新海誠『君の名は。』のSF方面における諸問題。

くどいようだがまず確認をしておきたい(検索等で間違ってきてしまった人もいるだろうから)。本稿は『君の名は。』を鑑賞した人に向けて書かれている。したがって、中盤の展開どころか終盤の内容までの一切全てがなんの警告もなく言及の対象になる。
ようごさんすか?


では。


『転校生』系列の入れ替わり青春コメディと思わせて、その実態は時間SFでもあった『君の名は。』、その感想は人によって異なるだろうが、おそらく或る一点においては万人が共有するところがあったに違いない。それは、登場人物たちによる時間の移動と歴史の改変に伴って発生する矛盾、すなわちタイムパラドックス関係の処理ーー事態のおさまりどころがよくわからない、ということ。この「わからない」という点については、なにか釈然としないがそういうものと受け入れる、というものから、矛盾だらけでSFとして落第だ許せん、と怒る向きまで様々な反応が考えられるけれど、少なくてもすっきり納得ずくであの結末を受け入れられたという人はおそらくいないはずである。そういう人がもしいたとしたら、それは単に問題の存在に気づいていない人である、というだけのことであって、問題自体が存在しないということではないのだ。

では、作中の出来事、それも時間絡みの要素について、順を追って検討していこう。

冒頭、序章的な位置づけで、主人公らしい二人の東京での暮らしが描かれ、ここからの回想的な――「的な」とわざわざいうのは、本編との明確な関連性がついに示されないからである――かたちで本編に入り、見る側を混乱させる以外は、さのみ意味がないジャンプカットをつかって「田舎の高校生女子・三葉の肉体に精神が入り込んだ東京の高校生男子・瀧」と「瀧の肉体に精神が入り込んだ三葉」が連続して描かれ、この二元中継で物語は本格的に動き出す。映画のこの時点では明かされない設定として(それを暗示する手がかりもほとんどないが、別にそれは悪くない)、この二人の属する時間には実はほぼ三年のズレがあり、これが往年のビル・S・バリンジャーか折原一かという、驚きを伴った中盤の転調の仕掛けを形成するわけだけれど、ここで注目すべきなのは、この時点では二千十三年の三葉と二千十六年の瀧の精神の行き来は、本人たちがなぜか全くその年月のズレに気づいていないせいもあって、タイムパラドックスを引き起こすような過去と未来との間でのあってはならない情報や文物の移動は、一応なされていないようにみえる、という点。時間経過がほぼ同一で、たとえるならば梯子の右の縦木を瀧が進み、左の縦木を三葉が進み、それぞれ横木の部分で意識の入れ替わりが起きるといった状態なため、梯子には歪みが一切生じていない状態といえる。

ただし、この中盤の時点ではまだ隠されている部分だが、一点だけ時間SFらしい要素もあって、それは彗星落下の日の前日、上京した三葉が、まだこの時点では入れ替わり体験をしていない瀧と出逢って組紐を渡す、という、先の梯子の喩えで言うなら、三葉の側の縦木の最先端から、瀧の縦木の末端に向かって言わば対角線上での両者の邂逅があり、組紐という物理的な時間/精神移動の証拠が残されることになる――そして、これが来るべき混乱に向けた大きな一歩となるわけである。

言い方を変えれば、ここまでならば、まだよかった。

問題はここから、糸守町に何が起きたか(三葉視点では、起こるか)が明らかになってからである。

と、そこへ話をすすめるまえに、時間(時空間)移動とそれに伴って発生する諸問題に対して、SF作家がどう対処してきたか、人類が如何に時空連続体の縺れと戦ってきたかという事をざっとおさらいしておきたい。時間(時空)移動という架空の概念が起こす問題に対して、まずやらなければならないのは、世界観つまり時空とはどういうものかというものを決める事から始める必要があるわけだが、それは大きく分けて以下の三つである。

〈一〉歴史は時間移動者による上書きが可能である。
〈二〉過去は本質的に不変である。
〈三〉世界は一つではない。

順を追って説明していこう。
〈一〉は古典的な時間SFに多い考え方で、当然、矛盾ももっとも多く発生する。というか、この世界観に基づいて、時間旅行者たちに適当な時間旅行を沢山させてしまったがために、世界中の時間旅行もののSFで矛盾が猖獗を極める事態になった、といってもいい。有名なのが所謂「親殺しのパラドックス」――時間移動者が過去改変により自分の存在の基本にかかわる人物、具体的には自分の親などを抹消してしまったら、時間移動者の存在はどうなるのか、という問題で、存在の基盤をなくした時間移動者が存在しなくなったら、それにともなって過去改変も起きなかったことになり、過去改変が起きなければ時間移動者が存在しなくなる理由もなくなるわけだから、時間移動者は存在し続けて過去改変を起こして、その結果、時間移動者の存在の基盤がなくなって、と無限に歴史が確定しないということになって、これは非常に厄介である。古典的作品ではそれこそ、時間移動者が自分の行為の報いを受けて消えるところでオチにしてしまうような作品もあったが、そこで終わるなら、なべて世はこともなし。しかし今時はそうはいかない。現実と違い、フィクションの世界は、そしての観客はそんなに単純ではないのだ。読者に「時間移動者が消えて過去改変をしなくなったら」と問い詰められたらどうしようもないのである。これぞ矛盾の真骨頂といえるだろう。

SF作家たちは困惑し、そして対処療法を編み出した。そのひとつが〈二〉である。
この時空理論は決定論的宇宙観などとも呼ばれ、たとえば、時間移動者が過去に戻って改変工作を行ったとしても、それはなんらかのかたちで無効化されるとか、はじめからその時間移動者の行為自体がすでに過去の一部に含まれていたり、といった展開になって、時空は本質的に矛盾を回避する構造をもっている、とするもので、歴史の修正力、と言われたりするちょっとオカルト風の力も、基本的にはこの仲間である(厳密には、これは予定外に改変されたものを「戻す」もしくは「戻そうとする」ものなので、全く同じではないが)。この手の時空理論で世界で一番有名なのは、おそらく『ターミネーター』の第一作だろう。スカイネットターミネーターを過去に派遣したのは起死回生の一手どころか敗着の一手だったというあれである。日本ではおそらく『ドラえもん』(ただし、序盤のセワシの目的を含め、エピソードごとに揺らぎがある)だろうか。のび太はどんなに失敗をしたと思ってもそれによってしずかと結婚できるわけだし、未来の自分が助けに来てくれたから過去の自分を助けに行けたりするわけである。

この時空理論は、それこそ『ターミネーター』や『ドラえもん』がそうであるように、ちりばめられた様々な伏線がクライマックスでまとまって全ての不可解な事象の真相が明らかになるといったミステリ的な面白さを生み出しやすいが、逆に、すべての事象がお釈迦様の掌の上の出来事にすぎなかったとでもいうような窮屈さもあり、これじゃあ折角過去に戻っても予定された通りのことを予定された通りにしただけで能動的にはなんにもしてないのと一緒じゃねえか、と憤る時間旅行者をたくさん生み出しもした。それはそうだ、自由意志がありそうでない世界観でもあるのだから。(尚、この世界観をもちいて、時間移動による因果の連鎖を悪魔の領域にまで複雑化させたのが、ロバート・ハインライン原作スピリエッグ兄弟監督による傑作『プリデスティネーション』になります。暇な人は是非どうぞ。)

というわけで〈三〉の登場となる。
これは「並行世界存在説」といえばわかりやすいだろうか。時間移動者が過去を改変したその瞬間(過去に出現したその時点で過去が改変されているという考え方の人もいるが、その辺りは人による)、世界が分岐し、当初の時空αと改変された時空βという並行世界が出現する。端的に言って、これは大発明だった。時間移動者が好きほうだいに過去を改変しても、タイムパラドックスというかたちでのしっぺ返しはやってこないし、それでいてやったことは確実に世界に影響を与え、なおかつ「修正力」という邪魔もなく「歴史に予め取り込まれていた」もないという、要するに〈一〉と〈二〉のいいところ取りなのである。なんという発明だろう。

代表的な作品ではこれまた『ターミネーター』の、今度は第二作。御記憶ですよね? 「未来は変えられる」というあの結末のサラ・コナーの独白。一作目の主張(全ては予定されていること、すなわち未来は変えられない)と世界観が違うじゃないか、とたぶん世界中のSFファンが突っ込んだと思われるが、娯楽活劇として圧倒的に面白かったので大きな問題にはならなかった。気を利かせて世界観の再修正を図り決定論型宇宙観の〈二〉に再度近づけた(完全に決定論宇宙化したわけではないが)、第三作がこのシリーズの愛好家の大人気作にならず、評論家的にも絶賛の嵐にならなかったあたりに、娯楽作品というものの難しさが表れている。

そして、この平行世界存在説もまた万能――フィクションにおける時間移動理論の決定版――という訳ではない。というより、問題もたくさんある。例えば、「人間の個人の行為で世界をいくつも発生させるのは人間中心的思考にすぎないか?」とか「時間旅行者が改変しただけ世界が増えたら並行世界だらけになってしまうのではないか?」とかあるわけだが、なかでも物語としてもっとも大きい問題は、「並行世界をいくら作っても当初の世界の過去は変えられない」ということ

そうなのだ。

先の親殺しのパラドックスの例でいうと、この理論では、過去に戻って自分の親を殺しても時間移動者が消滅することはなくなるが、それは改変された時空βの自分βの親になる予定だった人を殺しているだけで、当初の世界αの自分の親αには手も足も出せない。そちらの時空αは全く何の問題もなく存続しつづける。『ドラえもん』でそういうテーマを取り扱った大長編があったのを思い出す人もいるかもしれない。アニメにもなった『Fate/stay night』というタイプ・ムーン作の大人向けPCゲームでは、過去から未来まで無限に分岐していく並行世界のそれぞれに介入し、世界を救って回っていた登場人物が最終的に発狂する、といった挿話があったが、それは残念ながら発狂するに決まっているのだ。無限に世界を救いつづけたとしても、それは「救えた世界」を無限に発生させているだけで、救えなかった世界が消えている訳でなく、むしろそちらも無限に発生しつづけるのだから。
なので、並行世界存在説に基づく世界観は「過去で遊ぶ」には適していても、真面目に「過去と向き合う」には実はちょっと困ったものだったりする。

ちなみに時間SFといって高確率で人が思い浮かべるであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作はどうかというと、一作目は全体としては上書き型の〈一〉で、ただし「ドクの銃撃」絡みは決定論型の〈二〉ともいえ(上書きのおかげであのようになった、というも解釈は可能)、そして並行世界を股にかけた追っかけっこに発展する二作目は当然のことながら〈三〉ですが、ほぼ西部劇でSF要素に乏しい三作目はドクの墓の件から判る通り決定論の〈二〉だったりするので、ヒジョーにややこしい。というか、まとめてみると目茶苦茶、ともいえるので、シリーズ総体では時間SFとしては参考にしてはいけない作品なのかもしれない。


とまあ、フィクションの世界であっても、時間、特に過去とはかくも厄介なしろものであるわけなのですが、話を『君の名は。』に戻そう。それも、本作がタイムパラドックスを巡る物語として本性を現す「ティアマト彗星の日」の地点に。


ときに(洒落ではない)、この映画の時間SF的な意味での世界観は一体何だとお思いでしょうか。
上書き型!と答える方が多数だと思うが、それは大いなる勘違いである。ご案内の通り、映画の中で「ティアマト彗星の日」は、二度描かれている。最初は三葉の視点で彗星が落ちる直前までが描かれ、次が三葉と入れ替わった瀧の視点での落下地点からの回避工作と「黄昏時、幽世における邂逅」に至るまで。そしてここで、この映画は初めて本格的な歴史の改変を行う。妙に解り難い見せ方になっているが、最初の時空――仮に「時空α」としよう――では、彗星の日の朝に三葉は瀧とは入れ替わっていない。糸守村の悲劇を知った二千十六年の瀧が、口噛み酒を飲んで「半身」である二千十三年の彗星の日の朝の三葉と入れ替わるのは、「時空干渉により分岐して生まれた二周目の歴史」(いわば時空β)の彗星の日の朝なのである。三葉の友人たちが三葉の髪型の変化に驚くくだりが二度、状況を違えて描かれているのはそういうことだ。一回目は東京で起きたことの衝撃で落ち込んだ三葉が登校しなかったから、祭りの時があの髪型のお披露目の機会になりそこで初めて皆が驚き、二回目は中身が三年後の瀧だから祭の前にあの髪型で普通に登校して、皆が驚く。

問題はここだ。こここそが時の結び目ならぬ、時空のもつれの中心である。二回目の彗星の日の朝、恐るべき悲劇の発生を知った瀧が三葉に入って、三葉を含む糸守の人々を救うべく奔走を開始したとき、一回目の彗星の日、ひいては時空αはどうなったのだろうか。

単純な上書き型の世界なら、それは既になかったことになっているだろう。だがそうではないし、そうはならない。というのも、もしもなかったことになっていたら、瀧(三葉に入っている瀧)は一体何のために奔走しているのだろう。え? 時空は紳士だから悲劇の回避が確定するまで記憶の上書きを待ってくれるって?

残念ながらそうもいかないのである。

時空αでは起きなかった入れ替わりを既にやってしまっていて、その当事者である瀧たちにしてみれば「彗星の日の朝に入れ替わりがあった」ことは疑いようのない事実であり、となれば、それを起点とする上書きの開始は避けられないはずで、少なくても瀧の中では「ティアマト彗星の悲劇」という事実はどんどん不確定なものになっていないとおかしいのだ。
バック・トゥ・ザ・フューチャー』一作目の終盤を思い出していただきたい。両親の結婚の可能性が遠のくにつれて息子の存在が揺らいでその手が透けてみえるようになっていったのは「上書きが徐々に進行していた」からである。上書き型ならば、変化の影響を一番受けやすいところから変わるのだ(ほんとうは一番影響を受けないところから変わるのだ、とか、まだらで変わるのだ、とか、無作為とかで変わるのだ、とか、そういった理屈もどこかにあるのかもしれないが、そうであると説得的に示してくれる理屈はいまのところ発見されていない)。

時空αが上書きされていないという証拠は他にもある。それは三葉の記憶である。三葉は既に本編で描かれた通りに「三年前に彗星の破片が落ちて村が壊滅し、三葉も死んでいる世界の瀧」と何度も入れ替わっていて、この瀧はいってみれば時空αの瀧αであり、つまり、この瀧αと何度も入れ替わり「東京生活」を満喫していた三葉にしてみれば、時空αはすでに過去の体験の一部であり、即ち、その時空αが過去として内包する、事実として確定している彗星の日とそれに伴う村の壊滅もまた、三葉にとっても確定した過去なのだ、ともいえる。そしてこれが上書きされたり、不確定状態で記憶や認識がゆらいだりした気配は一切ない。もしゆらいでいたりしたら、幽世での二人の邂逅が随分としまらないものになっただろう。今までの二人の入れ替わりの記憶自体がぼんやりしている者同士が出会って、ええとうーんと僕たち私たち一体ここに何しに来たのかわかるようなわからないような、みたいな。

これではどうしようもないので、「かたわれどき」に至るあの作中二度目の彗星の日の朝、つまり、瀧と三葉が入れ替わったその時に世界が分岐したのだと、時空α時空βが生まれたのだ、とこう考えるとすっきりするようにみえるのだが、この場合、今度は瀧は永遠に三葉を助けられない(正確には、三葉βは助けられるが三葉αは助けられない)という、別の意味ですっきりしない話になってしまう。

おまけに、厄介な事に(時空αの三葉にとっては幸いな事に、かもしれないが)、平行世界型の解釈では説明のつかない現象――記憶の消去とか時空の修正波(アシモフ博士風に言えば、変化の風)によるスマートフォンの書き込み記録の消去といったものは、時空そのものがじゃんじゃん分岐することはためらわなくても時空内事象の改変は好まない平行世界存在説との相性がいいとは言えず、仮説の船は遂に行き先を見失うのであった。

念のために付記すると、決定論的な世界観に関しては、これを基準に更正すれば無矛盾な物語が構成可能だったかもしれないのは――というか、思うに、物語上でも最善手はたぶんそれである――、三葉が上京して瀧に渡した組紐を手掛かりに因果の連鎖を構築し、瀧は村の壊滅は情報として知ることができるが、関係者の生死は知りえない(もしくは最終的に誤報であることがわかる)とか、そういった時間差隠蔽の仕掛けとは別の展開上の仕掛けと工夫を駆使して、あの再会までお話を運ぶ、と言ったやり方はおそらく無理ではなかったはずである。ただし、それでは新海監督がやりたかったであろう「一目ぼれみたいな、運命的な関係みたいな、大切な出会いの話」という自分に自信があるんだか無いんだかよくわからない結末の邂逅が構成できなくなる(ようするに、ただの予定通りの再会になってしまう)から、そもそもそういう方向性で作ることは構想外だったに違いなく、決定論的世界観は決定論的にありえなかったにちがいない。

では、ここで横紙破り、一本で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三本分をまとめた感じで、問題の突破を試みてみよう。

二千十六年の瀧が二千十三年の三葉の二回目の彗星の日に入れ替わりを果たして世界は時空αとβに分岐、同時に介入による時空の変化の風は、αとβ両方に徐々に、しかしゆっくりと加減を見ながら吹き寄せ、両者をテキトーに改変しつつも上手いことふたりの記憶は改変されず(つまりどちらも時空αの記憶のみを保持している)、そしてかたわれどきでの邂逅をもって共に平行世界も統合され、そこから一気に改変が進む、としてみよう。二人が再び別れ、それぞれの時間に戻った瞬間から改変と修正がどんどん進み、当事者すら何が起きたかもわからないところまで進行していったのだとすると、果たしてどうなるか。

それはいってみれば時空γの誕生である。
そこにおいては、いうまでもなく三葉ら糸守の住人は二千十三年十月を越えても生きているが、時空αの二千十六年の瀧αと三葉γが入れ替わりを起こしようがなく(平行世界ですらない。既に存在しない時空である)、しかしひょっとすると時空γの二千十六年の瀧γとは入れ替わりをひょっとしたら起こしていたかもしれないけれど、それがどんなものだったかは観客は知るべくもない。瀧γにしてみても三年前に見知らぬ高校生から組紐を貰っているかもしれないし、二千十六年にはその高校生と入れ替わり現象を起こしているかも知れないけれど、こちらの彼女はティアマト彗星の日に死んでいたりはしないから、死んでいない彼女を死から救う必要はなく、口噛み酒を飲んで彗星の日の朝(二周目)に入れ替わって運命を変えるべく奮闘もしないし、当然、かたわれどきでのつかのまの邂逅と告白ももちろん起きないままで、貰った組紐を返して因果の輪――結び、といったほうが美しいだろうか――を完成させることもなく、おそらくは祖母たちがそうだったようにいつのまにか入れ替わり現象も消滅し、全てを「夢の中の出来事のように」忘れていっただけの二人に違いなかった。
つまり、あのエピローグで出会った二人は、それまで百分近くにわたって映画『君の名は。』が描いてきた物語=世界とはほぼまったく関係のない世界で、それぞれの人生を送ってきた二人、ということになる。

さて、いったいなんというのだろうか、かれらの名は。