのかもしれないのが、婚礼の儀の場面である。二郎と菜穂子の登場する場面では、震災のなか群集をかきわけ二人で走るところ、その対比となる駅での再会、それらに次ぐ名場面といえるけれど、ここで流れる音楽――サウンドトラックでは「旅路(結婚)」と名付けられた曲は、冒頭の夢でも流れる曲(トラック1「旅路(夢中飛行)」)の変奏である。菜穂子との婚礼なのに菜穂子の主題(ちょっとラピュタの主題曲を思わせるあれである)ではないのは、この婚礼の菜穂子が菜穂子ではなく夢の菜穂子である、ということではなくて、この婚礼が夢と限りなく近い瞬間、いや、ほとんど夢そのものであったからだろう。既に述べたように、この作品において夢と現がほぼ地続きなのである。飛行機とカプローニしかいない夢中飛行の草原の先に、このときは確かに、婚礼の衣装を身にまとった美しい菜穂子がいたのだ。
 だが、それは同時に、このときだけだった、ともいえるのだ。それがはっきりするのが最後の夢の場面である。

    *

風立ちぬ』の最後の場面は、冒頭の場面と同じく、二郎のみる夢だ。戦火に包まれる東京の街の情景から例によって明確な区別なく、無数の飛行機の廃墟の横たわる夢の草原へとつながっていく。優雅な飛翔から不吉な失墜へと展開した冒頭の場面とは対照的に、破壊の情景の先にいつも通りの優雅な佇まいのカプローニが待っている。ここで語られるすべては、この『風立ちぬ』という作品の総括であり、種明かしであり、最も残酷な死と破壊でもあるのだが、最初にこの場面を見てそう思う人はほとんどいないに違いない。というか、そもそもこの場面が、映画の最後の場面だと思う人すらほとんどいないに違いない。駅での再会から婚礼への盛り上がりを最後に、そのまま淡々と展開してしずかに終わり、は宮崎映画にはありえない、根っからの「客を楽しませたい」人である宮崎駿が最後に何らかの大立ち回り(『魔女の宅急便』のアニメ独自の終盤の飛行船を巡る活劇についての宮崎の言葉を使うなら「最後の打ち上げ花火」)が、用意されいないはずがない、と思うのはごく自然なことだし、個人的にも、戦後の二郎がエピローグ的に描かれるか、夢の中でまたあの鳥型飛行機が飛ぶか、つまりなにかもうひと場面、それも華やかな場面がはあると思ってみていたので、ごくあっさり堀越二郎堀辰雄へのクレジットが出てそのまま荒井由美の歌が始まったときには、その驚きのない展開に驚いてしまい、これはきっと全クレジット終了後に、『紅の豚』のような数秒位のおまけの場面があるのだろうと、これまた無駄な期待をして、それがないことにまた無駄に驚いてしまったのであった。
 この辺もやっぱり脚本の雑さというほかはない。最後の場面だとわからず見ている観客と最後の場面だと思って描いている作り手では、間違いなく意識や想像力の共有に齟齬が生じるからである。

 さて、しかしここは正しく最後の夢を最後の場面として考えていこう。

この何度も来た草原について、二郎は言う「地獄かと思いました」
カプローニは答える「地獄ではないが、似たようなものだ」

 これら考えてみるととんでもないやりとりである。今まであの場所で語られた希望や、あの場所が出るたびに流れたのどかで安らぎに満ちた音楽(「旅路」である)は一体なんだったのか、地獄のような場所で希望を語り、地獄のような場所の象徴があののどかな楽曲だったというのだろうか。
 あるいは、「地獄」とは二郎が手塩にかけて作り上げた飛行機の廃墟を、廃墟だけを指していったのだ、という人もいるかもしれない。だが無論、そうではないし、そうはならない。あの廃墟も含めた、あの場所全てを指している言葉である。それは続くカプローニの台詞が示している。

「飛行機づくりは呪われた夢だ」

 夢自体が呪われているのである。この場所そのもの、この場所の全てが呪われた場所なのだ。どこまでも続く草原と青空、それが『千と千尋の神隠し』の人の世界と神々の世界を繋ぐ場所と地続きのようにみえるのも偶然でないのだ。そこは安らぎの地ではなく、地獄への入り口なのだ。だからこそ、カプローニが美しいと絶賛した零戦が飛び立っていったさきに、あのマルコ・パゴット中尉の見た死の空の夢そのままの光景がそのままでそこにあるのだ。
マルコはかれが目にしたあの空をなんと評していたか、というと、こうである。

「あそこは地獄かもしれねえ」

そしておそらく、かれの推測は正しいのだ。

先にこの映画は二度見たと書いたが、二度見て印象が一番変わったのがこの場面だった。そして二度目に見た時、一度目の「最後の打ち上げ花火」不足の気分は、作者の意図通りではないのかもしれない、と思えるようになった。それどころか、誤解していたのはこちらで、つまり、この「呪われた空に飲まれていく零戦とそこに展開している何白何千の飛行機(の幽霊)」こそが、作者にしてみれば最大最悪の打ち上げ花火であり、まさに地獄のような光景のつもりであったかもしれないのだ、と。
 ただし、正直にいってこの場面には人にそう思わせるだけの力はない。その求心力の無さは、宮崎執筆の企画文における「美しい映画を作りたい」という言葉でも糊塗できないような作り手の衰弱を感じずにはいられないし、それでも好意的に推測するなら、最後の最後にコンテを切ったために、疲労困憊、文字通りの衰弱状態で描かれたのだから、仕方のないことであるのかもしれないが、そういう力の配分の失敗も含めて、やはりここは失敗しているといわないとならないだろう。この場面が『紅の豚』のあの場面なみの、壮麗で幽玄ながらなおかつ壮絶で恐ろしい大量死の風景として描かれていたのなら、この最後の夢が最後の場面でないなどと勘違いする人もいなかっただろうし、なによりそんな批評家的理屈にもとづく見方などどうでもよくなる次元で観客を圧倒していたに違いないのだ。なんと勿体ないことだろう。最後がズタボロでいいのは登場人物だけである。

そして、また、菜穂子である。飛行機と並んで、二郎の人生において重要な「夢」であった菜穂子である。しかし、彼女はあらわれて一言二言いってすぐに消えてしまう。このくだり、庵野秀明の決してうまくはないが、独特の朴訥さとある種の迫真性のある呟きのような「ありがとう」という台詞によって、なにがしかの感動的な風情はあるのだが、正直ここが最も衝撃的だった。感動するどころではなかった。
 だって、あれほど大切な存在だった菜穂子すら、二郎の夢の世界に居続けられないのだ。なんという夢だろう。なんという恐ろしい世界だろう。そんな地獄のような、草木と空と妄想の存在と廃物しかない世界でしか生きられない二郎とは、なんというかなしい人間だろう。
 ことここに至って、ようやく、この『風立ちぬ』という作品がどういう物語であったのかが明らかになるのだ。

二郎が何に突き動かされて生きてきたのかといえば、それは夢である。夢の中で生きる目標を定め、夢のように美しい飛行機を作り出すことに心血を注ぎ、夢のように素敵な女性と出会い、夢のように美しい婚礼をし、夢のように彼女は去り、夢の中でまた出会い、また別れ、その夢を抱えてまた生きる。そして彼は知っている。その夢とはしかし呪われた、地獄のような場所なのだと。

風立ちぬ、いざ生きめやも」

ここでいう風とは、世界の、社会の、人生の、歴史の動きであり、その動きに巻き込まれている以上、人は生きていかなければならない。最愛の人をなくしても、それでも時間は進み、残されたものは生きていくのだ。ヴァレリーは、そしてそれを引用した堀辰雄はそういっている。そこに宮崎は、新しい意味をつけくわえたのではないか。風とは夢である。夢が人を動かし、人を生かし、夢を持った者だけが生きていくのだ。二郎とはそういう男であり、そういう男のまえでは全ては夢の糧にすぎない。零戦に乗って死んでいった沢山の兵士も、戦火に消えていった人々も、友人や同僚や、菜穂子でさえも。

そんな人物の生涯を描くにあたって、通常の時空間描写は必要なかった。ふさわしくなかった、といってもいい。過去も未来も、西も東も、実在も非実在も全てが等価に進行する世界、そして、現実音もあれば、明らかに現実のそれとは異なる唸り声のような掛け声のような(頭の中で妄想されているだけのような)機械の響きもある世界、それはまさに夢そのものであり、夢に生きる男を描くのにこれほど相応しいキャンバスはほかになかったのであり、まさにそのようなものになるべくこの『風立ちぬ』という物語は描き上げられたのだ。
二郎の声に本職の声優でも俳優でもなく、弟子にして監督でもある庵野秀明が起用されたとき、誰もが驚いたものだが、実際に本編で見ていると、第一声と詩の朗読以外は大きな違和感がないことに気づく。というより、違和感自体はずっとあるが、彼が、プロのそれとは異なる口調で終始することによって、いわば違和感を個性に変えている、という構図はつまり、二郎という人物が終始作品世界とは違う次元にいる、ということでもあって、それはちょうど、夢と夢を見ている者の関係なのである。

当然、それはさらなる連想を容易にする。このフィルムが二郎の夢そのものであるとしたら、それは同時にこのフィルムの作り手である宮崎駿の夢であり、夢が二郎という人間の肖像であるとしたら、同時これは宮崎駿という人間の肖像であるのではないか。いうまでもなく、そうに決まっている。もし、宮崎駿がもっと自分自身の声や演技力に自信があり、さらには自分というキャラクターに愛着があって、自画像を豚人間になどしないような人間であったなら、二郎の声は宮崎自身がやっていたに違いない。もっとも、そういう人物であったなら、そもそもこういう映画を作ろうと考えなかっただろうし、作られもしない映画の主演などをするはずもなかっただろうけれど。

    *

さて、最後にざっと映画のスタッフ等について。
 まず、役者陣。前述の庵野秀明の特異性を生かすためか、それまでのジブリ作品と比べても非常に水準が高いように思う。単に技術的な面以上に、うまく映画になじむ人選という気がする。過去にジブリ作品に出ている人の再起用が多いというのもこの馴染み方の良さに影響しているのかもしれない。なかでは黒川という口うるさいが誠実で公平で人情家ですらあるという、外見も含めて完全に漫画のようなキャラを当たり前にそこにいるように演じた西村雅彦と、いつもどおりの大芝居なのに、この世のものではないような優雅さと豪快さを兼ね備えたカプローニを第一声から表現しきった野村萬斎が双璧だろうか。菜穂子の滝本美緒は悪くないが、少女時代の菜穂子の飯野茉優のほうが達者なぶん、割を食っているようにも思う。
 一方、久石譲の音楽は正直もうすこし振り幅が欲しかった気がする。大半が「旅路」と「菜穂子」のテーマの変奏で構成されているのはいいのだが、肝心の主題自体がよわい。「旅路」は確かに良い曲なのだが、久石譲が『千と千尋の神隠し』の「6番目の駅」のような強力な曲が駆ける事を、ジブリファンならみな知っているのだ。ああいう曲があれば、映画全体にピシッと背骨が通ったにちがいない。
 その背骨代わりとして想定されていたのが、あるいは荒井由美の「ひこうき雲」だったのかもしれない。素晴らしい曲だし、再三触れている四分間の予告編での使われ方も素晴らしかったのだが、それに比べると本編での使い方は通り一遍で、曲に内在する力のすべてを出しきれていなかったように思う。というより、じつは「ひこうき雲」は微妙に映画の内容とは合っていない曲である。この作品は「はかなくこの世を去ったあの子」の話でなかったのだから。

それにしても、この映画全体に漂う死の気配と、それにもかかわらず漲る若さは一体どうしたことだろう。全然老境の作家の作品のようではなく、とてつもなく老成した青年、それも未完の大器による作品のようだ。『崖の上のポニョ』にあった、これが遺作となっても仕方ない、というような老人の我が儘一杯の作劇とは違う、自分の好きなものを詰め込んではいるが、詰め込んだもので好き放題に遊ぶのではない確かな意志の存在と自制心の強さを感じる。
次回作を作る気があるのか、あるとしたらそれがいつのことになるのか、現時点では皆目わからないが、想像するだけもわくわくしてしまう(以前語っていた青年芥川と老人漱石の話だろうか?)。末恐ろしい七十二歳である。


 夢こそは我が嘘のいやはての砦
 あまたの空の出入りする
 そして俺は番兵
 空をまとめて串刺しだ
 青い血を彼等のために流そうよ
 ――谷川俊太郎「俺は番兵」

第六話「大罪を犯す」

あるいは
「退職刑事と『古典部』」


       1 

「おまえ、今週の『氷菓』は見たか」
 硬骨の刑事だった父が恍惚の刑事になってからずいぶんと経つが、世俗への関心は衰えないらしく、最近では、孫娘とはなしをあわせるため、と称して、いつのまに修得したのか、我が家の居間にあるブルーレイ・ディスク・レコーダーの録画機能を駆使して、深夜のアニメなどを熱心に見るようになった。といっても、せっかくの知識は、孫娘と会話の話題につかうよりも、息子の私をつかまえて、脚本の欠陥を難じたり、父が日常では知りようがない文化や若者言葉の意味を理解していることの自慢に使われることのほうが、多いような気がするが。おかげで、ずいぶんといろいろなアニメーションを、私は、年の割に知っている。
 そんな父の最近のお気に入りらしいのが件の『氷菓』という作品で、その今週分を父はとっくに見終えているらしい。仕事を終えて帰宅した私に、いきなりそうたずねてきた。
「昨晩、放映されたばかりの話でしょう。見ているわけが、ないじゃないですか」
「そういえば、そうだな。じゃあさっさと、見るんだ」
「別にあわてる必要も、ないでしょう。ブルーレイ・ディスク・レコーダーの現場保存力は、完璧ですよ」
「たしかに、現実と違って、物語の現場は時間によって証拠が失われることは、ないがね。見た私の記憶は時間によってどんどん、失われてしまう」
 口が減らない老人を父に持つと、息子は苦労するのである。夕食もそこそこに、『氷菓』の第六話「大罪を犯す」を鑑賞したが、父が何をそんなに急かしていたのかは、よくわからない。たしかに、主人公の探偵役、折木奉太郎の推理には、やや無理がある。それに、解かれずに終わった疑問点も、ないわけではない。しかしそれは騒ぐようなものとは、思われないのだ。そう伝えると、父は微笑みながら言った。
「現職刑事は、仕事をしていなくても、その観察力と推理力はやすませてはいけないぞ。事件の手がかりが、いつ、めのまえに出現するか、わからないんだ」
 その眼の輝きには、稚気だけでなく、鋭さもあらわれていた。恍惚の刑事の中で、すこしばかりかもしれないけれど、硬骨の刑事が目覚めているに違いない。


       2

「まずは、お前が気になった点を言ってみなさい」
 すっかり、部下相手のブリーフィング――といっても、父が現職だったころは、こんな言葉はなかっただろうが――をするような口調になって、父が言った。
 「事件」のあらましは簡単なものだ。主人公・折木奉太郎が隣のクラス、二年A組の授業中に教師が大声を上げて「キレる」のを耳にし、さらに抗弁する声の主が折木が所属する古典部の仲間である千反田えるであることに気付く。放課後、古典部の集まりで、当然のことながらその時のことが話題になり、どうやら教師が勝手に授業範囲を勘違いして、そのことに気付かず生徒を叱責したらしいこと、教師に意見した千反田がその教師の怒りに対して怒りを覚えたこと、さらに、千反田本人がなぜ自分が怒りを覚えたのか、思い出せないこと、を知る。そして、古典部の面々は様々な可能性を検討して、教師が授業用の教科書に記した各クラスごとの進度の記述を、すでに教えているD組とそうでないA組とをとりちがえた、そうなったのは、アルファベットの大文字を小文字に変換して書いていたため、aとdの縦棒の長さが紛らわしくなっていたからに違いない……というわけなのだが、
「まず、数学の教師だから、大文字を小文字に変換して書くだろう、というのは苦しい気がしますね。ロボットのイメージ映像とつかっているところや、福部の『生徒にも厳しいが、自分にも厳しい』という発言からしても几帳面な性格と推測できるから、大文字で書かれているものを、必然性なく小文字に変換する可能性は低いでしょう。また、そういう性格なら、かりに変換して書く習慣になっていても、見間違いようがないぐらいにきっちりとaとbを書きわけるのではないでしょうか」
「そうだな。さらにいうなら、普段から見わけられないような書きかたをしているとすると、間違いが今回初めてという可能性は低くなる。自分に厳しいという性格で、教師生活二十年、四十台になる御仁が、そういった間違いに対する対処が今更できていないという可能性は限りなくゼロといってもいい」
「四十台?」
「クラスの表示板を見てかつらがずれる、というハプニングについて、よくあることだ、というくだりがあっただろう。頭髪の減退について、徹底的に隠したくなるほど、悩むのは三十台までだ、かといって完全にあきらめがつくほど、年相応の禿げ方でもないから、大きなかつらを使わざるをえない、というと、五十台を越えてはいないだろう、ということだな。まあこれは単なる推測だ。すくなくとも、わざわざつけているかつらが外れて、動揺するほどの若僧ではないわけだ。ともかく、数学教師が自分の書き込みを見間違えたという線はない、ということだ。付箋やしおりの位置が、何らかのはずみで変わっていたり、外れていたり、といったことでもないよ」
「そのあたりは見当もされてすらいなかったですが」
「いや、そういったものは、本の小口や天から見えていないと用をなさない。生徒のまえでつかう教科書にそれがつかわれていたら、生徒はそれにかならずきづく。古典部の面々がその可能性を検討しなかったということは、はじめからその可能性があり得ない、つまり教科書にはそういうものを使用している形跡が全くないと、彼らが『見て』知っていたから、ということになる」
「これでは古典部の高校生たちと同じ袋小路じゃないですか。数学教師は授業進度を勘違いしようがなくなくなってしまいますよ」
「おいおい。高校生と同じ勘違いをしてどうするんだ」
「というと?」
「まずは、古典部の子たちは、数学教師が授業の範囲を間違えた理由を探ったわけだが、この時点で実はもう勘違いをしているんだよ」


       3

「数学教師が数学の教師であることは間違いではないでしょうし、探究心をもつことも間違いではないでしょうから、『授業を勘違いした理由を探る』ことが間違いだったということですか」
「もうすこし、範囲を、絞れるだろう。「理由を探る」ことが間違い、だけで十分だ」
 それではなにもやることがないのではないだろうか。
「なにか、言いたそうな顔をしているな。まあ、最後まで、聞きなさい」
 そういって、お茶を軽くすすると
「ある行動の理由を探るには、その行動が存在しなくては意味がないだろう。落語家が高座でエレクトリックギターを弾いた、その理由は、と聞かれたって、実際にそういうことをした落語家がいなければ、問題としては、不完全だ。どういう理由だって考えられるし、どういう答えだって間違いになる」
「でも、この場合は、その数学の教師は確かに存在しますし、勘違いされて予定より早く教えられようとした授業内容も存在しているでしょう」
「数学の教師は、確かに存在するだろう。予定より早く教えられようとした授業も確かに存在する。しかし、勘違い、はどうだろうか。古典部での検討をよく思い返してみなさい。教師が授業の進度を勘違いしていた、というのは千反田のお嬢さんの推測でしかないんだ。そしてすでに検討した通り、数学教師は授業の進度を間違える隙はなかった。そのことが意味するのはつまり、数学教師は授業の進度を間違えてなんかいなかった、ということだ。いいかね、彼は、クラス表示をかつらが落ちるほどしっかり頭を上げて目視し、教科書に記した情報ときっちり照らし合わせて進度を確認したうえで、確信的に、まだ教えていない内容だと確実であることをすでに教えたと勘違いしているようなふりをして、授業をおこなったんだ」


       4

「あえて教えていない範囲を教えたふりをしていたのだと考えると、つじつまの合う点がたくさんある」
 反論しようとする私を視線でおさえて、父はつづけた。
「たとえば、最初に、『川崎さん』を指名して、彼が解答できず、二人目『数学の得意な田村さん』にあてて、彼も答えられず、誰も答えられなくなり、激怒した、という展開があっただろう。一見自然な流れのように見えるが、そうではない。おそらく『数学が得意な田村さん』が予習をよくするタイプではなかったということなのだが、これは逆に言うと、かれが予習の必要がないほど、のみこみのはやい生徒だった、ということでもある。そして、彼のそういう特性は、よほど無能な教師でもなければ、とっくに、わかっているはずだろう。このクラスになって数か月、最初の中間考査だって終わっているんだ、どの生徒がどれくらい授業熱心であり、逆にどの生徒がどのくらいやる気がないのかもわかってくるだろう。もちろん、予習復習をちゃんとやってくる生徒と宿題すらろくにやってこない生徒の区別だってつくように、なっている。そのなかで、予習はしていなくとも、のみこみははやい生徒が、前回の授業の内容を覚えてない、という事態は、腹立たしいというよりは、なんらかの事情があると疑うと思うのが自然だ」
「病欠で、前回の授業を受けていなかった、とかですね」
「そうだ。しかしそれを一足飛びに省略して、おそらく怠惰であるとか傲慢であるとかを理由に叱責をした。しかも、『田村さん』は二度指名している」
「生徒に厳しいにしても、確かにしつこすぎる感はありますね。しかし、溺れる者は藁でもつかむ、ではないですが、怒髪天を衝いて、理性が吹っ飛び、冷静な判断ができなくなっていたと、考えることもできませんか。」
「溺れる者は藁でもつかむ、というのは、溺れているような人でも、何かをつかまないと溺れ続けるということだけは判断できる、という教訓だ、と考えることもできるよ。普通に授業をしていて、答えられてしかるべき問いを答えられない人間が次々に出たとしよう。教えたことに確信がある教師がするのは、確実に教えたことを覚えている生徒を探すことだろう。そこであわてたとしても、理性がなくなればなくなるほど、次こそは、と答えられそうな人間を探すはずだ。そうやって、クラスの生徒全員を指名したあとに最初に戻るなら、わからないでもない。一歩ゆずって、最初に答えられなかった相手を集中砲火する可能性というのも、印象の問題からすると起こりえないでもないが、二度指名された『田村さん』は二人目の解答者だ。しかも、この先生は、授業熱心なほうで、当然、生徒が答えられないことに喜びを見出すタイプの教師でもなかったようだから、クラスの生徒から解答をひきだす目的であるのに、既に答えられなかった相手をわざわざえらんで再度指名する理由はどこにもないよ」
「授業熱心な教師が、教えてないことを教えたふりをして授業をし、あまつさえ、激怒すらしてみせる、という理由もどこにもないように思えますが」
「この『事件』の面白いところはそこだ」
 退職刑事はにやりと笑って、またお茶を啜った。


       5

「おまえも気づいていたと思うが、アニメーションの本編ではまったく解決されずに放置された謎がひとつあるな」
「ありますね。千反田さんは何に怒ったのか、ですね」
「それが、大きなヒントなんだ。彼女が感情的に大きく揺れ動くのは、合理不合理の問題の時が多いだろう。」
「叔父さんの件で泣いたり、折木君の謎解きに感動したり、天使とからかわれて怒ったりは、確かに、理不尽さへの怒りや嘆き、あるいは、合理性への賛美ですね」
「そうだ。しかもそれは、彼女の中で必ずしも言語化されて認識されていない、というのが重要だ。おそらくは無意識な判断が感情の揺らぎとしてあらわれてくるんだろう」
「そんな彼女が腹を立てた、というのはつまり、そこに不合理があった、と。でもそれは『勘違いから生まれた理不尽』にむけられたものなのでは、ないですか」
「違うな。折木少年の謎解きを聞いて、彼女は『勘違いは責められない』といっているだろう。彼女にしてみれば、誰にでもあるミスなら理不尽のうちに、はいらないんだ。つまり、あの場にあった『理不尽』は誰にでもあるミスではなかった、ということを、彼女が無意識に判断したのだ、という推測が成り立つ。そこにミスではない理不尽の存在を、彼女は感じ取ったんだ」
「しかし、彼女の直感が正しいとしても、意識的に授業内容を間違えることによるメリットは、やはり教師にあるようには思えませんね」
「メリットなら、いくらでも、あるだろう。プラスであれ、マイナスであれ、ああいう授業をしたことで起きたことがすべて、メリットだ」
「それは屁理屈ですよ。動機として考えられるものはない。マイナスのメリットはデメリットでしかない。それに、かりになんらかの目的があって、間違えた内容の授業を始めたとしましょう。そこで、気の利いた生徒がすぐさま『先生、そこはまだ習っていません』といったら、どうなるんです?」


       6

「異変の理由に気づいた生徒がいくらいても、すぐに言うことは、できないよ。黒板に式を書き、問いかけをする。このあたりまでは、どんなに賢い生徒であっても教師の行動の真意は、つかめない。黙って話を聞いているはずだ」
「でも、そのあとには気づくはずでしょう」
「そこでおそらくはそれほど数学が得意ではない『川崎さん』の出番になる、としたらどうだ」
 なるほど。教師は生徒の能力と態度をすでに把握できている季節なのだ。「川崎さん」がそういう狙い通りの生徒であるなら、問題の授業範囲を予習してあって、教えていないことでも答えてしまうおそれもないし、その解答できないというトラブルが、自分が本当に習ってないことであるのか、あるいは、うっかり教わったことを思い出せていないのか、その区別ができずに当惑することも、数学教師の予想の範疇だった、ということになる。
「そうして、一人目が混乱して沈黙して、二人目も答えられない。それを口実に激怒すれば、クラス全体に解答できないような雰囲気を作り出せる、というわけですか」
「そこまで計算するかはわからないがな。少なくても、最初の一人の反応だけは、予測できていたはずだ。いくら激怒して見せても、二人目の「数学な得意な」生徒が解答できなかったことと、自分たちの前回の授業の記憶から、教師の間違いに気づく生徒は一気に増えるはずだし、千反田のお嬢さんのようにその抑圧から脱して反発する生徒が出てくるのは時間の問題だ」
「うまく間違いを指摘できない生徒の存在を把握できているなら、おなじように、そういう物怖じしない生徒の存在だって把握できているはずですからね」
 しかし、それでも間違える理由づけにはならないが――
「まだわからないか。数学教師の『間違い』を最初から考えてみてごらん。授業範囲を間違い、まだ解法を教えていない問題を板書し、答えられない生徒を当てた。この中で、教師の自由になることはなんだろう」
「授業範囲の間違い自体は勘違いで済まされる範囲はたいして広くないでしょうし、すでに教えた部分では間違う意味がない。自由度は少ないですね。問題は、例題のかたちをとる以上特殊なものにはできない。すると生徒を選ぶことぐらいしかない」
「そうだ。状況を掌握するために、どの生徒を選ぶかは、教師の選択次第だ。あるいは、その最初のひとりふたりが目的であったら、これはもう失敗のしようが、ないだろう」
「つまり『川崎さん』と『田村さん』を当てることに意味があった、ということですか」
「おそらくは『田村さん』だな。二度指名しているところも、彼への執着を感じさせる。『単なる勘違い』を偽装するだけなら、二度目は絶対避けるはずだ」
「でも、長続きさせるつもりはなかったのでしょう? それこそいつ千反田さんが割り込んできてもおかしくなかった」
「いやむしろ、割り込んできてほしかったのはないかな。最初に「川崎さん」を当てて、彼の動揺が『田村さん』に波及し、もとより予習をしていない彼が、自分が解答できない原因を自分のせいではないと推察できない状態に陥れたところで、目的はおおむね果たされたとみるべきだろう。あとは誰かが指摘するまで芝居を続けることにして、単なる勘違いとして、あっさり幕を引く。自分で間違えて自分で気づくという完全な独り芝居を演じきれる、と算段して、実行できるような心の余裕や肝の太さとは、あまり縁があるタイプとは思えない。「また尾道だよ」という生徒たちの感慨は、彼はむしろ短気でその場の感情に流されやすいタイプだったことをしめしている。自分の『勘違いによる』怒りを引っ込めるにも、生徒の意図せざる協力を得るためにも、極端な怒りや理不尽を演じる必要があったはずだ。おそらく、当初の予定では『川崎さん』を叱っているところで誰かが言い出すだろうとふんでいたが、予想外に皆が委縮してしまい、黙ってしまった。仕方ないから、混乱している『川崎さん』を再度指名して、状況の異常性、理不尽性をアピールして見せた」
 内心、最も焦っていたのは数学教師本人だったかもしれない
「その意図的な理不尽さを千反田のお嬢さんがぴたりと嗅ぎつけた、という流れですか」


       7

「しかし、そこまでして問題の生徒を困らせる理由はどこにあったんです?」
「そのヒントは、数学教師が、数学の教師であるところにあるんだろう」
 禅問答のようなことをいいながら、新しく淹れてもらったお茶をうまそうにすすって、
「彼は数学の専門家であっても、それ以外のジャンルではそうではないかもしれない。そして、『川崎さんは数学が得意なだけではなく、それ以外のジャンルも得意かもしれない。そんな二人が、一方にとっては短所、他方にとってはそうでもないこと、それも、授業中にはっきりその事実が確認できること、といったら、考えられるのは、数字やローマ字の問題ではなく、漢字やひらがなの問題だろう。刑事をやっていた頃も、大学でトップクラスの成績を収め、第一線で研究をしているような学者や医者が、小学生でもしないような誤字や誤読をしていたのを、嫌というほど見たよ。ほかの生徒が気づかなかった、数学教師の誤りをひとりだけが、気が付いた、あるいは、気づいたことを彼だけが表明した。そしてそれをどこかで揶揄し、おそらく本人が気づかないうちに、そのことが数学教師の耳に入ったんじゃないのかな」
「その報復、というわけですか。生徒に厳しく自分にも厳しい教師にしては、子供っぽいな」
「授業の内容そのものへの批判だったら、違っていたかもしれないぞ。授業の内容そのものへの批判でないからこそ、無防備な急所を突かれた気分で、カーッとなってしまった、ということは、十分ありえるよ。いってみれば、そこはプライベートだった。子供っぽい怒りは、子供っぽい報復を呼ぶ」
「それが、絶対答えられない問題をぶつけて、立ち往生させるといういやがらせになる、と」
「ああ。不得意なことで恥をかくことの辛さが、おまえにわかるか、といったところだろう。でも、このあたりになると、あまりにデータが少ないから、推測の域を出ないし、仮に本人たちに話を聞けたとしても、推測通りの答えが返ってくることは絶対、ないだろう。教師は勘違いで押し通すだろうし、生徒はそもそもなんでそういう目にあったか、はっきりとはわからない」
たしかに、どうやっても真相は永久に藪の中だろう。
「それに、これらの推理だって、なんら確証があるわけじゃない。もしかすると、数学教師と『川崎さん』がどこかの組織の一員で、不可解な状況を作り出すことによって千反田のお嬢さんを立腹させ、必然の流れとして古典部の放課後の活動を長引かせることによって、優れた探偵能力を持つ折木奉太郎少年を一定時間構内に出すことを阻止し、その時間帯に遂行される組織による巨大計画犯罪を邪魔させない、という、遠大な仕掛けの一端であったかもしれないし、たまたま、曲線をもたせず三角形のように書いてしまったDの字を、ついうっかり、片足をのばしそこねたAの字と誤解して、しかもその日は朝食の目刺しを、飼い猫のタマに略奪されておなかがすいており、虫の居所がことさら悪かった、というだけの一幕狂言だったのかもしれないよ。ああ、そういう意味では、折木少年の解答でも問題は別になかったともいえるのかもしれないな」
「しかし、間違っている可能性は高いですよ」
「間違っているか、間違っていないかは、重要じゃないんだ。古典部の謎解きというのは、あくまで、千反田のお嬢さんが気になるといったことに、答のようにみえるものを与えることが目的なんだ。それが嘘でも本当でも、かまわない。彼女が気が済んだ、といってくれれば、それでいいんだ」
「じゃあ、折木くんは僕らが考えたようなことを考察したのちに、より簡単で千反田さんが腹を立てないで済む、悪意不在の解答を考えついた、という解釈も可能ですね」
「いや、それはないだろう。あれが折木少年の考えうる最高の解答だったに違いないよ。あれ以上の解答を彼には思いつけなかったんだ」
 恍惚の刑事はにやりと笑って
「考えてもみろ。おまえにはもう想像がつかないかもしれないが、思春期真っ盛りの少年が、かわいいお嬢さんに、吐息のかかる距離まで接近されて、おまけにきらきらした目で凝視されているんだ。彼がどんな天才的探偵であっても、七つの大罪のひとつ――「色欲」に惑わされずにはいられなかったはずさ。あれぐらい考えられただけでも、上出来、といえるんじゃないかな」

               (20120531-20120602)
お断り
この作品はフィクションです。実在の、都筑道夫安楽椅子探偵の名作シリーズ、京都アニメーション製作の青春は甘いだけではないミステリーアニメシリーズとは関係のないところは一切関係がありません。また、アイザック・アシモフ安楽椅子探偵シリーズの名作がアメリカンコミックスの蝙蝠憑きの闇の探偵シリーズと競演したときのタイトルとも関係のないところは一切関係がありません。

立川はシネマ・ツーにてレイト・ショーを鑑賞。正直な話、前日譚にあたる番外編のパスポートをとる話が、番外編のなかでも、というか『けいおん!』『けいおん!!』すべてのエピソードのなかでも、最低ランクの出来だったので期待度はダダ下がりだったし、おまけに大ヒットしているという話もあり、さらに行く気が失せていたのだが、自由に再生停止ができたり、途中で寝てもまったく問題のないテレビ放送やソフトで見るとはまったく異なる緊張感とともに見る「けいおん!」というのも今後二度と体験できないかもしれないし、最近劇場行ってないし、イベント的な状況は乗り遅れたら追体験不可能だし、レイト・ショー料金なら前売券よりも安いし、大画面で憂を見られるのはそう悪くないかもしれないし、といった感じで、最終的には、まあいろいろ問題はあるだろうが見ても損はないかもという判断になったのであった。
 劇場は日曜の夜八時という時間のせいもあるのか、六、七分の入り。ほとんど男性、年齢的には三十代ぐらいまで、という典型的なアニメファン向けアニメの客層。一般層がほぼいなくても「大ヒット」は可能ということなのか。あるいは昼間はもっと「一般的な」客もいたのかしら。


それはさておき『映画 けいおん!』である。テレビシリーズの第一話を想起させるイントロから、これはフェイクですとクレジットが出ているに等しいフェイクオープニングにこれは猿芝居ですとクレジットが出ているに等しい、メンバー抗争猿芝居、そして本当のオープニングにいたる流れは、好調とも軽快とも言えないけれども、このシリーズらしい「ゆるさ」が炸裂していて、本作の「映画」という角書きのいかめしさをあっさり解消する。テレビ版と同じく、なんのこだわりも感じられないスタッフクレジットの出し方にも、そういう解消効果がある。そして見る人は皆思うだろう。ああ、画面と音声の大きなテレビだ。

そう、これはいい意味でも悪い意味で、画面と音量の大きいテレビアニメにすぎないのだ。以前、同じ京都アニメーション制作の『劇場版・涼宮ハルヒの消失』もテレビアニメを数話分つないだようだと評したが、これも同じことが言えると思う。番外編を四話つなぐと、はい『映画 けいおん!』の出来上がり、といったような。

たとえば、テレビのコマーシャルだとまるでメインのエピソードのように扱われている軽音部のロンドン珍道中、つまりは卒業旅行の話が、時間的にも内容的にも結構適当な扱いだったりするのだが、これはこの映画の本筋が「放課後ティータイムがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」でもなければ、旅先での異文化交流でもないからで、そのようないかにも映画っぽい大きなネタをやるつもりなど、スタッフ的にはハナからないということの表れでもある。「外国」に行っているというのに、言葉の違いぐらいしか文化の壁が存在しないかのような(このメンバーならおやつと食事関係でいくらでも話を作れそうなものだが)、隣町感あふれる英国描写も、三泊五日の旅行が二時間ぐらいの短期滞在にしか見えないとしても、それはいたしかたないのだ。

また、いちおうはバンドマンのロンドン訪問なのに、最初に行くのがベーカー街二二一Bだったり(メンバーのだれがシャーロッキアンだったのだろう?)、ヒースロー空港に着いたときに流れるBGMが、スコットランドバグパイプサウンドだったり、続けて流れるのがアイルランドU2風味だったり(ロック風を流してアピールするならXTCかローリングストーンズにしてほしかった)、アビーロードごっこもやらずに、二泊目の夜というとくに意味もなく半端なところでビートルズ風の曲を流したり、「アールズコート」にだれも反応しなかったり、というはあたりは、いい意味でも悪い意味でも「けいおん!」らしいところで、このアニメのメインスタッフが、映画を作るに際して、今までより洋楽の知識を深めたりをまったくしなかった感じがよく出ていて、むしろ微笑ましいといえる。


とはいえ、これがまったく無内容、構成をろくにしてない作品化というと、そうでもなく、作り手たちにも二時間弱でひとまとまり作品を提示するという意識そのものはあったようで、映画全体を貫くテーマらしきものもないわけでもない。テレビシリーズ最終回(番外編を除く)で、唯たちによって梓のために歌われた「天使にふれたよ!」の制作過程、特に唯の詞作の苦労が物語の縦糸になっている――と、まとめるといかにも映画の主筋としては脆弱だが、実際脆弱なのである。もちろんただ作詞するだけでなく、作詞を通して、唯たち軽音部三年生にとっての梓とはなにかという話に発展してはいくわけだが、最終的に完成する詞自体が感謝の気持ちをうたったごく素朴なものなので、梓の加わった軽音部の二年間を総括できるような内容にもならない。結局は「いかにして天使というキーワードが生まれたか」だけになってしまう。というか、この命題をひねり出すだけでも脚本家はけっこう苦労したのではないかと思う。

命題そのものに発展性がないだけでなく、命題設定そのものにも発展性がない、という問題もあって、作詞をしているのは唯だけ、そして当然のことながら梓には秘密(プレゼントだからね)という構図なので、どうしたって唯の独り相撲で終わってしまうという構造的な欠陥もある。実際、本編でも、唯が呻吟するのを訝しむ梓、という状況が反復されるばかりで、そこからはコント的な勘違い(というか妄想)以外は何も生まれないうえ、さらには唯と梓以外の軽音部メンバーが完全に蚊帳の外になってしまう。梓の友達にして唯の妹でもある憂のほうがむしろドラマ的に関わっているぐらいである。だから終わってみると、唯と梓(と憂)ばかりが記憶に残るつくりになっている。いくら「けいおん!」的適当さといっても、軽音部が五人である以上、五人均等にエピソードがあるようなバランス感覚はあってもいいかなと思うし、そういう構成ができるような題材選びをするべきだったのではないだろうか。


構成といえば、ロンドン旅行でのライブシーンは、その前段階といえる楽器の持ち込みの動機自体が随分と苦しいのはまあいいとしても、肝心のライブが、親日的な回転寿司屋であったり、日本がテーマのフェスティヴァルであったり、最初から唯たちにやさしいことが見えている場所なのはつまらない。もともと大きな事件の起こりようのない「けいおん!」世界において、見知らぬ土地で、見知らぬ人の前でライブするドキドキ感ぐらい、「映画らしい」スケールと緊張を生かせるポイントはないような気がするのだが。
 もっとも、考えようによってはそれこそ「けいおん!」らしさであるかもしれない。テレビシリーズの時にも書いたとおり、「けいおん!」に描かれる「現実らしさ」とか「日常性」というのは画面のこちら側の現実感に奉仕するのではなく、あくまで画面の向こう側の世界の(ひいては軽音部の五人の)居心地の良さに奉仕しているのだから、ご都合主義でないほうがむしろおかしいのだ。

そんなご都合主義以上に、回転寿司屋でのエピソードは全体にシュールすぎてちょっとどうしようかと思う。そもそも演奏を頼んだ相手には何らかの謝礼を用意していそうなものだが、唯たちのセリフからするとラブクライシスのメンバーが来るまでは誤解がとけてない、ということは、実はラブクライシスにすら初めから謝礼をする気がなかったのだろうか。笑顔なヤクザ?
 ポップジャパンフェスティヴァル(だっけ?)のほうは、演奏開始シーンすらもなくさらっと進行すること以上に、四時に開演、四時二十分に終演、五時に飛行機が離陸という恐ろしいスケジュールのほうが気になった。撤収と移動が四十分で済むのだろうか。超都合の良い助っ人の登場自体は、まあお約束なので良しとする。
 また、撤収と移動は気になるにせよ、そこからのタクシーでの場面はなかなかいい。日本という日常へ戻ろうとする途上で雪というある意味非日常のものが舞い降りてくる。それは天使ともイメージが重ねられるし、その一番美しい瞬間に、梓が眠っていて、残りの四人がそれをやさしく見守っているというのも象徴的だ。『映画 けいおん!』において、最も映画的な情景に近づいた瞬間といえる。見ていても、ここがクライマックスなのかな、と思ったぐらいだ。

 
本作の一番の疑問点はおそらくはロンドン旅行以後の展開で、一応初登場の登校日ライブがあるにせよ、とってつけたような印象は免れえないし、ロンドンでのライブシーンの印象を減ずる効果しか果たしていない。ドラマ的には、ここではようするにテレビシリーズ終盤をより大雑把になぞっただけで終わってしまう。映画版のメインテーマでもあり、テレビシリーズではそれなりに感動的でもあった歌の披露も、テレビの大雑把なダイジェストにすぎないので、なんの盛り上がりもないし、さすがに作画と演出は変えているにしても、やってることはただの繰り返しである。はっきり言ってかなりだれる。どうせ、テレビを見てない人はほぼいないのだし、いたとしても、それこそこんな雑なダイジェストではなく、テレビシリーズで完全な形を見てもらえばよいのだ。そこからの、ものすごく適当な締めも、らしいといえばらしいが、二時間弱の映画が一時間ぐらいのテレビスペシャルに思えてしまうような邪悪な効果もあって、あまり意味があるとは思えない。


なんでこういう中途半端なことになってしまったかというと、すでに書いたように、唯から見た梓の詩を作る、というメインのコンセプトに無理があったせいだろう。舞台をロンドンに限定すればまだ消化不良感は少なかったかもしれないが、異文化交流とかそういうものと一番縁のなさそうな(違いが分からなそうな)唯がドラマの中心にいる以上、異邦の滞在だけで話がふくらませる自信がなかったのかもしれない。
 逆に言えば、ドラマの中心にいるのが唯でなければ、そして、ロンドン編と日本編を特盛にしなければ、もっとなんとかなったかもしれない、ということでもある。具体的には、梓視点にすれば、ロンドン編をメインにすれば、きっとたぶんもっとなんとかなったのだ。

実際、このロンドン行のメインコンダクターは梓なわけである。名所をチェックして、スケジュールを管理し、予約の手配もする。唯たちにとっての卒業旅行は、梓にとっても軽音部の三年生たちとの二年間の総括でもあったはずなのだ。それはさらに、映画版が、テレビ版とは違う観点で「けいおん!」という物語と作品世界をとらえなおす、最大にして最高の機会でもあったはずだった、ということでもある。
 このラインで話を構成すれば、先ほどから何度も言っている天使の歌の制作というコンセプトのドラマ的な広がりの難しさも解決できる。「唯から梓」だとそこから広がりはないが、「梓から唯たち」だと、単純にいってもドラマの焦点は四倍になるのだから。ロンドンの名所を巡りつつ、何かを隠している三年生を訝しむ梓という構図は、四人と梓のかかわりの回想にもなるし、新しい関係性への布石にもなるし、話をふくらませ放題だろう。そしてなによりそれは「けいおん!」の総括という「映画らしい」コンセプトともぴったり一致するのだ。

そしてクライマックスに位置するのがあの雪の降る情景、ということになる。

あとは、屋上のシーンにさくっと話を飛ばして、詞の完成と、曲のさわりをうたわせて、彼女らが屋上から部室に向かい「天使にふれたよ!」を歌いにいく、そして画面からも退場していく、『太陽がいっぱい』式の結末でよいではないか。


くどいようだが、そういう水際立った完成度や、隙のない構築性をみせないのがあるいは「けいおん!」らしさであるのかもしれないし、今回のようなどこまでも、中途半端なものがコアなファンの求めるものであったのかもしれないから、このつくりが悪いとは一概にいうことはできない。でも、やっぱり(これは『劇場版・涼宮ハルヒの消失』でも言ったことだが)、映画を映画として劇場にかけるなら、やはり映画らしいものを劇場でみたいわけである。テレビとまったく同じクオリティ(良くも悪くも)を「それがファンの求めているものだから」とやってしまうのは、あまりに機会と環境と資金を無駄にしすぎてはいないか。テレビと同じものをやりたいのなら、OVAをずるずるたくさん出すとか、テレビ第三期をやればいいのだ。単なる集金イベントのようになってしまっては、「けいおん!」というコンテンツ自体の寿命をかえって縮めかねない。
 もっとも、この映画が、水際立った完成度や、隙のない構築性をみせて、「けいおん!」という作品の完璧な総括になってしまったら、それこそそこで終わってしまう可能性もある(「ルパン三世」における『カリオストロの城』のように)ので、やっぱりこのゆるさでいいのかな? うーむ。


最後に。ティーカップを亀のトンちゃんの水槽に沈めるのはやめよう。これからもそのカップを使うつもりならとくに。