の余波

何日か前、トボフアンカル・ミニ・メディアというブログのコメント欄がなかなか楽しいことになってまして(「アニメの可能性 何故「涼宮ハルヒ」は賛否分かれて、「時かけ」は絶賛の声ばかりなのか」 http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20060725)、原因はやっぱりというかなんというか「涼宮ハルヒの憂鬱」だったりするのでした。 同作についてのここでの評価はもう十分書いたのでいちいち繰り返しませんが、放映が終了してひと月近く経つというのに、ファンの皆さんにとってはまだまだ熱い話題であるようです。

 くわえて、件のコメント欄の面白さが、ブログの書き手であるtobofu氏のハルヒ評価の是非にではなく、コメントしている方々の話題のズレ、会話の噛み合わなさ加減にあるというあたりに、この作品の(需要の)特殊性を見るような気がします。

 tobofu氏の主張自体は、ようするにエヴァ以降作り手の作家性が認められつつあったアニメ業界に、原作の広告塔としてのアニメ化というような、作家性を鑑みない企画が増えてきている(と、氏には見受けられる)ことにたいする漠然とした懸念の表明でしかないわけなのですが、その引き合いに「ハルヒ」を出したのと、「アニメにする理由がない」という文言が拠り合わさって、アニメハルヒの否定のように読み取れないこともない文章になったのがまずかったようで、議論の中心を見極めようとしないまま、アニメハルヒの素晴らしさを語る人が次々と出る惨事に発展してしまったのでした。

 よく考えれば「アニメにする理由がない」というのは――それがどんな基準に発せられているかにもよりますが――たいていの場合、ただ「理由がない」というだけでは作品の質そのものの否定には繋がらないはずなのですが、いったん否定に読み取って(読み取られて)しまえば、もう手遅れなのでした。
 もっともtobofu氏自身、後の記事で「極論すぎた」と反省されている(「鎮火処理」http://d.hatena.ne.jp/tobofu/searchdiary?word=%2a%5b%c4%c3%b2%d0%bd%e8%cd%fd%5d)ように、いささか不用意な発言であったようですが、受け手にもうすこし余裕があれば、ああいうことにはならなかったのでは、とはいえるでしょう。
 というのも、それは本質的には、ハルヒという作品そのものに向けられているのではなく、それを取り巻く「状況」に対しての不満という意味合いであったように思うので。

 ともかく、さながら青春10代しゃべり場の活字版を見せられるような感じで、苦笑しつつも自戒させられるところも多々有るという、議論が不得手という向きには反面教師として一見の価値ありのページとなっています(なお、恐ろしいことに事態は実はまだ「鎮火」しておらず、まだくすぶっていたりするのでした。その辺も件のページで確認できます。あそこまでいくとただの因縁つけですが。うーむ)。


 それにしてもハルヒ関連は、tobofu氏のサイトに限らず、どうしてこうも微妙な言説ばかり沸くのでしょうかね。
 たとえば第二次惑星開発委員会というところのハルヒ評価(「涼宮ハルヒの憂鬱http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html)に対する萌え理論Blogのsirouto2氏の反論(「涼宮ハルヒの反論Ⅱ」http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060723/p2)とか。

 開発委員会の批評は「AはBであるに過ぎない」と言ってるだけに過ぎない、というわけですが、それじたいが「AはBであるに過ぎない」の形式になっているという面白さ。てゆーか自縄自縛?

もちろん、「AはBであるに過ぎない」という言説は、発展性に乏しいというか、断言してしまったあとは思考停止に陥りがち、という問題点はあるにせよ、言説そのものはべつに破綻した論理ではないので、これをもって萌え理論blogのロジックの破綻を言うつもりは無いですが、相手を否定するのに躍起になると、段々に自分がなにを言ってるのかわからなくなる、といういい例ではあります。
 その後も、単なる喩えである「酸っぱい葡萄」というタームにこだわって、相手の主張の根幹に全然踏み込まないまま逸脱を続けるというような素敵な考察が続いて楽しい限りなのですが、そのあたりは直接そちらを当たっていただければ、堪能できるかと思いますので、ここでは触れません。

 ポイントは、アニメハルヒにはそこまで人を夢中で語らせる何かがある、ということですね。この稿もまたそういう流れに乗ったものといえるでしょう。

 それ――語らせる魅力――が果たしてなんであるのか、物語に内在する側面に関しては――惑星開発委員会の人々が主張しているような「妄想における青春の代替行為」であったり、あるいはそれ以外のなにか奥深い思想・精神の表明であるのか、はたまた単なる萌えキャラがたりの照れ隠しであったりするのもしれませんが――深く詮索しません。熱心に何度も見ているわけではないですし、ファンの方々のリサーチをしているわけでもないので。

 ただ、表層的なことであるならば、わりと容易に推察がつくような気がします。
 それは、近年では多分最大の「語りたい気持ち」を誘発したアニメ「エヴァンゲリオン」と共通する要素の存在です。
 もちろんハルヒエヴァンゲリオンでは、作品の質や方向性、そしておそらく内容面での未来の作品への影響力においては、比べようもないとは思うのですが、その「未完」性においてこの二者は共通します。

 ご承知のようにエヴァンゲリオンはテレビでは未完結であり、完結を目指した映画版第一作は結末の予告編でしかない内容、第二作は完結こそしたものの出来は微妙きわまる、という困った作品でした。後先考えずに膨らませに膨らませたはったりのバブルがはじけただけ、ともいいますが。
 ハルヒはというと、原作が未完というのはともかくとして、全十四話のアニメとしては非常に歪な仕上がりでした。端的にいうと内容面になんの貢献もしない(どころか足を引っ張る)錯時法構成のことです。このあたりもすでに書いたことなので、詳しいところはそちらを見ていただくとして、その構成が、ある種の「未完」性を醸しだしていた、というのは間違いないと思います。

 これが何を意味するか、というと、かつて大量に溢れたエヴァについての多くの言説が「作者が考えてもいなかったことであり、単に語り手の語りたいことにすぎなかった」というのと同じように、いまハルヒについて熱心にファンの方が語っている多くのことが、エヴァについてのそれと同じものである可能性がある、ということです。
 
 ハルヒという作品に熱狂的になれなかった身からすると、「それって作品への愛なのか? 一見鏡らしくないというだけの鏡を見てうっとりしているだけなのではなかろうか」という疑問が沸くのです。
 まあ本人が本人の責任において楽しんでいるぶんにはそれでいいんですけどねえ。そこで完結すれば。

 かつてマイケルムアコックはそのヒロイックファンタジーへの批判において、
「自身の救世主主義の犠牲になるのはおぞましい。他人の救世主主義の犠牲になるのはもっとおぞましい」
 といったものですが、この救世主主義を「自己陶酔」と読み替えれば、見事に過去エヴァンゲリオンファンに起きたことにぴったり重なります。
 エヴァンゲリオンも、それにかこつけて現代の若者だの現代思想だのを語りたい人々の格好のネタにされた側面が多分にあって、熱心なファンほど馬鹿を見たわけなので(結局一冊も買わなかったですが、いったい何冊研究本が出たことやら)、そのへんは念頭においておいたほうがいいかな、とは熱く語る人たちを見るにつけ、思うところではあります。