[ef-a tale of memories」

 大沼心ショー。良くも悪くも。
 良いというのはもちろん、語りくちへのこだわり――かの短編小説の大家が言ったように、「大切なのは何を語るかではなく、どう語るかだ」を実践するような、あの手この手の趣向を凝らした演出の数々――であり、悪いというのもこれもまた言うまでもなく、手法のための手法というような、内容を伝えることを放棄するような独りよがりな場面も少なからずあったことをさしている。ようするに、演出を楽しめる人にはそれなりに楽しめ、演出だけでは楽しめない人には楽しむに難しい、という作品だったわけ。
 個人的に見てて連想したのは、既存のアニメでも映画でもなく、漫画でした。具体的には最近の楠本まきの、限りなくデザインイラストに近接した一連の作品、漫画なはずなのにほとんど白紙の画面の隅に小さな活字が並んでいるだけとか、絵はあっても、連続したストーリーすらない独白の連なりであったりとか、そういった作品を、大沼以下の本作のスタッフがお手本にしたかどうかはともかく、方向性としては同じようなところを目指しているように思える。
 もちろん、語る内容から全て自分で作る楠本作品と異なり、「ef」には原作があるわけで、そのあたりが、演出と内容がうまく響きあっているところとそうでないところの温度差が生まれる要因となっているのだろう。テーマ自体が物語や記憶といった「つくりごと」であるチヒロたちのパートでは、周囲がすべて廃墟、というような誇張映像が功を奏している反面、基本的に等身大の恋愛劇であるミヤコとケイたちのパートでは、留守電九十九本のあたりがわかりやすいが、演出のために作られたような場面の描写が、日常性を弱める方向で働いてしまうのだ。ケイ&ミヤコパートのクライマックスである、それぞれの独白が連鎖する終盤部は、ほとんど朗読劇の世界といえそうなぐらいに饒舌な心情吐露は、現実と隔絶した雰囲気ならではの説得力があったけども、どこか登場人物が演じているお芝居を見せられているような違和感は消えないのである。
 違和感といえば、二つの物語のザッピング構成も疑問。見ているときは気づかなかったのだが、終わってみるとこれは、サブタイトルにあるような「記憶をめぐるひとつの物語」ではなくて、「記憶をめぐる二つの物語」であって、二つは舞台と登場人物こそ交錯するものの、テーマ的にはついに交錯しない。それどころか、「記憶」の意味するところからしてまるで違うわけで(かたや、くびき――過去とすべきもの、であり、かたや、糧――現在を生きるためのもの、なのだから)、そのことが明確になるのは、それぞれのエピソードのクライマックスなため、同時進行だと二つの物語の本質的な差異に気づきにくく、必然的に対照の妙を味わえないのだ。これはもったいない。商業的には三人のヒロインが大体毎回満遍なく出ていないとまずいのかもしれないが、明確に二部立てにしたほうが作品的には隙が無かったような気がする(安彦良和の『ヴイナス戦記』なんかがわかりやすい例か?)。

 そういえば、千尋が怪我をしたのは、登場人物の説明では十二歳のときであるはずなのだが、描写を見る限り明らかに十代未満である(どこの中学生があんな置手紙を残したり、ああいう状況で車に惹かれたりするか)のは、いったいどういうことなんだろう?