第五話、第六話

山南さんがらみの二篇。変若水とやらを山南が飲んで鬼化する展開というのは、史実から行っても折込みずみなのだけど、そういういわば運命によって定められた出来事に千鶴というキャラクターを絡める手つきはいまいち。食事を運ぶエピソードなどで、もっと二人のつながり、というか山南のなかで千鶴の評価が高まっていったことを描いてあれば、いきなり薬や新「撰」組の秘密をべらべらしゃべってしまう流れの強引さも解消できただろうし、完全に鬼になるまえに踏みとどまることの説得力もただ薬の改良に成功していてよかったよかった――という、だけでないものになっていたはずで、なにより、ドラマ的な求心力が全然違ったのではないだろうか。この話では千鶴がほとんど傍観者で物理的な側面だけでなく心理的な意味でも、脇役でしかないからだ。
 あと、歴史もので実在の人物の末路が史実と異なる展開を見せたときに「『○○は死んだ!』ということにする」というのはお約束のひとつだから、山南が生き残ること自体は悪くはないのだが、この段階でそれを使ってしまうと、この後のキャラの去就にちょっと困ることにはならないだろうか。まさか毎回毎回「死んだと歴史上はなっている」でメインキャラを生存させるわけにもいかないだろう。この手の荒業はもっとクライマックスに使ったほうがよかったような気がする。それともこの作品的に一番重要な土方は、一番重要だからこそ美しく散らせてしまおうということなのだろうか。千鶴が不憫である。

ところで、名前が鬼の証(雪村か? それとも「千」鶴のほうか?)と自信満々に言われたのもびっくりだったが、それ以上にびっくりしたのは、この人たちはどう考えても異人さんでそれだからこそ「鬼」であり、なおかつ主義主張で動いているのではないのだな、と勝手に解釈していた、ヤンキーな人たちがみな日本名であることをクレジットで確認したと瞬間だった。特に津田健次郎先生のキャラの風間千景という女の子のような名前には目を奪われるものがありました。