細田守『未来のミライ』の未来について。

さて、細田守監督最新作である。
正直、呆然としてしまった。映画の幕が下りた時、当惑と混乱だけがそこにあった。観ていて全く楽しくなかったにもかかわらず、もう一度劇場に向かってしまうぐらい、そこには謎ばかりがあった。

時をかける少女』で大舞台に颯爽と登場して、皆の期待を(アニメファンだけでなく、業界関係――特に金曜ロードショーで放映するアニメ群にスタジオジブリ作品以外も付け加えていきたいテレビ局とか――のも)一身に受け、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』と新作を出すたびにそれを順調に下方修正させてきて、前作『バケモノの子』でいよいよその貯蓄が尽きた感があるけれど――おおかみおとこの貯蓄と違って、大抵の貯蓄には限界があるのだ――、本作において細田守はそういう期待(の欠如)をはるかに上回る達成を見せた。これは別に、「ゼロより多く」や「マイナスより多く」が簡単であるから、というような嫌味ではない。はたして誰がこういう作品であることを予想できただろうか。いったい誰が、「宮崎駿に続く国民的アニメ作家」になる予定のアニメ監督・細田守の手になる、この、子供を主人公にした最新作が、『となりのトトロ』でなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』になることを予測できただろうか。
話が先走り過ぎた。順をおって語っていこう。



●『未来のミライ』の物語の物語

物語自体は至極わかりやすい。四歳の「くんちゃん」(本編中では出てこないが、太田訓というのが正式な姓名であるらしい)が、妹の誕生を契機にした家族内での自分の立ち位置や役割の変化に戸惑い、それに呼応する形で自宅の中庭が様々な時代におけるくんちゃんの一家一族の過去や未来をかれに見せていく、というもので、『千一夜物語』以来の枠物語形式の作品群の末端に位置するという事が出来て、特に、その教訓的な要素の強い構成から「クリスマス・キャロル」を連想する人は少なくないはずだし、各話が大枠の物語の明確な反映として創出されるという構造は近年の傑作『怪物はささやく』辺りを連想する人も多いに違いないが、ここで注目すべきは、類似作では基本的に自明として成功している大枠と個別話の連動が上手くいっていないどころか、破綻すらしている、という点にある。
例えば「第一話」を見てみよう。くんちゃんが擬人化しくたびれたおっさんになった犬の「ゆっこ」(雄なのに何故この名前かというと、どうやら細田家の犬がその名であるからしい)と出会うこの話において、そこまでにくんちゃんが見聞き体験した事や手にした絵本の内容に応じて中庭が様々な幻想を見せる――犬の過去の記憶にあるらしい場所に変容したり、犬が人になったり、人が犬になったり――という、全体の方向性が一応示されるわけだが、いきなり「実際はどうだったのか」がよくわからなかったりする。というのも、くんちゃんが犬になって暴れたあと親たちが「さっきは大暴れして」みたいなことを言う場面、その言葉からすると、あれは第三者の眼には単にくんちゃんが犬みたいな仕草で家じゅうを荒らしまわっているだけに見えている、ということになりそうだが、二度目見る人はその直前の親たちの反応をよく見て頂きたい。かれらは暴れまわるくんちゃんを見て「ゆっこ」だと思っているのである(そういう台詞がちゃんとある)。ひょっとすると「ゆっこの真似をしているくんちゃんを気遣って、どう見てもくんちゃんにしか見えないがゆっこ扱いをしている」という可能性も無きにしも非ずだが、狂人の真似といえど大路を走れば狂人であり、犬の真似でも家の中を荒らしまわってるガキは捕まえて叱りつけなければいけないだろう。これが本当に犬なら多少のことは甘く見るべきだけれども、結局その辺りはうやむやで、観る者の認識に宙ぶらりんにしたまま「次の話に続く」となってしまう。これが意図した攪乱ならばたいしたものである。
この辺り、宮崎駿が『となりのトトロ』などにおいて「子供の目に映る世界」として幻想的情景を持ち出すのとは、正反対であることはよく注意しなければならない(意識的なパロディなのか、『未来のミライ』にも妙に『トトロ』と似た場面はあったけれど)。
ちなみに宮崎はその後『風立ちぬ』においてもやはり幻想と現実が交錯する物語を綴っているが、この幻想もやはり二郎という一種子供の視点による世界の捉え直しにほかならず、その意図は一貫している。
しかし、細田守の世界においてはそうではない。幻想は、子供が見たいものではなく、子供に見せたいものが現れる。
しかもだ。この挿話における幻想的要素が物語上どういった意味や情報があり、くんちゃんに何を教えたかというと、これが凄い。「この家の大人は、子供が出来た途端、それまで可愛がっていた犬の扱いがぞんざいになる。子供だって下の子が生まれればそういうことになる」という恐ろしくも厳然たる事実をまえにして犬や子供にできることはなにひとつなく、とりあえず暴れて騒いで寝ましょう。
つまり、お酒で憂さ晴らしする残念な大人の生き方を推奨する話なのだ。
そして(ある意味当然だが)ここで得た教訓をくんちゃんがこの後の物語で使うことはないし、使わない事について何の意味も与えられない。


●『未来のミライ』の不思議な美術

二つ目以降の物語について触れる前に、もう一つ重要な要素について語っておきたい。
それは家である。これは家族とか家庭といった抽象的な意味でなく、一個の建築物としての家である。これが凄い。それは感覚的にというと『キューブ』とか『バイオハザード』とかにでてくる施設に近い家である。人が住む家ではない。
具体的に見てみよう。こんな間取りである。この図面でも十分異常な事が解ると思うが、実際に映画を見て、その凄さを味わってほしいのココロ。

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画像① 太田家の間取り図
各部屋移動がほぼ全て階段経由という時点で、この家がバリアフリーという概念が存在しない世界に建てられていることが判るが、単に老人と子供と体の不自由な人にやさしくないだけでなく、階層差はあっても各階に仕切りの壁が無いという設計により、数メートルの高低差をけっこう気軽に体験できる仕掛けになっていて、くんちゃんもミライちゃんも無限の平行世界のあちこちで転落死や骨折をなんども体験している可能性がとても高い。妊婦なども暮らしていたことを考えると惨劇の種は全く尽きない。
また、地下室的な位置にある子供部屋にトイレが無いというのも、なかなかに味わい深い作りで、便意を催したら、子供部屋を出まして、あれから階段を昇りまして、中庭に出まして、そこは一応屋外なので靴やサンダルを探してきまして(出入り口にそのようなものは一切置いていない)、
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画像② スリッパ等の中庭用の履物の無い中庭への出入り口。
それから中庭の階段を昇りまして、あれから食堂に入りまして、また階段を昇りまして、あれから居間を通りまして、またまた階段を昇りまして、今度は両親の寝室を通り抜けまして、奥の扉を開けまして――この扉に鍵がかかるのか、とても気になりますが――、洗濯乾燥機や洗面台の並ぶ部屋の片隅に置かれている便器に辿り着いた頃には、もうみんなずいぶんくたびれた。
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画像③ 洗濯乾燥機と洗面台と便器のある部屋。
実は今回、細田守はこの物語のために建築家(谷尻誠)を雇って、「太田家」の住む建物をわざわざ設計させている。しかもこの家は、くんちゃんの両親が結婚してあの土地に住み始め、くんちゃん誕生に合わせて、くんちゃんの父親が自らの設計によってその時あった家を全面改築して、あの家になっている、という設定である(この辺りは冒頭ではっきり描かれているのだが、山下達郎の主題歌を流し、スタッフ容器を横でガンガンが流していくという二重三重に気の散りやすいという、見る側にやたらと負担をかける見せ方をしていて(エンドロールなどでよくあるやつだが、冒頭でこれをやるのは珍しい)初見でうまく飲み込めなかった観客が結構いたのではあるまいか。この無神経さもある意味ととても細田守らしい、とはいえるけれども。

つまり、よいかな、有名な家とか建築をたんに流用したとかではなく、あの物語のために必要なものとしてあの家を生み出したのだ。そして、よいかな、「子供ができて、子供と暮らすことを前提した」家が、あれなのだ。これはとてつもないことではないだろうか。

こんな家を設計する父親が子供や祖父母をやたら生命保険に入れようとしている、という裏設定があってもだれも驚かないはずである。

 他にもどこをどう見ても呼び鈴もインターフォンも無いという、世間とのかかわりを拒絶するような、でも作中では普通に呼び鈴が鳴っていたりする謎の玄関口とか、

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画像④ 呼び鈴の無い玄関
その玄関口に行く唯一の方法でありながら、雨が降ったら水浸しになること確実の、中庭からの階段とか、
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画像⑤ 奈落の底へ向かうかのような玄関口
左右スピーカーの間にはアンプやデッキの類はどこにもなく、変わり奈のかよくわからないがぽつりと置かれているラジカセとか、
 
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画像⑥ スピーカーラジカセスピーカー
あるいはカーテン一枚吊るせそうにない窓枠(冒頭の場面のように、雪でも降ったらさぞや暖房費がかさむに違いない)とか、
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画像⑦ カーテンの吊るせそうにない窓枠。

見れば見る程、実は異世界転生ものなのではないだろうかと思えてくるぐらい現実離れしている家なのである。これ以上の追及は、読者の皆様の発見の喜びを奪いかねないし、あとはそれぞれに「掘って」いただきたいとおもうが、ここで、念の為に言っておきたいのだが、これは決して設計した谷尻誠が悪いという話ではない。建築家とはとかく珍奇な家を作りたがる生き物である。悪いというのなら、これを了承した監督が悪いのである。

もう少しいうと、この異常な家の構造は、必ずしもその事自体が悪いわけでもない。異常な構造の家が、そしてこの家に代表される異常な美術設定が、物語や登場人物の性格描写において、ちゃんと意味があるならば、それはむしろ称賛すべき個性的な仕事と言えるのである。

しかし残念ながら、これがまったく意味も理由も無かったりする。少なくても、合理的に解釈できる次元においては。

この特殊な構造の家を建てた特殊なお父さんの人格を追求するわけでもないし、特殊な構造の家を建てた特殊な構造の頭のお父さんを容認している特殊な構造の頭のお母さんの人格も追及されない。前述の通り、独立した個室として存在しないトイレや、完全ガラス張りで居間や食堂からの監視は完璧な造りの子供部屋といった、人の尊厳という概念を真っ向敵視するような特殊な環境に育つことでくんちゃんやミライちゃんがどれだけ特殊な人間に育っていくか、といった事も追及されない。むしろ物語上は、小金持ちではあるが最大公約数的な家庭として描かれており、この特殊な構造の建造物をのび太くんやサザエさんが住んでいる家と交換したとしても、くんちゃんたちが階段を上り下りする事で生じるちょっとしたダレ場の減少以外には、物語の大勢に変化はないはずだ。

もっとも、そのような事をしたら、その辺の小さな公民館並の冊数の児童書や部屋を埋め尽くす規模のプラレールが無くなってしまうわけで、くんちゃんもミライちゃんもかなりがっかりするだろうとは思うけれど。


●『未来のミライ』の未来のミライ

さて、二つ目の物語において、本格的に登場する、「未来のミライ細田家の訓氏の妹さんがこの名前なのかは知らない)」さん、最も重要であるはずの題名のキャラクターの話題がなんでこの中途半端な位置かというと、まさにそういう立ち位置だからである。全体の中心に一応いるが、いるだけだから。

だってそうでしょう。四歳児にその「未来の」という概念と言葉が発想、理解できるのかはともかくとして、予告編でも事前の各種宣材でも大々的に扱われ、殆ど主人公みたいに映画ファンの目には映ってきたキャラクターですが、出てきてみると、雛人形を早く片付けないことで婚期が遅れることを心配するという昭和の老人みたいな思考の中学生である。人間は生まれた時代を超えて古臭い偏見に囚われ続けるという風刺的な意味あいがあるのかもしれないが、正直あまり面白くない。アニメ的な盛り上がりが全然ないものだから「だるまさんごっこ」でアニメっぽさを演出してみただけ、と言われた方がむしろ納得できる。そしてここでも忘れ去られる「実際はどうなっていたのか」という視点。まさかくんちゃんが説明書を読んで一人で全部片づけた訳ではあるまい。犬にしてもこの未来のミライにしても、自分の置かれた状況に全然違和感を覚えていない辺りは、いかにもだれかの空想らしくみえるし、未来のミライ登場の直前に「恋する中学生女子」(この伏線的な場面の絵面や動きは、深夜アニメでもパロディ的にしかやらないような類型描写で、ある意味ぎょっとします)が唐突に出てくるので、物語上もそれを示唆しているといえない事もないのだが、これがだれかの空想だとすると「蜂ゲーム」とか一体どこから出てきたものなのか、恐ろしくて思考が停止する。

いっそのこと、「未来の」ミライさんはだれかの空想ではなく、なんらかの力によって召喚された本物の未来のミライさんだとしてくれたほうが、自然に受けいれられるような気がするのだが、そうだとすると、今度はそのミライさん自身がどうして自分があちこちに時間移動しているのを自明のものとして受け入れているのかがよくわからなくなるわけで、ここでもまた物語は、観客を置き去りにしたまま、一人納得して――あるいは納得したふりをして――どこかにいってしまう。
そのうえ、この出来事がくんちゃんに何かの教訓を与えるかというと、やはり別にそういうことでもなく(だってくんちゃんが頑張って雛人形を片付けたわけでもないから。本人的にはただ「だるまさんごっこ」をしただけである)、かくして、この挿話は、未来のミライの紹介としてもくんちゃんの学習としてもなにひとつ役割を果たさないまま幕を閉じ、映画は次の挿話に続いてしまう。


●『未来のミライ』の限定的な過去

そして遂に、この不思議な力を秘めた謎の中庭は、過去について語りだす。一つは母親の、もう一つは母方の曾祖父の過去を。申し訳程度に未来のミライを先遣にして(といって、ここにも別に合理的な根拠が与えられるわけではない。何となく出てくるだけである)。
この時、母方の祖父母、父方の曽祖父、祖父母などは存在しないかのごとき扱いであるが、それをやると映画がどんどん長くなるし、清水義範ふうにまとめれば「いろいろあった」ということなのだろうから、そのことは決して問題ではないだろう。しかしながら、過去の歴史という厖大な蓄積の中から、くんちゃんのために選びに選び抜かれたふたつの過去の教えてくれることが、まず、幼少時の母親からの「欲しいものがあったら執拗に手紙を書いてねだろう。母親が猫アレルギーでも猫を欲しがろう。おばあちゃんに圧力をかけて!」という徳の高すぎる主張であったり、「散らかっていると楽しいから、どんどん散らかそう。泥棒が入ったか、特高が家探しをした後みたいな状況になるくらい破壊的に散らかそう。そうすると後で思いっきり怒られるよ!」という別に教えられなくてもわかる事例であったりするのは、その選別眼に疑問を投げかけざるを得ないし、曾祖父(福山雅治が意外なくらい好演)が教授する、自転車の乗り方について精神論――その精神論重視の思考が特攻隊に直結しているのではないかという点も引っかかるけれど――そもそも自転車の乗り方はお父さんが教えなければならないことであって、わざわざ過去に教えてもらう必要がなさそうなのは、やはり問題視せざるを得ない。特に後者のほうは――これはあとあと明らかにされるが――くんちゃんの父親は、自転車に乗れるようになるのに非常に苦労しており、それゆえ、自転車を人に教える事に関しては苦労の経験者として福山雅治の曽祖父より有効な助言が出来そうに思えるし、そういう手続きをちゃんと踏んでこそ、ようやく親らしい顔が出来るというものではなかろうか。しかしながら、この物語にあっては、くんちゃんが一人で頑張ってすごいすごーい、という奇抜なオチになる。
このあたり、親とは子供が勝手に成長しているのを手柄顔で喜ぶズルい生き物である、というさりげない嫌味であるという可能性も否定できないこともないが、過去の細田作品全てがそういう複雑な主張が隠されている可能性に対する反証として有効に機能するし、この作品だけを見ても、やはり「可能性はあっても限りなくゼロに近い」という結論になるに違いない。というのも、最終盤に再び登場する過去の出来事(第三話、第四話の続編的位置づけである)において「過去があるから現在がある」という、一足す一は二であるというのと何も変わらない主張が直接言葉で語られ、つまりあそこで語りたかったのは、本当に表面的な話だけなのだ、という事が明確になるからである。

ちなみにここで未来のミライの口を通して語られる過去の積み重ねの先にある現在という理屈は、完全に正しいが、同時に、完全に間違っている。「曾祖父が生きていたから今の子孫(くんちゃんやミライ)がいる」というのはその通りだが、「曾祖父が死んでいたら、曾祖母は別の人と結婚して、その子孫が現在にいる」可能性が高いので、それはそれで「過去の積み重ねの先にある現在」なのだ。一足す位置が二であるのが真であるように、一足す二が三であるのもまた真であり、どちらが正しいという話ではない。

いうまでもなく、主張の幼稚さや単純さは必ずしも作品を貶めない。だがそれをただ言葉で説明したり、説明したことが説明になっていなかったりする幼稚さや単純さは、間違いなく作品を貶めるだろう。


●『未来のミライ』の中庭とそこに生えた木の謎

いよいよ最後の物語について語るのだが、その前に、この作品が内包する謎について触れなければならない。この作品にはいくつもの謎がある。それも作品内では解けない(もしくは明かされない)謎が。

既に述べた、なぜこの家の父親はあのような常軌を逸した家を設計したのか、というのもその一つである。ただしこれは、追及してもサイコサスペンス寄りの解釈にしか進まない気がするので、おそらく監督・脚本・原作の細田守も喜ぶまい。作り手に嫌がらせをすることは本稿の狙いではないのでここは不問としておきたい。
そこで、より中心的な事柄について語ろうと思う。物語の中心にあり、物理的にも、あの特殊な構造の家の真ん中という、文字通り物語の舞台の中心に存在している、中庭とそこに生えた木についてである。あの中庭は、そしてあの木は、はたして一体何であるのか。

作劇的に言えば、それはいうまでもなく舞台装置である。くんちゃんを(そして未来のミライを)それぞれの物語へといざなうための、どこでもドアならぬ、どこでも中庭である。「魔法使いハウルの動く城」の四色の円盤のついた扉みたいなものである。問題は、この装置が何をするものなのか――くんちゃんの空想を具現化するものなのか、擬似的な過去や未来に現出させるものなのか、あるいは本当の過去や未来に通じる場所なのか――、そしてそれがどんな理屈で動く装置なのか――くんちゃんの無意識に反応しているのか、「未来のミライ」の願いをかなえているのか、子供の情操教育をさぼりたい親たちの期待に応えているのか――がさっぱりわからないことにある。

もちろん、映画としては、、一応の答えは提示される。未来のミライは言う。木は家族の歴史の図書館のようなもので、葉の一枚一枚がインデックスのようなものだ、と。

しかし、この説明で納得した人はどれだけいるのだろう。むしろ謎が増えたと感じた人の方が多いのではないか。
あの家族はあの木の近くにずっと住んでいたというのでもないのに、どうしてあの家族の過去が記録されているのか。大体、あの木はそれほど樹齢が高いわけでもなさそうなのにどうして戦時中の事まで記録できているのか。父親が自転車を乗れなかったこととか、木が知っているとしたらそれはあの家に住んでいる本人の記憶から読み取ったという可能性ぐらいしかないが、そうすると曾祖父の海で死にかけた記憶やかけっこの記憶はどうしたのか。家に来た家族の記憶をいちいち読み取って保存しているのだとしたら、それは家族の記憶の蓄積庫でなく、来客全ての記憶を保存しているのではないか。となるともはやあの木は家族の歴史庫という程度でおさまる存在ではなく、近隣住民関係者全ての記憶や過去をどんどん読み取って収集する情報図書館なのではないか。そもそも、中庭に生えているただの木(作中の説明によれば、あそこが普通の建築の家の庭だったころから一応映えてはいたようだが、樹齢百年とかそういう規模の木ではない)がどうしてそのような力を持っているのか。しかも、あの木は「未来」の情報も持っているのであるから、時空を超えた存在なのではないか。いや或いはあれはただの木ではなく、なにか特殊な木なのかもしれない。いやひょっとしたら木の形をした何か別の生命体なのかもしれない。梟が見かけどおりでないように、中庭の木もまた見かけどおりではない、というような。
と、いくら考えても答えは出ない。

そしてなにより、なによりである。未来のミライさんは何故そんな木(あるいは木のようなもの)の秘密を知っているのであろうか。

これが全てくんちゃんの空想であるとするなら、話に脈絡が無くても、ご都合主義の塊でも、未来のミライが唐突に「真実」を語りだしても、大した問題ではないかもしれない。この一連の出来事全てがあきらかに四歳の子供の想像できる範疇をはるかに超えている、というぐらいのことは、瑕瑾にすぎない。
もっともそうすると、「過去から全て繋がっている、積み重なっているから現在がある」といったような、この物語が語ろうとしているはずの教訓じみたものが全て四歳の子供の単なる空想に基づいているということになって、作り手としてはだいぶ具合が悪いに違いない。

とはいえ、あの中庭と木が見せるものが実際の過去であったのだということにしてしまうと、それはそれで非常に厄介なことになったりする。

最後の物語を思い出していただきたい。
過去が実際の過去ならば、あの東京駅と遺失物係、そしてバケモノ新幹線(「ひとりぼっちの国」行、である――単身者や孤児への差別・偏見が常識として根づいた世界なのか?)もまた、実際の未来であるはずで、つまり未来のどこかにあれが実在するということになるのである。おまけに、あの東京駅は、赤ん坊のミライをわざわざ過去から攫ってきて「ひとりぼっちの国」に連れて行こうとしているのだ。暗黒の未来どころのさわぎではない。魔界化した未来なのである。

もちろん、映画としては、あそこにあの挿話がある理由は至極明解であって、要するに「くんちゃんに『ぼくはミライちゃんのおにいちゃんです』を言わせるため」というそれだけのことに尽きるのだけれども、そこまで映画的都合を優先したいのならば、未来のミライさんにインデックスだのなんのと説明台詞を吐かせることは自粛すべきだっただろう。それならばまた夢に出来たはずなのである。雉も鳴かずば撃たれまいに。

それにしても、そういう恐怖体験を経て、大人の階段を一歩登ったらしきくんちゃんの「覚悟」が「ズボンの色へのこだわりを捨てること」であるというのは、観る者に徒労感を与えるのに非常に効果的な役割を果たしているけれど、しょせん四歳児、無意味なことにも誇らしげ、とわざとやっている可能性は、それこそ決して否定できないし、全てを計算しつくした天才の所業である可能性もまたあるかもしれない。
普通に考えれば、どうせ乾燥がちゃんと終わっているのだったら、折角の楽しい家族旅行なのだから、好きな色の服で行けばいいじゃないかと思わないでもないし、そもそもあの親たちは、乾燥機に服を放り込んだまま出かけるつもりだったのだろうかとか、本筋以外のところで気になることの波状攻撃を一向に止まなかったりもするわけだけれど、そのころには観客にもはや突っ込む気力は失せており、映画は再び山下達郎の歌と共に幕を閉じる。あの中庭と木が、あの家族に一体何をしたかったのか誰にもまるで見当がつかないままに。

こんな感じで、映画を観た直後は、さながら出来の悪い夢を見たときがそうであるように、一貫した意味や主張を持たない内容を咀嚼しかねていたのだが、ふと気がついたのは、『バケモノの子』を観たときは、ようやく砂を噛み終えたな、というか、ひたすら空虚で空疎な感慨を覚えただけで、観たものを再検討しようなどという頭の働きは全く無かったのだから、今回のこの「刺激力」は立派な成長なのではないか。

映画で描かれている内容はここまで指摘した通り、いままでどおりに、いかにも細田守らしい空虚で空疎なものなのだが、物語と観客とのあいだにくんちゃんを置くことで、実は大きく意味が変わっている。
そう、今回はその空虚で空疎な世界に正面から向き合うものがいるのだ。くんちゃんのモデルである細田訓氏が細田守の子供であるという「現実」に惑わされてはならない。この四歳の子供はただの四歳の子供ではない。この四歳の子供は、アニメ映画の監督でもある四歳の子供なのだ。
そう考えると、空想的に描かれている内容がちっとも四歳の子供の空想らしくない(どころか、おそろしくおっさんくさい)ことも、妙に説教臭いことも、親が全然親らしくもないどころか、むしろ親失格のようにすら見えることも、すべて筋が通る。また、「同じ空間に違う時代の同じ人物がいる事は出来ない」と前半でわざわざ強調して一貫した法則と思わせた設定が話の都合でさらりとなかったことになる図々しさも、ただの子供に出来ることではない。全ては四歳の子供である細田守が見た(見たい)世界であり、その世界が見せる(見せてほしい)幻想であり、現在であり、過去であり、未来なのだ。

ここで、ようやく冒頭に挙げた庵野秀明による二千十二年の作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』とのかかわりについての話になる。(一応警告しておくが、同作を見ていない人がもしいたとしたら、この次の段落は遠慮していただきたい。完全に作品のネタバレをしてしまうから。)

この奇妙な映画の、十四年間眠っていて、しかも「エヴァの呪縛」により見かけもまったく変わらないまま、世間の流れに完全に取り残されている、という主人公碇シンジの姿は、『END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(千九百九十七年)から。本作『Q』の制作が本格的に再開したのであろう二千十一年までのほぼ十四年間、「皆の求めるエヴァンゲリオン」に携わっていた庵野秀明自身と露骨に重なるように作られている。それまでの十四年間(つまり『序』と『破』である)は、ひたすら、皆が喜ぶような未来を求めて、シンジは自身の意思や希望ではなく、皆の願いのためにそこにいた(特に『破』においては「周囲の期待に応えよう」という意識が、作品をほとんど同人誌化させていたことは、以前指摘したとおりである)。
だが、『Q』において、碇シンジ=庵野秀明は、ふたたび、自分の手で、自分の意志で、自分のエヴァンゲリオンを動かそうとする。そうしてそのとき「大人たち=外野の人々」はあからさまにシンジの意志と行動を否定し、お飾りでいることを求め、それを強制しようとする。自分の主張などするな、引き続き皆の求めるエヴァンゲリオンの乗り手であれ、と。
それに対し、シンジがどうふるまったのか、『Q』が語るのはそこであり、その時、『エヴァンゲリオン』は再び「庵野秀明の物語」になったのである。この映画が公開当時から、賛否両論――というか否の方が多いような状態――だったのは、この、物語の本質的な筋立てを、読み取れない人が多かったせいであるだろう。もっとも、そこを読み取れたところで、映画として面白くなるか、というと、微妙なところではあるのだが、しかし少なくても「意味不明」という事はなくなるし、エヴァンゲリオンとはもともとそうした物語であったのだ。横道から本筋に戻った事は、祝いこそすれ批判するような性質の事ではないはずなのである。

未来のミライ』において細田守がやった(もしくはやろうとした、はたまた、やってしまった)ことはおそらくこれなのだ。これは「未来のミライ」ではない。「現在のマモル」なのである。現実の細田家由来と思われる要素がむやみやたらとあるのも、それを示すためなのだ。ことここにいたって、かれはついに自身の作家性、あるいはその欠如と全面的に向き合おうとしたのである。未来のミライさんがちっとも重要な役割を与えられないのも当然のことで、くんちゃんは自分のことでまだまだ精一杯なのだ。その精一杯の努力の結果がたとえ好きな色のズボンを穿かない程度のことであっても、人類にとって、そして観客にとって、それがとても小さな一歩だとしても、くんちゃんにとってそれはとても大きな一歩なのである。
これは、括目せよ、というほどのことではないかもしれない。しかし、そっと見守るぐらいのことはしてもいいのではないだろうか。かれがまた『バケモノの子』の方向に戻ろうとしないことを願うばかりである。

なお、日本のアニメの未来に向かう一歩なら、『聲の形』や『リズの青い鳥』といった山田尚子作品、『思い出のマーニー』や『メアリと魔女の花』の米林昌弘作品に、それがあるように思えるわけだけれど、それはまた別の話、別の機会に話すことにしよう。