立川はシネマ・ツーにてレイト・ショーを鑑賞。正直な話、前日譚にあたる番外編のパスポートをとる話が、番外編のなかでも、というか『けいおん!』『けいおん!!』すべてのエピソードのなかでも、最低ランクの出来だったので期待度はダダ下がりだったし、おまけに大ヒットしているという話もあり、さらに行く気が失せていたのだが、自由に再生停止ができたり、途中で寝てもまったく問題のないテレビ放送やソフトで見るとはまったく異なる緊張感とともに見る「けいおん!」というのも今後二度と体験できないかもしれないし、最近劇場行ってないし、イベント的な状況は乗り遅れたら追体験不可能だし、レイト・ショー料金なら前売券よりも安いし、大画面で憂を見られるのはそう悪くないかもしれないし、といった感じで、最終的には、まあいろいろ問題はあるだろうが見ても損はないかもという判断になったのであった。
 劇場は日曜の夜八時という時間のせいもあるのか、六、七分の入り。ほとんど男性、年齢的には三十代ぐらいまで、という典型的なアニメファン向けアニメの客層。一般層がほぼいなくても「大ヒット」は可能ということなのか。あるいは昼間はもっと「一般的な」客もいたのかしら。


それはさておき『映画 けいおん!』である。テレビシリーズの第一話を想起させるイントロから、これはフェイクですとクレジットが出ているに等しいフェイクオープニングにこれは猿芝居ですとクレジットが出ているに等しい、メンバー抗争猿芝居、そして本当のオープニングにいたる流れは、好調とも軽快とも言えないけれども、このシリーズらしい「ゆるさ」が炸裂していて、本作の「映画」という角書きのいかめしさをあっさり解消する。テレビ版と同じく、なんのこだわりも感じられないスタッフクレジットの出し方にも、そういう解消効果がある。そして見る人は皆思うだろう。ああ、画面と音声の大きなテレビだ。

そう、これはいい意味でも悪い意味で、画面と音量の大きいテレビアニメにすぎないのだ。以前、同じ京都アニメーション制作の『劇場版・涼宮ハルヒの消失』もテレビアニメを数話分つないだようだと評したが、これも同じことが言えると思う。番外編を四話つなぐと、はい『映画 けいおん!』の出来上がり、といったような。

たとえば、テレビのコマーシャルだとまるでメインのエピソードのように扱われている軽音部のロンドン珍道中、つまりは卒業旅行の話が、時間的にも内容的にも結構適当な扱いだったりするのだが、これはこの映画の本筋が「放課後ティータイムがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」でもなければ、旅先での異文化交流でもないからで、そのようないかにも映画っぽい大きなネタをやるつもりなど、スタッフ的にはハナからないということの表れでもある。「外国」に行っているというのに、言葉の違いぐらいしか文化の壁が存在しないかのような(このメンバーならおやつと食事関係でいくらでも話を作れそうなものだが)、隣町感あふれる英国描写も、三泊五日の旅行が二時間ぐらいの短期滞在にしか見えないとしても、それはいたしかたないのだ。

また、いちおうはバンドマンのロンドン訪問なのに、最初に行くのがベーカー街二二一Bだったり(メンバーのだれがシャーロッキアンだったのだろう?)、ヒースロー空港に着いたときに流れるBGMが、スコットランドバグパイプサウンドだったり、続けて流れるのがアイルランドU2風味だったり(ロック風を流してアピールするならXTCかローリングストーンズにしてほしかった)、アビーロードごっこもやらずに、二泊目の夜というとくに意味もなく半端なところでビートルズ風の曲を流したり、「アールズコート」にだれも反応しなかったり、というはあたりは、いい意味でも悪い意味でも「けいおん!」らしいところで、このアニメのメインスタッフが、映画を作るに際して、今までより洋楽の知識を深めたりをまったくしなかった感じがよく出ていて、むしろ微笑ましいといえる。


とはいえ、これがまったく無内容、構成をろくにしてない作品化というと、そうでもなく、作り手たちにも二時間弱でひとまとまり作品を提示するという意識そのものはあったようで、映画全体を貫くテーマらしきものもないわけでもない。テレビシリーズ最終回(番外編を除く)で、唯たちによって梓のために歌われた「天使にふれたよ!」の制作過程、特に唯の詞作の苦労が物語の縦糸になっている――と、まとめるといかにも映画の主筋としては脆弱だが、実際脆弱なのである。もちろんただ作詞するだけでなく、作詞を通して、唯たち軽音部三年生にとっての梓とはなにかという話に発展してはいくわけだが、最終的に完成する詞自体が感謝の気持ちをうたったごく素朴なものなので、梓の加わった軽音部の二年間を総括できるような内容にもならない。結局は「いかにして天使というキーワードが生まれたか」だけになってしまう。というか、この命題をひねり出すだけでも脚本家はけっこう苦労したのではないかと思う。

命題そのものに発展性がないだけでなく、命題設定そのものにも発展性がない、という問題もあって、作詞をしているのは唯だけ、そして当然のことながら梓には秘密(プレゼントだからね)という構図なので、どうしたって唯の独り相撲で終わってしまうという構造的な欠陥もある。実際、本編でも、唯が呻吟するのを訝しむ梓、という状況が反復されるばかりで、そこからはコント的な勘違い(というか妄想)以外は何も生まれないうえ、さらには唯と梓以外の軽音部メンバーが完全に蚊帳の外になってしまう。梓の友達にして唯の妹でもある憂のほうがむしろドラマ的に関わっているぐらいである。だから終わってみると、唯と梓(と憂)ばかりが記憶に残るつくりになっている。いくら「けいおん!」的適当さといっても、軽音部が五人である以上、五人均等にエピソードがあるようなバランス感覚はあってもいいかなと思うし、そういう構成ができるような題材選びをするべきだったのではないだろうか。


構成といえば、ロンドン旅行でのライブシーンは、その前段階といえる楽器の持ち込みの動機自体が随分と苦しいのはまあいいとしても、肝心のライブが、親日的な回転寿司屋であったり、日本がテーマのフェスティヴァルであったり、最初から唯たちにやさしいことが見えている場所なのはつまらない。もともと大きな事件の起こりようのない「けいおん!」世界において、見知らぬ土地で、見知らぬ人の前でライブするドキドキ感ぐらい、「映画らしい」スケールと緊張を生かせるポイントはないような気がするのだが。
 もっとも、考えようによってはそれこそ「けいおん!」らしさであるかもしれない。テレビシリーズの時にも書いたとおり、「けいおん!」に描かれる「現実らしさ」とか「日常性」というのは画面のこちら側の現実感に奉仕するのではなく、あくまで画面の向こう側の世界の(ひいては軽音部の五人の)居心地の良さに奉仕しているのだから、ご都合主義でないほうがむしろおかしいのだ。

そんなご都合主義以上に、回転寿司屋でのエピソードは全体にシュールすぎてちょっとどうしようかと思う。そもそも演奏を頼んだ相手には何らかの謝礼を用意していそうなものだが、唯たちのセリフからするとラブクライシスのメンバーが来るまでは誤解がとけてない、ということは、実はラブクライシスにすら初めから謝礼をする気がなかったのだろうか。笑顔なヤクザ?
 ポップジャパンフェスティヴァル(だっけ?)のほうは、演奏開始シーンすらもなくさらっと進行すること以上に、四時に開演、四時二十分に終演、五時に飛行機が離陸という恐ろしいスケジュールのほうが気になった。撤収と移動が四十分で済むのだろうか。超都合の良い助っ人の登場自体は、まあお約束なので良しとする。
 また、撤収と移動は気になるにせよ、そこからのタクシーでの場面はなかなかいい。日本という日常へ戻ろうとする途上で雪というある意味非日常のものが舞い降りてくる。それは天使ともイメージが重ねられるし、その一番美しい瞬間に、梓が眠っていて、残りの四人がそれをやさしく見守っているというのも象徴的だ。『映画 けいおん!』において、最も映画的な情景に近づいた瞬間といえる。見ていても、ここがクライマックスなのかな、と思ったぐらいだ。

 
本作の一番の疑問点はおそらくはロンドン旅行以後の展開で、一応初登場の登校日ライブがあるにせよ、とってつけたような印象は免れえないし、ロンドンでのライブシーンの印象を減ずる効果しか果たしていない。ドラマ的には、ここではようするにテレビシリーズ終盤をより大雑把になぞっただけで終わってしまう。映画版のメインテーマでもあり、テレビシリーズではそれなりに感動的でもあった歌の披露も、テレビの大雑把なダイジェストにすぎないので、なんの盛り上がりもないし、さすがに作画と演出は変えているにしても、やってることはただの繰り返しである。はっきり言ってかなりだれる。どうせ、テレビを見てない人はほぼいないのだし、いたとしても、それこそこんな雑なダイジェストではなく、テレビシリーズで完全な形を見てもらえばよいのだ。そこからの、ものすごく適当な締めも、らしいといえばらしいが、二時間弱の映画が一時間ぐらいのテレビスペシャルに思えてしまうような邪悪な効果もあって、あまり意味があるとは思えない。


なんでこういう中途半端なことになってしまったかというと、すでに書いたように、唯から見た梓の詩を作る、というメインのコンセプトに無理があったせいだろう。舞台をロンドンに限定すればまだ消化不良感は少なかったかもしれないが、異文化交流とかそういうものと一番縁のなさそうな(違いが分からなそうな)唯がドラマの中心にいる以上、異邦の滞在だけで話がふくらませる自信がなかったのかもしれない。
 逆に言えば、ドラマの中心にいるのが唯でなければ、そして、ロンドン編と日本編を特盛にしなければ、もっとなんとかなったかもしれない、ということでもある。具体的には、梓視点にすれば、ロンドン編をメインにすれば、きっとたぶんもっとなんとかなったのだ。

実際、このロンドン行のメインコンダクターは梓なわけである。名所をチェックして、スケジュールを管理し、予約の手配もする。唯たちにとっての卒業旅行は、梓にとっても軽音部の三年生たちとの二年間の総括でもあったはずなのだ。それはさらに、映画版が、テレビ版とは違う観点で「けいおん!」という物語と作品世界をとらえなおす、最大にして最高の機会でもあったはずだった、ということでもある。
 このラインで話を構成すれば、先ほどから何度も言っている天使の歌の制作というコンセプトのドラマ的な広がりの難しさも解決できる。「唯から梓」だとそこから広がりはないが、「梓から唯たち」だと、単純にいってもドラマの焦点は四倍になるのだから。ロンドンの名所を巡りつつ、何かを隠している三年生を訝しむ梓という構図は、四人と梓のかかわりの回想にもなるし、新しい関係性への布石にもなるし、話をふくらませ放題だろう。そしてなによりそれは「けいおん!」の総括という「映画らしい」コンセプトともぴったり一致するのだ。

そしてクライマックスに位置するのがあの雪の降る情景、ということになる。

あとは、屋上のシーンにさくっと話を飛ばして、詞の完成と、曲のさわりをうたわせて、彼女らが屋上から部室に向かい「天使にふれたよ!」を歌いにいく、そして画面からも退場していく、『太陽がいっぱい』式の結末でよいではないか。


くどいようだが、そういう水際立った完成度や、隙のない構築性をみせないのがあるいは「けいおん!」らしさであるのかもしれないし、今回のようなどこまでも、中途半端なものがコアなファンの求めるものであったのかもしれないから、このつくりが悪いとは一概にいうことはできない。でも、やっぱり(これは『劇場版・涼宮ハルヒの消失』でも言ったことだが)、映画を映画として劇場にかけるなら、やはり映画らしいものを劇場でみたいわけである。テレビとまったく同じクオリティ(良くも悪くも)を「それがファンの求めているものだから」とやってしまうのは、あまりに機会と環境と資金を無駄にしすぎてはいないか。テレビと同じものをやりたいのなら、OVAをずるずるたくさん出すとか、テレビ第三期をやればいいのだ。単なる集金イベントのようになってしまっては、「けいおん!」というコンテンツ自体の寿命をかえって縮めかねない。
 もっとも、この映画が、水際立った完成度や、隙のない構築性をみせて、「けいおん!」という作品の完璧な総括になってしまったら、それこそそこで終わってしまう可能性もある(「ルパン三世」における『カリオストロの城』のように)ので、やっぱりこのゆるさでいいのかな? うーむ。


最後に。ティーカップを亀のトンちゃんの水槽に沈めるのはやめよう。これからもそのカップを使うつもりならとくに。