『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』あるいは、円環を成す円環について。。

   ――革命的若者は、火山の情熱を掻き立て、怒りを目覚めさせ、
     冷静にして確実な計算により疑う心と憤る心を結びつけ、
     かくして多くの人々を反逆へと駆り立てなければならぬ。
   ――天国では、すべてがうまくいく。


上映開始二日目の日曜の夜、立川シネマ・ツーで観た。一階のシアター前にずらりと並ぶ、列誘導のために設置された柵と、割と早い段階から待機している客の存在が、この作品の特殊な盛り上がり方を端的に表していたかもしれない。座席は既に決まっているのだし、入場特典の色紙は人数ぶん足りていないようなら、その旨の通告があるだろうから、つまり充分あるということで、中身にしてもランダム配布なのだから、先着の利点は全くない。また、早く席に着いたからといって、早く映画が始まるということも多分ないだろう。それでも、早く並びたいし、早く色紙を手にしたいし、早く席に着きたいのだ。待ち望んだ作品ならば、不合理であろうと、そういう気持ちに誰だってなるのである。待ち望む、というのはそういうことだ。

正直なところを言えば、いくら期待はしていても、うまくいくはずがない、と思っていた人が、それほど熱心でないファンでなくてもいたのではなかろうか。いや、熱心なファンであっても多かったのではないかと思う。
それどころか、熱心なファンであればあるほど、期待と同じぐらい失敗の予感を持っていたかもしれない。テレビシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は(いろいろ問題はあったにせよ――詳細はテレビ版感想https://sinkuutei.hatenadiary.org/entry/20110422/p1を参照――)、すくなくても、物語の着地、ドラマの完結性という意味では、人気が出ればいつまでも引き延ばす、あるいはそもそも人気が出たらいくらでも続きが作れるようにする、もしくは長い話の端緒だけアニメ化する(当然人気が出れば随時アニメ化する)、というような長期的な商売を見込んだ作品群が多い近年のアニメ界において、水際だった潔さであったのだから。主人公まどかは概念のみの存在と成り果てて作中の現実からは姿を消し、唯一、概念化のまえのまどかの記憶の残滓を有するほむらにしても、漠然した記憶を懐かしむ以上の何ができるわけでなく、「夢狩りの不安な歌」をうたうだけ、という物語の「先」は、普通に考えればもうありえなかったのだし、無理矢理続けた場合は、まず真っ先にその見事な完結性という美点が損なわれてしまうのである。新しいまどかやほむらの物語が見たい、しかし同時にテレビシリーズのいいところは壊さないでほしい、というのは、原理的にほぼ不可能としか言いようがなかったのだ。

そんな期待と不安の中、映画はいきなりテレビシリーズ第一話の変奏曲として始まる。とてもよく似ているが違う世界。その違いは全体に(登場人物にとって)好ましい方向に調整され、テレビシリーズで起きた悲劇の大半はなかったことになっている。まどかの目覚めの場面からつたわる、あからさまな「過去をなぞっている」ことのアピールにはじまり、魔法少女もののパロディのような、これでもかという媚態に満ちた変身場面のくどさ、しつこさや、一見萌え場面のようでいて圧倒的に空々しいケーキの歌によるナイトメアの浄化場面の居心地悪さ、そういったことすべてがたった一つの真相をしめしている。

これはまちがいなく「誰かが見ている夢の世界」であり、より具体的にいうなら『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の世界だ(それが意図的なものであることは、中盤の町の外に出ようとするシークエンスでより明確に示される)。

そういう架空の世界の解釈・理由を巡る観客と作り手の知恵比べ、それがこの「新編」前半のテーマであり、物語のテーマにもなっていく、とたいていの観客は予測するだろう。
そして、この時点で観客がまず考えるのは、おそらく、これは誰の夢か、ということにちがいないが、これに関しては実のところ、作り手にしても隠す気はないようである。というか、隠す気がないようにみえる。
それというのも、夢の世界を一番望むのはだれかというところから考えれば、すでに概念化した人ではない人に夢を見ることはできないだろうし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人でもありえないし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人の為に一緒に死んでしまった人は死んでしまっているので夢を見ようがないし、ソウルジェムごとむしゃむしゃ齧られてしまった人は夢を見る魂がないのだから夢は見られないし、となったら、唯一概念となった人でない人のことを漠然と憶えていて、なおかつその人にもっとも会いたいと思っていて、円環の理に回収もされていなくて、爆死もしていなくて、むしゃむしゃ齧られてもいない人しかありえないわけである。

この作品に映画として欠陥があるならまずここだ。

観客には犯人がわかっているのに、探偵がいつまでも犯人を探しつづけている。倒叙ものならば、犯人の正体以外にも動機やらその手段やら、あるいは露見や捕獲の仮定を考える楽しみがあるけれど、動機は間違いようがないし、手段は魔法だろうし、露見は本人が気づくだけである。オハヨウで終わる話である。そこに一切のサスペンスが期待できない。
あるいは、ある種のショーとして、「ありえたかもしれない魔法少女五人組(魔法少女戦隊まどか☆マギカ?)の活躍」をたっぷり描きたかった、ということなのかもしれない。しかし、いくらなんでも長すぎるし、それが架空の世界であるという、物語の秘密の底が既に割れている以上、観客の興味はその先に移ってしまっている。結果的に、ほとんどの人にとって、ティーパーティーの場面が茶番の為の茶番(文字通りの意味だ!)になってしまうのは避けられないし、アクションとしてはおそらく前半最大の見せ場であろう、マミ対ほむらにしても、対決の中心にいるべべが、マミにとってはどうしても守らなければいけない大切な友であり、またほむらにとってはどうしても確保しなければならない存在であるという、いってみれば双方の戦う動機づけとしての存在だという描写に乏しいし、そもそも架空(と容易に予想がつく)世界での戦いであるという状況の時点で、二重三重にその戦いに迫真性があらかじめ失われている。どんなに見た目が派手で華やかであっても、どこまでも演武以上のなにものかにはなりえないのだ。

そんな長く濃厚すぎる夢の世界の描写に、いささか飽きたころに、ようやく世界のほつれが見え始め(ここでの顔だけが落書きみたいになるモブキャラの描写はいい)、それこそ『ビューティフル・ドリーマー』的な謎の核心に迫る展開が始まるわけだが、この時点でおそらくほとんどの観客は、既に夢の世界を夢見た「犯人」を見抜いているし、この夢の世界を夢見るぐらいだから現実はその正反対であるに違いないということも推測しているに違いなく、つまり、ここでもまた登場人物と物語はだいぶ観客におくれをとってしまっているということになる。

もしかすると、これは意図的なものであるのかもしれない。予測可能な設定と展開とをこの時点までにあらかじめ観客に飲み込ませておくことで、実際の謎解きの場面の負担を軽くして、その後の怒涛の新設定・新要素の数々を受け入れやすくしているのだ、と。

それはたとえば、ソウルジェム内部でのみの魔女化であるとか、「円環の理の鞄持ち」としてのさやかの本当の復活であるとか、テレビシリーズでは影も形もなかった新しい魔法少女の参入とか、そういったもろもろのことであるけれど、しかし考えてみたら、テレビシリーズラストにおいて、円環の理の誕生による宇宙原理そのものの大転換という大技をすでにやってしまった世界観においては、この程度の新設定、新要素など大した負担ではないのではないかと思う。というより、はっきりいってしまえば、既にどんな強引な追加設定・追加要素をだしても、そういうものなのだ、という程度の驚きしか与えられない世界に、『まどマギ』の世界は既になりはててしまっているのであるから、そもそも謎解き的な要素の存在自体がお門違いであったのかもしれない。

推測するに、その辺の事情はおそらくスタッフも薄々察していて、だからこそ、過剰ともいえる劇団イヌカレーの異空間演出の大活躍があり、それに伴う(はっきりいってしまえば、無くてもたいして問題はない)派手なアクションがたっぷり用意されているのだろう。

だが、これが意外に盛り上がらない。
いや、劇団イヌカレーは頑張ってるのだと思う。仮にキュウべぇやさやか達の説明がまったく理解できない人であっても、画面を所狭しと動く、魔女とその眷属(配下?)、魔法少女チームの大乱戦は非常に賑やかで華やかで適度に過激で、つまり退屈せずに見ることができたはずだ。ただし、テレビシリーズにおいては、蒼樹うめ原案によるいかに萌えアニメらしいキャラクターデザインとの意図されたミスマッチ(キャラがアニメ内三次元存在であるのに対して、徹底して二次元存在である魔女と異化作用)ゆえのイヌカレー効果だったわけだが、それはもはやそういうものとして――少なくてもこのシリーズのファンにしてみれば――しっかり定着してしまっていることであって、ミスマッチも異化作用もない、おなじみの風景でしかなく、そして、おもうに、切り絵や写真加工を画面いっぱいに平面的に配置するイヌカレーのスタイルは、本質的に劇場の大画面向きではないのではないだろうか。すくなくても、テレビと同じ方法論でやってもそれは効果的ではないのだ。いつも通りの平面魔女が大画面を埋め尽くしても、それはテレビ画面で見られたものを無闇矢鱈と大きくしただけで、巨大な紙芝居以上のなにものでもなかった、とすらいえるかもしれない。大画面をささえるには、大きなぬいぐるみだけではおそらく力が足りないのである。
もっともこれは実質的に初の劇団イヌカレー初の劇場オリジナルである。本作の続編や、あるいは別の劇場作品において劇団イヌカレーが登場することがもしあれば、もっと劇場映画らしい見せ方を提示してくれる可能性はあるだろう。

とまれ、大騒動――架空の世界での出来事であること自体は変わらないので、やはり茶番感覚は抜けないままではあるが――の果てに、夢の果てが遂に描かれ、現実が姿を現すわけだが、ここでまた例によって例のごとくインキュベーターの陰謀が語られ、これまた例によって例のごとくSF的な設定らしきものが披露されるわけだが、テレビシリーズ以上にどうでもいい感じがしてくるのは気のせいではない。既に述べたように、この作品においては、魔法という名の奇跡の存在が前提としてあり、魔法によってほぼなんでもあり得る世界であるという認識が観客にはある。使われる言葉はSF風でも起きる出来事は魔法そのものであり、提示された設定と理論を咀嚼するのではなく、提示された映像と状況を丸呑みするしかない、ということも、観客はすでに充分知ってるのだ。
だがそれでも、ここで終わっていれば問題は少なかったかもしれない。この映画が真の姿を、そして真の問題をさらけだすのはここからだからである。

甘い夢想から苦い現実に戻り、そこで昇天と再会、という終わり方は、テレビシリーズのエピローグで暗示されたほむらの未来をただ具体的かつ無難に作品化しただけという安易さはあるにせよ、絶望の果ての救済、という流れ自体は、物語としては自然なものであったのだ。
だが、この映画の作り手たち(総監督の新房昭之、監督の宮本正裕、脚本の虚淵玄)はそれで良しとはしなかった。まどかとの再会を願い、まどか=円環の理による救済の時を望んでいたはずのほむらが、まさに救済を拒むという大胆な路線変更が彼らの選択だったのである。

戦いに疲れた暁美ほむらは絶望の果てに魔女となり、さらに「愛によって」悪魔と化し、鹿目まどかによって浄化され円環の理に取り込まれることを拒否、まどかがまどかたる記憶と実存を円環の理から引きはがし、己の作りだした夢の世界に閉じ込めた――

この展開は確かに意外だ。衝撃的ともいえる。
この逆転劇、じつは、最初から計画されたものではなく、パンフレットに掲載された虚淵玄のインタビューによると、当初の構想では、その直前の、いわば偽のクライマックスが、実はそのまま真のクライマックスであったのを、監督たちから「このあと続いていくような物語にしたい」という要望をだされて、まさに登場人物の誰もが予想してなかった展開を見せることになった、ということらしいのだが、これが商業的な要請であったとしても、それ自体はおそらく間違ってはいなかったと思う。
というのも、もし、はじめの構想どおりに魔法少女の死というかたちでの救済と、ほむらの昇天によるまどかとの再会を幸福な結末として描いてしまったら、テレビシリーズの結末から一歩も出ないどころか、むしろその地点よりさらに後退してしまった状況で、この『魔法少女まどか☆マギカ』という物語が、もともと、死による救済という予定調和の「円環の理」に取り込まれて終わる物語であったものが、それこその映画で描かれた通りに、閉鎖空間での魔女化とでも言えそうな、おぞましい自家撞着の時空のうちに「真の結末」を迎えることになっていたかもしれないのだ。

念の為に書いておくと、これはテレビシリーズの結末が失敗している、という意味ではない。

テレビシリーズの結末というのは、改変後の世界で唯一まどかのことを憶えているほむらが、しかし、思い出に内向するのでなく、あくまで前向きに生き、戦い続けようとするところで終わっているから、意味と価値があったのだ。ほむらの死と昇天、まどかとの再会はあくまで未来の可能性でしかなく、過去に後ろ髪をひかれつつも、少なくても現在をしっかり生きること。まどかの物語としてはそれほどうまくいっていないテレビシリーズも、ほむらの物語としてみれば、それなりにスマートな着地を見せていたともいえるだろう。
そして、くどいようだが、それがそのままで終わっていれば、である(だから、あの物語の続編制作は、設定的に困難であるだけでなく、主題的にも困難だった、ということもできる)。

しかし、救済を否定することの正しさは、その否定の仕方の正しさを保証するものでない。この新編で描かれたものが正しい「叛逆」であったかというと、これまた否定せざるを得ない。

いいかな。
まず単純に、設定上の伏線やそこに至る登場人物の感情の動きが一切描かれていない。だから、予想外は予想外でも、その意外は唐突とか強引という意味での予想外であって、決して心地よい逆転ではない。むしろ裏切りと称したほうが相応しいものである。それも、設定面だけならまだしも、ドラマ面で、「あなたの守った世界を私が守り続ける」と決意したテレビシリーズのエピローグのほむらの姿が脳裏に焼き付いている人ならば、なおさらそう強く裏切られたと感じるはずだ。もっとも裏切ってはいけない人たちをこの映画は裏切ってしまったのである。暁美ほむら鹿目まどかの救った世界を守り続けることができなかったのだから。

「円環の理の誕生」規模の大魔法、ようするに大奇跡をまたも使うというのも知恵がない。あれは全十二話のシリーズの最後であったからこそ使ってもぎりぎり許される荒業であって、一度目は素晴らしく感動的な奇跡でも、二度目は喜劇になってしまうのが世の理なのである。トランプの「大富豪」で革命ばかり続いたらみんな馬鹿馬鹿しくなってしまうだろう。
だいたい、ほんの数百年ばかり愛という名の妄執を募らせたら世界の理を改変できるとするなら、長い人類史、そして無数の平行宇宙において、ありとあらゆる願いを持った「悪魔」が無数に出現して宇宙原理を改変しまくってもおかしくなく、このすでにありとあらゆる全般的ぐちゃぐちゃである宇宙が悪魔の跳梁によって、ありとあらゆる全般的さらにぐちゃぐちゃである宇宙と化してしまう可能性だって十分あるではないか。そうなったら魔女も魔獣も悪魔もない。機械仕掛けの神ならぬ魔法仕掛けの魔王が暴れているようなものである。

なにより、最大の問題は、この展開によってもたらされた「終わり」が何かの「結末」になっているのか、ということで、はっきり言ってしまえば、まったくなっていない。たとえるならば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』程にも終わっていない。

この映画の最後に描かれる世界は、ほむらの願いによって閉じられた世界である(設定上はどうとでもあとで説明がつけられるけれど、実態としてはそういうことだ)。それは、テレビシリーズのほむらが時間を繰り返し遡行するという人為的な円環の生成によっておこなっていた時空の封じ込めを、新しい夢の世界への主要人物の取り込みという、より直接的にわかりやすいかたちでおこなった、というだけのことで、つまり、テレビシリーズでほむらがやっていた円環の生成をまた円環を作成してやっているわけである。円環の作成の円環の作成、二重の円環の生成なのである。
しかも、ほむら以外の登場人物が円環の中にあるために一切変化をみせず、反面、意識だけは円環の理から逸脱しているほむらだけがどんどん病んでいくという展開になるであろうこともまた、テレビシリーズと近似であって、さらにその先にありえる結末もまた、テレビシリーズと同じく覚醒したまどかによるほむらの精神の解放しかなく、どこまでもテレビシリーズの展開をなぞっていかざるを得ないという状況になってしまっているのだ。現在だけでなく、未来もまた閉ざされてしまっている。新房昭之虚淵玄は、救済の拒絶というかたちで円環を破壊したさきで、よりたちの悪い円環に取り込まれてしまったのである

映画製作当初の「真の結末」が予定調和であるとするなら、このあたらしい「真の結末」は無間地獄とでもいうべきものなのだ。


ここに抜け道にはなかったのだろうか、というと、いくらでもあった。予定調和の結末も、、一つの抜け道である。あるいはより王道の結末もあったはずで、たとえば、ここで、またも、というか当然というべきか、『ジュエルペット てぃんくる』を思い出せれば、それでよい。あるいは『魔法のステージ ファンシーララ』でもいいし、『時をかける少女』でもいいし、『劇場版少女革命ウテナ アドゥレッセンス黙示録』(*1)でもいいし、『涼宮ハルヒの消失』でも、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でも『銀河鉄道999』でもいいだろう。

共通するのはいうまでもなく、「子供が子供であるところから一歩踏み出す」ということだ。「少年が大人になる」ということだ。「魔法の季節から卒業」ということだ。魔法少女の物語の王道の結末は、魔法少女魔法少女でなくなって終わるのだ。『てぃんくる』のあかりや『ファンシーララ』のみほは魔法の力を一切失うし、『時かけ』の真琴はタイムリープ能力を失う。『消失』の黒幕はその願いの具現化した世界を失い、主人公に「殺され」るし、『アドゥレッセンス黙示録』の天上ウテナは文字通り裸一貫で「青春の学園」の外へと飛び出していく。そして、『ビューティフル・ドリーマー』の夢の世界を破壊した諸星あたるは「責任とってね」と宣告されるのだ(*2)。

魔法少女まどか☆マギカ』の結末も、それこそが最も自然なものであったはずなのである。そしてそれは、すでに魔法少女でない概念になってしまったまどかにはできないことであって、ほむらだけに許されたことであったはずなのだ。

今、万感の思いを込めてカラフィナが歌う。
今、挽回の思いを込めて円環の理がゆく。
一つの旅が終わり、また新しい旅立ちが始まる。
さらばまどか。
さらばインキュベーター
さらば魔法少女の日よ、と。

もっとも、これをやってしまうと、それこそほむらとまどかの物語が終わってしまうだけでなく、『魔法少女まどか☆マギカ』という作品そのものが完結してしまうわけだから、現実的な問題として、あるいはほむら昇天エンド以上にありえなかったかもしれない(*3)。

個人的には、それでよかったのではないかと思う。どんな物語だっていつかは終わらせなければならないのだし、終わりどころを見失なった物語は悲惨である。客にあきれられ、飽きられて、閑古鳥の内に店じまいをしなければならない。逆に、綺麗に終わることができれば、むしろそのことで、人々の心に残る。終わることでむしろ作品としては長生きするのである。
まどマギ』はといえば、物語をきちんと終わらせるタイミングとして、最善はいうまでもなくテレビシリーズであり、その次は、今をおいてほかになかった。だってそうでしょう。今回の結末をふまえて物語を再起動しても、前述の如く、同じドラマ、同じ展開の繰り返しになってしまう。おまけに、キャラクターの非業の死、イヌカレーの映像、キュウべぇの正体、そういったこのシリーズの大きな力となってきた要素の補助を一切なしでやらなくてはならないのだ。前作より人気の出る目がまったく見えない。(その傍証として、結局ろくに見せ場のなかった百江なぎさの存在感の無さを挙げてもいいかもしれない。あの世界の物語的土壌は既に枯れつつあるのだ)。
ほむらの「悪魔」化からの、説明的な対話と独白の連鎖によって物語の落としどころを探して回るというだらだらと弛緩した展開が、シリーズの今後に横たわる大きな問題を既に先取りしているとみるのは、穿ちすぎではあるまい。もはや、望ましい「真の結末」は誰にもわからないのだ。ほむらにも、まどかにも、そして作者たちにも。

さて、この文章もそろそろ落としどころがわからずに、だらだらと弛緩してきた感があるので、ちょっと原点にたちもどって、では、この『劇場版魔法少女まどか☆まどか[新編]叛逆の物語』は楽しかったかどうか、ということを検討しておくと、いろいろ不満はあるけれど、決して退屈ではなかった、ということは言っておきたい。退屈さがあるとすれば、それは既に述べたストーリー上の問題と、観客として新房昭之&シャフト&劇団イヌカレーのスタイルに慣れ過ぎた故の刺激の乏しさのなせる業であって、言い方を変えれば、伝統芸能の安定感の退屈さであり、それ自体は決して悪い事ではないのだろう。映像・演出面では、前半のパートに単なるループ感におわらない濃密さを出せなかったのは惜しいとは思うけれど、『まどマギ』という枠、イメージを崩さない中での「劇場版」化にはそれなりに成功していた。すくなくても、内容的にも映像的にもどこまでも「総集編」でしかなかった[前編][後編]とは大違いだったといえる。特に中盤の廃墟的な風景は好みだ。
音楽的には、「Magia」クラスの強烈な楽曲が欲しかった気はするが(ラストのバトルにはあのレベルの激しい音が必須ではなかったか。*4)、サントラは欲しい。

それにしても[続編]は一体どうなるのだろうか。続編を想定したような作りで劇場版を作っておきながら、そのまま企画そのものが消失してしまったと思しき『涼宮ハルヒの消失』パターンになるのでなければ、間違いなくテレビシリーズ[第二期]はあると思うけれど、既に二度にわたってルールの上書きがなされ、誰が死んでいも誰が生き返ってもおかしくない世界においてて、一体どんなサスペンスある物語が作れるのか。いっそのこと、劇場版全体を誰か(というか、ほむらだな)の夢というとしてしまって、テレビシリーズのラストシーンから再度話を作り直すという手もありかもしれない。荒廃した世界で孤独に戦い続けるほむらの物語、それは『マッドマックス2』や世紀末救世主伝説にいささか似てはいるだろうけれども、すくなくてもそれなら円環に閉じられることはない。すくなくても新しい未来へ一歩踏み出すことができるはずだ。
ちなみに、あの砂漠のラストカットは、原作:光瀬流/漫画:萩尾望都(ご存知『銀の三角』の作者である)の『百億の夜と千億の昼』の最後のひとコマと似ていたりする。それは全てが円環となって連鎖し、主人公が一からまたやり直す物語であるが、一からやり直して、また同じ結末に至るかは、誰にもわからない。主人公にも、作者にも。それはそういう結末だった。

なんにしても、こんどこそ、ほむらの戦いが終わりますように。そして魔法少女たちが魔法少女という呪いから解放されますように。


   ――天国では、全てがうまくいく。
     あなたはあなたの良きものを得て、あなたは私のものを手に入れる。 
     天国では、全てがうまくいく。
     あなたはあなたの良きものを得て、私は私のものを取り戻す。 


(*1)内容面だけでなく、演出的にも[新編]中盤のバスの場面などには、本作のエコーがあるように思う。ラスボスが平面的な巨大物、というのも似ていると言えないこともない。
(*2)このあたるが責任をとらないで逃げようとしたら、怒って追っかけてきて「恨みはらさでおくべきか」「さてもおそろしき執念じゃあ」となるのが、『天使のたまご』、責任とって子育てにいそしんでいるのが『迷宮物件』、という話は有名である。
(*3)完璧終わっている物語を無理矢理続けた『さよなら銀河鉄道999』や原作漫画『銀河鉄道999』がどういう結果となったか、という話でもある。そしてそれは、まさにこの[新編]のことでもあるかもしれない。
(*4)ところで、カラフィナのあの曲のモチーフは後期ミランダ・セックス・ガーデンのハード系の楽曲、具体的には「Cut」「Cover My Face」あたりだったりするのだろうか。

〔13/11/22追記〕
テレビシリーズ(および[前編][後編])と、[新編]の内容を「親友を事故や災害で失った人の物語」という観点から見てみると、あるいは問題がわかりやすいかもしれない。
友人を失ったという事実を受け入れられずに、脳内で何度も事件の時を思い返していた人が、ついにその死を受け入れたのがテレビシリーズ(および[前編][後編])で、やはりその死を受け入れられず、自分が作り上げた親友の幻と妄想の中で暮らそうというのが[新編]。