その余波

宮崎吾朗監督版『ゲド戦記』について原作者ル=グ・ウィンの見解が公開され、すでに全文が訳されています。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

 そちらを読めばわかるとおり、アニメ化に至る経緯から筆を起こして、誰もが気になる作品評価まで丁寧に書かれており、特に作品評価については、とくに原作との兼ね合いという観点から的確かつ容赦なく批判を加えています。その評価は、ようするに宮崎版ゲドはテーマの選択からその解決に至るまでル=グウィンの作品とは実質無関係であり、かつ単体の作品としてみてもあまり出来はよろしくない、といったことで、たぶん、原作のファンで映画に幻滅した人たちのおおくが思うことと同じなのではないでしょうか。

 よく言ってくれた、と思うことではあります。

 が、ここでおさえておいておかないといけないのは、これを錦の御旗にしてゲドアニメを否定してはならない、というところでしょう。原作者が否定したことはそれが「原作のアニメ化」という点で失敗した可能性が高い(あくまで可能性の問題です)というだけのことであって、それで作品自体の価値が失せたかというとそうとまではいいきれないのです。映画は映画、小説は小説であって、映画は映画として単体で存在するべきもの。極端な話、原作を尊重する義務などはないとすらいえるのです(実際映画の名作とされるもので原作を尊重してない作品などいくらである)。

 作品の評価はあくまで宮崎吾朗作のアニメーション作品としての評価でないとならない。

 だから、それがたとえ原作者の発言であっても、最も原作をよく知る人物によるもの、というだけのものであって、それは「原作物としてはどうか」という観点以外では有効ではありません。
 実際、映画単体としての評価は――すべて正論ですが――凡庸すぎるぐらいです。

 むしろル=グウィン発言の中で興味深いのは、宮崎駿に外伝的作品の製作を持ちかけたのに流れた(これ見たかったなあ)とか、鈴木プロデューサーより犬のほうが行儀が良かったとか、この文章を作者に書かせるきっかけになったのは、プライベートな会話を宮崎吾朗氏が勝手にブログに書いてしまったことなのではないかといった、いってみればいくらでもまともなルートがあったはずなのにすべて無視して今のこの隘路に迷い込んでいるスタジオジブリの混乱と無思慮ぶりにこそ、あるような気がします。

 それにしても宮崎吾朗サイドの反応がとても気になるところではありますね。あれだけ原作崇拝を語っておいて、それを原作者に否定されたとき、それでも自作はちゃんとしている、あれこそが自分の読んだゲド戦記だ、と誇れるかどうか。
 そこまで言えれば、すこしは評価してもいいかという気がするんですが