第七話「Alive」

〜第七話「世界の中心でウマイを叫んだ天使」もしくは子供釣り団〜

ワンクールアニメの話数のなかば、ふと気がつくと、視聴者はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。
ああ、その森の異常さ、可笑しさ、荒涼ぶりを語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の解からなさがもどってくる!
その経験の苦しさは、死にもおさおさ劣らぬが、そこで巡りあったよきことを語るために、私は述べよう、そこで見た他のことどもをも。
「プーティーウィ?」

〈CASE2.音無望の場合〉

前回のBパートあたりから降りつづけてゐた雨が、急に止んだ。
しかし、辺りはさつきよりも暗くなつて、重苦しい雲が廂あたりまで降りてゐるらしかつた……というやうなことは全然なく、むしろ今までの雨は狐に化かされていただけハナから雨など降つていなかつたのではなかつたかと思うほどに天晴れな空模様であつた。

そして、音無望は苦悩していた。考えてみたらこの仮名だとまるでメルメルの家に婿養子に入ったみたいじゃないかとか、一体いつからこの世界は目を赤く光らせて心理操作する超能力のことを催眠術と呼ぶようになったのかとか、昨日の敵は今日の友とはよく言う話だが、昨日自分たちを虐殺していた敵を特に制限もかけずに団員として受け入れるのはさすがに知能のある存在の行動としては問題があるのではないかとか、森や川原もある学校の敷地はすごいなとか、そのようなことは些細な問題であり苦悩するに足らないことではあった。ただ、目がまわる、目がまわる、目がまわる、というだけのことである。
とはいえ、自分がなぜいままで記憶が一切戻らず、あまつさえ名前が明らかにされなかったのか、そのことになんの意味もみいだせなかったこの状況にはさすがにへこんだのである。これではまるでなんとなく主人公らしいポジション、つまり作品世界に不慣れな視聴者と割と近い「なにも分からない、なにも知らない」という条件を満たすためだけに、記憶と名前の喪失という設定をプレゼントされたようではないか。してみると、その二つともを再取得してしまった現在、望はもう主人公である必要がないか。いくら中の人がアジアナンバーワン男性声優であろうとも、物語はそのことでえこひいきをしてはくれないだろう。現に、昔超人ロックで現在はリトバスラジオのメインパーソナリティである男は今回限りの出番ではないか。あのぷちこさんだってたった三回で消えてしまったのである。そういうものだ。

いやまてよ、と望は思う。あるいは思い出さなかったことに意味はあるかもしれない。そうだ、考えてみれば、なんだかよくわからない病気―マエダ病とでも名づけたらよいのだろうか―で死にそうな妹のことはほとんど生きがいといっていいくらい大切だったにもかかわらず、その妹へのプレゼントはほとんど生きてようが死んでいようがどうでもいい相手へのプレゼントのごとく、非常にぞんざいに選んでいたというのは、自分の中での押さえ切れない妹への愛情とそれを認めたくない十代後半の青少年らしいかっこつけのはざまの、結果的に外部から見ると錯乱した狂人か圧倒的に恥ずかしいお子様のどちらかにしか見えない行為であったわけで、これは確かに思い出したくないんじゃないだろうか? しかもその後も「なんだかよくわからない病気―マエダ病(仮)―で今にも死にそうな妹はきっとクリスマスの寒空の下、外を出歩きたいはずだ!」となんだかよくわからない頭の病気的な思い込みにより、今にも死にそうな妹をクリスマスの寒空のもと、外を連れ歩いた挙句、衰弱死させてしまっているわけであり、この人じつは妹のことが邪魔で邪魔でしょうがなくて、徹底的な善意に発する事故に見せかけた巧妙な殺人計画だったのではなかろうかとかんぐってしまうような、見るもの誰もが音無くんに同情できない展開が用意されており、やはりこれも思い出したらむしろ死にたくなるだろうから、思い出せないのも当然であったのかもしれない。そういうものだ。

そんなときに、新たな天使が来訪する。
「それはいけません」「そんなことをしたらえらいことになるよ」と止める声。
「えらいこととはどういうことです」
「だってあんたは、あんたは、天使のタチバナカナデにそっくりじゃないか」「もしあんたが行ったら、タチバナカナデのところに行ったら……」

(続劇)


という第七話。

あらすじのところでぴんと来た人もいると思うけども、この作品はようするに〈フォーマ〉なのである。フォーマとは、〈徹底的に無関心な神の教会〉と母体とする宗教団体の用語で、その教義によればフォーマとは「生きるよるべ」であり、またフォーマは「あなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」ものであるという。その宗教の教義は教える。あらゆる宗教はフォーマであると。当然、その教義自体フォーマである。この言葉自体は、平たく訳してしまうと「うそっぱち(伊藤典夫訳)」ということになるが、どんな悲惨な過去も、残酷な暴力も、CMがおわればみなすっきり、という思い切りの良さはまさにフォーマであり、すなわち、ひとを「勇敢で、親切で、健康で、幸福」にしてくれるものであるような気がする。直井の登場から団への編入、クライストレベルのギャグキャラ化までの流れにしても一見無理筋の連続のようだけど、序盤で殺戮をギャグとして描いておいたことがいい按配に通奏低音になっていて、直井たちの殺戮行為もただの殺戮ではなく、平気で生き返る人たちの殺戮という、どっちかというとギャグに類する無意味行為(ゾンビを殺すより罪がない)になっているから、筋立ての上で考えるよりはるかに違和感がない。音無による妹の殺害も、麻枝「泣きゲー」路線の十八番である陳腐さに加えて、雑誌選択の意味不明さやら病院連れ出しの非現実感が件の展開の「泣き」要素を完全に亡きもの(雪の中での死という流れはクラナドセルフパロディでもある)にしていて、音無し君は妹を寒空に連れ出しその結果妹は死にました、と乾いた気持ちで見られるわけである。そういうものだ。
かくのごとく、この物語はまさにフォーマなのだった。

来週の最後で天使マーク2がまた仲間になっても誰も驚かないことであろう。ゆりっぺがやられたのはきっと、天使が食べようとしていた麻婆豆腐を横取りして食べてしまったからに違いない。