第三話「トモダチ」

 なんでもおっさんが銃器を持って乱入というシチュエーションが自主規制でいろいろ修正がかかったという回。
 しかし正直なところ、そんなことは問題ではないですな。おっさんは銃でも爆弾でも持って突入すればよろしい。
 修正すべきはシナリオである。それも一から。
 はっきりいって「安易に選択できてしまう生きかたのひとつのあらわれとしての自殺」なんていう、抽象的かつ厄介な主題に対応できるような物語では全然ないよ、これ。

 だってですね。屋上から飛び降りたんだったら、わざわざ飛び降りるために屋上まで昇ったということなのだから、もうそこにすでに「能動」があるわけ。なんとなく、ではないのだ。冒頭の駅のプラットフォームのシーンで暗示しているような衝動性、偶発性の入る余地はない。親父さんも疑うのも当然である。
 一歩譲って、屋上からなんとなく飛び降りたという前提を受け入れるとしても、「なんとなく飛び降りた」人が、自分が飛び降りたことについて懇切丁寧に、ながながと手紙をしたためるか、という違和感がある。「じゃあね」とか「なんとなく」書いて終わるそうなものだ。「なんとなく」死を選べるということは生やそれにまつろって発生する人間関係も「なんとなく」捨てられるものであったというほうが、はるかに納得できる話じゃあありませんか? 
え? 理屈じゃない? たしかにそうだ。理屈でない行為なのだから、理屈でない手紙を書くかもしれない。しかしそれでは物語にはならないのだ。この世は不条理な偶然に満ち満ちてるけど、それをそのままフィクションにしたって誰も納得してくれないのは、そこに「物語」がないからである。つくりごとであればあるほど説得力が不可欠なのだ。
この作品でいうなら、「死んだあとに書く手紙」という元来ありえないものを物語の核にした以上、手紙を書く理由をきちんと見るものに提示できないと、ありえないことがありえない理由でおこなわれるという、一から十まで御都合主義の産物になってしまい、たんなる茶番劇に堕してしまう。地獄少女でも動機のはっきりしない復讐依頼が遂行されるという不条理な話があったけど、依頼者の悪意そのものははっきり見えていたから、ドラマの軸そのものは失われておらず、そこに「物語」を読み取ることができたのである。

 ストーリーや細部の描写もそこかしこでおかしい。友人が死んで数日なのに、何年も前の事件を語る調子で淡々とその死を話題にする二人とか(現代人は死にたいする実感が薄い、なんていうステロタイプな思い込みの発露として意図的にやってるならそれはそれで失笑だ)、内部の様子を確認している気配もないのにいきなり武力突入するSATとか、「無神経なマスコミや第三者」のカリカチュアのような無神経なマスコミや第三者の描写とか、そもそも息子の死の動機がわからんからっていきなりハイスクールパニックな行為に及ぶ親父さんとか、堕胎されてるはずなのにものすごく立派に成熟した手をお持ちのお子様とか、ここは立ち入り禁止区域だなんて何様ですかとか、話し合いより暴力による解決を好む配達人(格闘系の萌えキャラにでもしたいのだろうか)とか、「当選」とか言ってたけど、そうするってえと最初の二話の三人が三人ともシゴフミ権獲得できたってのは凄いことだなあ、とか、それこそコードギアスなみに稚拙で強引で粗だらけのシナリオなのだった。
佐藤竜雄監督、本当にシナリオチェックしたんですか?

 次回以降、配達人自身の背後関係も物語に絡んでくる地獄少女展開になるみたいだけど、あんまり期待できないなあ。

 ちなみに、フミカカナカが「人間が壊れてる」せいで起きたと知ったかぶる「自殺、近親相姦、同族殺し」は自殺以外は動物の世界ではべつに珍しくないんだよね。自殺にしても消極的な自殺(絶食)とかならあるし。