『魔法少女まどか☆マギカ』第十話、第十一話、第十二話、

地震その他大災害による中断より一ヶ月、最終三話一挙放送である。寝不足になった人も多いのではないだろうか。個人的には三時四時に寝るのはよくあることとはいえ、眠いときには二時だろうが一時だろうが寝てしまう性質なうえ、退屈なアニメだったら椅子に座ったまま寝入りかねない(実際、先週は『緋弾のアリア』の次回予告あたりから『電波女と青春男』のAパートの記憶がない。おまけにアニメ銀座どころかアニメ九龍城砦とでもいいたくなるような未曾有のアニメ混雑時間帯なので録画もしておらず、BS放送まで何を見なかったのか確認ができない)。そこに、三時スタート四時半終了、のこれである。もちろん録画予約はしてあるので寝オチしたっていいのだが、せっかくだからリアルタイムで見たい。よくわからない意地である。
そういうわけで、いざ当夜、『アリア』と『電波女』を今回は眠らずに見て、『そふてにっ』は明日以降に回すことに決め、お茶なんぞを淹れて支度をした後、再度テレビの前に座って待っていると猫が早速やってきてひざに乗るや、ごろごろうなりながらいつしか眠ってしまうのを感じながら、時間になったらスイッチをいれ、画面からは一ヶ月ぶりの『まどか』が流れ始めたのでありました。
四時半になって番組が終わり、しかし全然眠くなってはいなかった。


さて、テレビを消してパソコンに向かい(膝上で寝ていた猫は起こされて若干不満げ)、とりあえずメモ代わりに、ツイッターのサイトを開いてこう書いた。

まどかマギカ』 みためキレイ 音楽ステキ はなしフツウ せっていビミョウ てんかいゴーイン てーまキホン まとめアリガチ つまり よくあるモノガタリ (http://twitter.com/#!/sinkuutei

最終三話について、というのではなく、総論的な書き方で、いくら深夜のボケボケの頭であったとしても、もうちょっと気の利いたことを書けよと思わないでもないが、その程度の知恵しかないのだから仕方ない。とりあえずはこの短文を解説するかたちで『魔法少女まどか☆マギカ』という作品について語ることにしたい。


まず「みためキレイ」「音楽ステキ」であるが、これはわかりやすい。シャフトの総力を使ったのではないかと思われるようなクオリティの作画、まばたきをしないきゅうべえや薄暗かったり空虚に広かったりするまどかの家や、不安感を煽る「太い柱のない」学校の校舎のデザインに代表されるような単なるおしゃれ趣味ではない美術設計(作中で数少ない和める場面の舞台となるハンバーガー店にはちゃんと太い柱がある)、トリッキーな構図やカット挿入をしても、常に明快さを失わない演出、とくに、蒼樹うめの原案を活かしながら痛みを伴うアクション描写に不可欠な肉感的な身体描写を兼ね備えた岸田隆弘のキャラクターデザインは出色で、人物のパーツでもっとも蒼樹うめ的な顔のデザインを、その輪郭線を二重にとることで比較的リアルな身体との整合感を失わないように按配するあたりは匠の技といえるし、絶望先生でも腕を振るっていた劇団イヌカレーの異空間描写も素敵だ。梶原由記による音楽も、是永功一による圧迫感のあるギターリフを従えた重厚なテーマ曲が特に素晴らしく(だがしかし相変わらずシングルのジャケットセンスは悪い。本編には関係ないことだけど)、物語の悲劇的なトーンを強烈にサポートする。まだ半年以上残っているが今年一年で本作を超えるクオリティのアニメはなかなかみられないのではなかろうか。

ただし、これはあくまで「映像」と「音楽」の評価であって、作品全体の評価ではない。音楽と映像が素晴らしければ傑作になるなら、この世の傑作はもっと数が増えている。『もののけ姫』や『イノセンス』の話をこれからするつもりはもちろんない。


では『まどか☆マギカ』の物語について、みていこう。物語ははたしてビジュアルに見合う内容だったか? 端的にいってしまうと、それはずいぶんと見劣りのするものだった。物語が終わって思ったのは物語が終わったということだけで、感動はまるでなかった。キュゥべえ(打ちづらい名前だな)の、いや、脚本家・虚淵玄の誤算はいったいどこにあったのか。

本作の物語は、実は――というか、かなり露骨に――王道である。次から次へとメインキャラが死んだり、残酷な展開が目白押しだったりと横紙破り風の意匠が目立つけども、本質的には「最強の魔法少女となることを運命づけられた主人公が、葛藤や悲劇をのりこえて最強の魔法少女となるまで」という普通に土日の朝に小学生向けにやっているお話のフォーマットだし、結末における「主人公の受難による世界の復活と再生」も英雄譚の基本的な展開のひとつであって、神話の代から最近のアニメに至るまで類型を探すのはとても簡単だ(三大宗教のひとつにもこれのとても有名なバリエーションがある。ゴルゴタの丘とかが出てくるやつである)。
そういう、王道にして、単純ともいえるプロットラインにエントロピーの凌駕やらなにやらの擬似SF的な設定――といっても、これも王道のバリエーション(宇宙規模の管理システムと人類との齟齬というテーマは古典SFから近年ではアレステア・レナルズの〈レヴェレーション・スペース〉シリーズなどまで、多々あるし、アニメでもたとえば『グレンラガン』の敵がまさにこのタイプの設定だった)で、正直、新味は乏しいし、インキュベーターの「異質」さについてはSFファンならグレゴリイ・ベンフォードの有名なシリーズでの格言「異質なものについて重要なことは、それが異質であるということだ」を思い出すかもしれない。第十話で明らかにされるタイプリープによる世界改変の試みと、その最終的な解決策についても、萩尾望都の名作『銀の三角』を連想する向きもすくなくないだろう(*1)。
こういったことから判るのは、本作はテーマや展開のみならず、設定的にも、独創性よりも王道の集積が重視されているということだ(唯一、本作の、つまり虚淵玄のオリジナルといえそうな時間移動で平行世界の因果の糸が云々の、言葉遊びにもならない寝言に関しては、カウントしないほうが作家の名誉を守ることになりそうである)。

さて、王道であるものについて重要なことは、それが王道であるということだ、とは誰もいっていないとおもうが、王道の物語に関しては、ほぼ間違いのない真理がある。それは、王道は王道らしく、躊躇わず、余所見せず、堂々といくと成功する、ということ(変に躊躇ったり余所見をしたりするとたとえばそれは『フラクタル』というアニメになる)。

まどか☆マギカ』はどうだっただろうか。

というところで唐突に思い出すのが、『ジュエルペットてぃんくる』である。世が世なら、『まどか』とほぼ同時に終わっていたと思われる、完全無欠の魔法少女アニメの傑作である。未見の方は全五十二話をぜひ最初から順番に見てほしいものだが、終盤一二ヶ月のエピソード群の出来の良さはもう舌を巻くほかのないレベルで、とくに主人公・あかりが親友と戦い(あくまで競技の枠内ではあるが)ながら「ずっと一緒にこうしていたいね」というあたりは、物語における人物描写の積み重ねがどれだけ重要かを強烈な感動とともに伝えてくる。最終回の歌のあたりではじーんとなりすぎて、もうなにもいう気にならない。
この『ジュエルペットてぃんくる』、作品のトーンはかけ離れているものの、最終的な障害が具体的な悪役ではなく、人の負の感情の集積であったり、結末は「魔法少女の最後の魔法による世界の救済」であったり、魔法の国との別れというかたちで「魔法少女の死」が描かれたり、そしてなにより最高の魔法の源は信じる心とユメとキボーであるという主題がまったく同じわけである。これらは偶然でもないし、意図的にどちらかが似せたというのものでもなく、単純にどちらも王道の魔法少女ものである以上、同じ要素をそなえている、というだけのはなしで、そこにはべつに問題視するようなことはない。とはいえ、『ジュエルペットてぃんくる』が与えられた感動を、類似のテーマの『魔法少女まどか☆マギカ』ではまるで与えられていないというところはやはり看過できないだろう。


それは作品の時間の問題であるかもしれない。全十二話では一年番組の蓄積には到底勝てないからだ。しかしそもそも全十二話で描ききれる分量の物語とキャラクターであったのかどうか? 主人公を含む五人の魔法少女、その家族、クラスメイト、これはどう考えたって多すぎる。五十二話とはいわないまでも最低でも倍の二十四話は必要だったのではないか。エピソードにしてもたとえばさやかの魔法少女から魔女への変遷にいたる展開などは、その展開そのもののベタさ加減(繰り返すようだが、ベタつまり王道であること自体は悪いことではない)以上に、拙速としかいいようがない流れで説得力もなければ共感性もなかった。進行係のキューサインばかりちらつくのである。
ほむらの正体を終盤近くまで伏せる構成も、それは確かに先の展開が見透かせないという緊張感を生み、映像の力とあいまって作品そのものに強力な求心力を持たせたが、いざ正体が割れてみると、求心力と引き換えるだけの面白さがあったかというと難しい。先に述べたように、それはSFなどでは珍しくないオチなのだ。
なにより問題なのは、主人公の描写である。『ジュエルペット』のあかりはことあるごとにその精神的な強さを示すイベントが描かれ、みなが彼女に心酔していく展開が説得力をもっていたが(これはいうまでもなく少女漫画などでは基本的な構成である)、まどかはどうだろう。どうも、優柔不断にうろたえている場面ばかり印象的で、クライマックスにおいて彼女が発露する「世界の母」的な資質の片鱗はどこにもみあたらない。

終盤で重要な鍵となるほむらとの関係性の描写も薄い。特に第十話(正式なサブタイトルは「わたくし、眼鏡をかけて髪をおさげを結った明美ほむらは、いかにして悩むことを止めて、眼鏡をはずし髪をおさげに結うことをやめた明美ほむらになったか」)は、ほむら視点であるとはいえ、ほむらがまどかに心酔する理由をもっともアピールできる機会であったはずで、広域指定暴力団的な人たちのところから銃器をガメたり、爆弾を製造する場面を描写するひまがあったら、ほむらとまどかの描写をもっと増やして、クライマックスに必要な「感情の蓄積」をおこなっておく必要があったのではないだろうか。蓄積された感情の噴出は、最終決戦のただなかにあっては、それはどんな爆発描写よりも鮮烈に視聴者の心を打ったはずである。英雄が英雄なのは、かれがただ強いからではない。かれの強さは人に支持される強さだからだ。英国王が英国王になれたのは、ただスピーチをしたからではない。人々の心に届くスピーチをしたからだ。いくらほむらが対使徒用最大火力でワルプルギスの夜を迎撃しても、そこには心に届くものがない以上、ただの火力の(そして作画力の)無駄づかいだし、なにより設定以前の段階で、勝てるわけないのだ。さらに、無駄づかいをして死にかけてるほむらを、まどかが助けにはいっても、そこにはいかなる感動もなく、空しいお約束の展開を確認する作業しか視聴者には許されないのである。はなしフツウ。せっていビミョウ。てんかいゴーイン。てーまキホン。まとめアリガチ。となるわけだ。
こうやってみていくと、最前、誤算の主はキュゥべえではなく虚淵と書いたのは、正確ではなかったのかもしれないと思えてくる。感情を理解できないのはもしかするとキュゥべえだけではなかったのではないのか、と。
(というか、キュゥべえに関していえば、人に神経に触るような表現を狙って使ってる節があるし、契約の前には相手が不審を抱くようなデータをできるだけ洩らさないとか、感情をよほど理解しているとしか思えない描写もある……)

文句ばかり書いているようだが、決してつまらない作品ではない。見てくれも悪くなく、退屈もせず、しかし傑作というには何かいろいろ足りない。そういう「よくあるモノガタリ」であるだけのはなしである。そして「よくあるモノガタリ」の中では、よくできたほうではあることもまた、間違いはないだろう。

ところで、終盤のインナースペース的描写におけるまどかとほむらの体を覆っていた黒いキラキラしたものは、BD/DVDではどうなるんだろう。さっぱりわからないよ。






(*1)未読の人はぜひぜひ読んでいただきたい。実に三十年近く前の作品(千九百八十年から八十二年までの連載)だが、今でもまったく古びていない。

(*2)ちなみに、本作が王道どころか完全に異端の道を爆走して傑作となるルートもあった。千九百八十年代のアメリカンコミックでヒーロー物について試みられたように、「魔法少女もの」を徹底的にシビアかつリアルに再構築し、魔法少女の現実を容赦なく提示するのである。この場合、かなり高い確立でバッドエンドや魔法少女否定になり、本作のような、最終的には魔法少女賛歌となるような展開は難しい。『フェイト/ゼロ』のあとがきを読むかぎり(本編は未読)、虚淵氏にはそういうほうが作風としては合ってるのではないかという気もしないでもない。ただし、この路線で成功するには相当の技量とセンスが要求される。