『魔法少女まどか☆マギカ』第十話、第十一話、第十二話、

地震その他大災害による中断より一ヶ月、最終三話一挙放送である。寝不足になった人も多いのではないだろうか。個人的には三時四時に寝るのはよくあることとはいえ、眠いときには二時だろうが一時だろうが寝てしまう性質なうえ、退屈なアニメだったら椅子に座ったまま寝入りかねない(実際、先週は『緋弾のアリア』の次回予告あたりから『電波女と青春男』のAパートの記憶がない。おまけにアニメ銀座どころかアニメ九龍城砦とでもいいたくなるような未曾有のアニメ混雑時間帯なので録画もしておらず、BS放送まで何を見なかったのか確認ができない)。そこに、三時スタート四時半終了、のこれである。もちろん録画予約はしてあるので寝オチしたっていいのだが、せっかくだからリアルタイムで見たい。よくわからない意地である。
そういうわけで、いざ当夜、『アリア』と『電波女』を今回は眠らずに見て、『そふてにっ』は明日以降に回すことに決め、お茶なんぞを淹れて支度をした後、再度テレビの前に座って待っていると猫が早速やってきてひざに乗るや、ごろごろうなりながらいつしか眠ってしまうのを感じながら、時間になったらスイッチをいれ、画面からは一ヶ月ぶりの『まどか』が流れ始めたのでありました。
四時半になって番組が終わり、しかし全然眠くなってはいなかった。


さて、テレビを消してパソコンに向かい(膝上で寝ていた猫は起こされて若干不満げ)、とりあえずメモ代わりに、ツイッターのサイトを開いてこう書いた。

まどかマギカ』 みためキレイ 音楽ステキ はなしフツウ せっていビミョウ てんかいゴーイン てーまキホン まとめアリガチ つまり よくあるモノガタリ (http://twitter.com/#!/sinkuutei

最終三話について、というのではなく、総論的な書き方で、いくら深夜のボケボケの頭であったとしても、もうちょっと気の利いたことを書けよと思わないでもないが、その程度の知恵しかないのだから仕方ない。とりあえずはこの短文を解説するかたちで『魔法少女まどか☆マギカ』という作品について語ることにしたい。


まず「みためキレイ」「音楽ステキ」であるが、これはわかりやすい。シャフトの総力を使ったのではないかと思われるようなクオリティの作画、まばたきをしないきゅうべえや薄暗かったり空虚に広かったりするまどかの家や、不安感を煽る「太い柱のない」学校の校舎のデザインに代表されるような単なるおしゃれ趣味ではない美術設計(作中で数少ない和める場面の舞台となるハンバーガー店にはちゃんと太い柱がある)、トリッキーな構図やカット挿入をしても、常に明快さを失わない演出、とくに、蒼樹うめの原案を活かしながら痛みを伴うアクション描写に不可欠な肉感的な身体描写を兼ね備えた岸田隆弘のキャラクターデザインは出色で、人物のパーツでもっとも蒼樹うめ的な顔のデザインを、その輪郭線を二重にとることで比較的リアルな身体との整合感を失わないように按配するあたりは匠の技といえるし、絶望先生でも腕を振るっていた劇団イヌカレーの異空間描写も素敵だ。梶原由記による音楽も、是永功一による圧迫感のあるギターリフを従えた重厚なテーマ曲が特に素晴らしく(だがしかし相変わらずシングルのジャケットセンスは悪い。本編には関係ないことだけど)、物語の悲劇的なトーンを強烈にサポートする。まだ半年以上残っているが今年一年で本作を超えるクオリティのアニメはなかなかみられないのではなかろうか。

ただし、これはあくまで「映像」と「音楽」の評価であって、作品全体の評価ではない。音楽と映像が素晴らしければ傑作になるなら、この世の傑作はもっと数が増えている。『もののけ姫』や『イノセンス』の話をこれからするつもりはもちろんない。


では『まどか☆マギカ』の物語について、みていこう。物語ははたしてビジュアルに見合う内容だったか? 端的にいってしまうと、それはずいぶんと見劣りのするものだった。物語が終わって思ったのは物語が終わったということだけで、感動はまるでなかった。キュゥべえ(打ちづらい名前だな)の、いや、脚本家・虚淵玄の誤算はいったいどこにあったのか。

本作の物語は、実は――というか、かなり露骨に――王道である。次から次へとメインキャラが死んだり、残酷な展開が目白押しだったりと横紙破り風の意匠が目立つけども、本質的には「最強の魔法少女となることを運命づけられた主人公が、葛藤や悲劇をのりこえて最強の魔法少女となるまで」という普通に土日の朝に小学生向けにやっているお話のフォーマットだし、結末における「主人公の受難による世界の復活と再生」も英雄譚の基本的な展開のひとつであって、神話の代から最近のアニメに至るまで類型を探すのはとても簡単だ(三大宗教のひとつにもこれのとても有名なバリエーションがある。ゴルゴタの丘とかが出てくるやつである)。
そういう、王道にして、単純ともいえるプロットラインにエントロピーの凌駕やらなにやらの擬似SF的な設定――といっても、これも王道のバリエーション(宇宙規模の管理システムと人類との齟齬というテーマは古典SFから近年ではアレステア・レナルズの〈レヴェレーション・スペース〉シリーズなどまで、多々あるし、アニメでもたとえば『グレンラガン』の敵がまさにこのタイプの設定だった)で、正直、新味は乏しいし、インキュベーターの「異質」さについてはSFファンならグレゴリイ・ベンフォードの有名なシリーズでの格言「異質なものについて重要なことは、それが異質であるということだ」を思い出すかもしれない。第十話で明らかにされるタイプリープによる世界改変の試みと、その最終的な解決策についても、萩尾望都の名作『銀の三角』を連想する向きもすくなくないだろう(*1)。
こういったことから判るのは、本作はテーマや展開のみならず、設定的にも、独創性よりも王道の集積が重視されているということだ(唯一、本作の、つまり虚淵玄のオリジナルといえそうな時間移動で平行世界の因果の糸が云々の、言葉遊びにもならない寝言に関しては、カウントしないほうが作家の名誉を守ることになりそうである)。

さて、王道であるものについて重要なことは、それが王道であるということだ、とは誰もいっていないとおもうが、王道の物語に関しては、ほぼ間違いのない真理がある。それは、王道は王道らしく、躊躇わず、余所見せず、堂々といくと成功する、ということ(変に躊躇ったり余所見をしたりするとたとえばそれは『フラクタル』というアニメになる)。

まどか☆マギカ』はどうだっただろうか。

というところで唐突に思い出すのが、『ジュエルペットてぃんくる』である。世が世なら、『まどか』とほぼ同時に終わっていたと思われる、完全無欠の魔法少女アニメの傑作である。未見の方は全五十二話をぜひ最初から順番に見てほしいものだが、終盤一二ヶ月のエピソード群の出来の良さはもう舌を巻くほかのないレベルで、とくに主人公・あかりが親友と戦い(あくまで競技の枠内ではあるが)ながら「ずっと一緒にこうしていたいね」というあたりは、物語における人物描写の積み重ねがどれだけ重要かを強烈な感動とともに伝えてくる。最終回の歌のあたりではじーんとなりすぎて、もうなにもいう気にならない。
この『ジュエルペットてぃんくる』、作品のトーンはかけ離れているものの、最終的な障害が具体的な悪役ではなく、人の負の感情の集積であったり、結末は「魔法少女の最後の魔法による世界の救済」であったり、魔法の国との別れというかたちで「魔法少女の死」が描かれたり、そしてなにより最高の魔法の源は信じる心とユメとキボーであるという主題がまったく同じわけである。これらは偶然でもないし、意図的にどちらかが似せたというのものでもなく、単純にどちらも王道の魔法少女ものである以上、同じ要素をそなえている、というだけのはなしで、そこにはべつに問題視するようなことはない。とはいえ、『ジュエルペットてぃんくる』が与えられた感動を、類似のテーマの『魔法少女まどか☆マギカ』ではまるで与えられていないというところはやはり看過できないだろう。


それは作品の時間の問題であるかもしれない。全十二話では一年番組の蓄積には到底勝てないからだ。しかしそもそも全十二話で描ききれる分量の物語とキャラクターであったのかどうか? 主人公を含む五人の魔法少女、その家族、クラスメイト、これはどう考えたって多すぎる。五十二話とはいわないまでも最低でも倍の二十四話は必要だったのではないか。エピソードにしてもたとえばさやかの魔法少女から魔女への変遷にいたる展開などは、その展開そのもののベタさ加減(繰り返すようだが、ベタつまり王道であること自体は悪いことではない)以上に、拙速としかいいようがない流れで説得力もなければ共感性もなかった。進行係のキューサインばかりちらつくのである。
ほむらの正体を終盤近くまで伏せる構成も、それは確かに先の展開が見透かせないという緊張感を生み、映像の力とあいまって作品そのものに強力な求心力を持たせたが、いざ正体が割れてみると、求心力と引き換えるだけの面白さがあったかというと難しい。先に述べたように、それはSFなどでは珍しくないオチなのだ。
なにより問題なのは、主人公の描写である。『ジュエルペット』のあかりはことあるごとにその精神的な強さを示すイベントが描かれ、みなが彼女に心酔していく展開が説得力をもっていたが(これはいうまでもなく少女漫画などでは基本的な構成である)、まどかはどうだろう。どうも、優柔不断にうろたえている場面ばかり印象的で、クライマックスにおいて彼女が発露する「世界の母」的な資質の片鱗はどこにもみあたらない。

終盤で重要な鍵となるほむらとの関係性の描写も薄い。特に第十話(正式なサブタイトルは「わたくし、眼鏡をかけて髪をおさげを結った明美ほむらは、いかにして悩むことを止めて、眼鏡をはずし髪をおさげに結うことをやめた明美ほむらになったか」)は、ほむら視点であるとはいえ、ほむらがまどかに心酔する理由をもっともアピールできる機会であったはずで、広域指定暴力団的な人たちのところから銃器をガメたり、爆弾を製造する場面を描写するひまがあったら、ほむらとまどかの描写をもっと増やして、クライマックスに必要な「感情の蓄積」をおこなっておく必要があったのではないだろうか。蓄積された感情の噴出は、最終決戦のただなかにあっては、それはどんな爆発描写よりも鮮烈に視聴者の心を打ったはずである。英雄が英雄なのは、かれがただ強いからではない。かれの強さは人に支持される強さだからだ。英国王が英国王になれたのは、ただスピーチをしたからではない。人々の心に届くスピーチをしたからだ。いくらほむらが対使徒用最大火力でワルプルギスの夜を迎撃しても、そこには心に届くものがない以上、ただの火力の(そして作画力の)無駄づかいだし、なにより設定以前の段階で、勝てるわけないのだ。さらに、無駄づかいをして死にかけてるほむらを、まどかが助けにはいっても、そこにはいかなる感動もなく、空しいお約束の展開を確認する作業しか視聴者には許されないのである。はなしフツウ。せっていビミョウ。てんかいゴーイン。てーまキホン。まとめアリガチ。となるわけだ。
こうやってみていくと、最前、誤算の主はキュゥべえではなく虚淵と書いたのは、正確ではなかったのかもしれないと思えてくる。感情を理解できないのはもしかするとキュゥべえだけではなかったのではないのか、と。
(というか、キュゥべえに関していえば、人に神経に触るような表現を狙って使ってる節があるし、契約の前には相手が不審を抱くようなデータをできるだけ洩らさないとか、感情をよほど理解しているとしか思えない描写もある……)

文句ばかり書いているようだが、決してつまらない作品ではない。見てくれも悪くなく、退屈もせず、しかし傑作というには何かいろいろ足りない。そういう「よくあるモノガタリ」であるだけのはなしである。そして「よくあるモノガタリ」の中では、よくできたほうではあることもまた、間違いはないだろう。

ところで、終盤のインナースペース的描写におけるまどかとほむらの体を覆っていた黒いキラキラしたものは、BD/DVDではどうなるんだろう。さっぱりわからないよ。






(*1)未読の人はぜひぜひ読んでいただきたい。実に三十年近く前の作品(千九百八十年から八十二年までの連載)だが、今でもまったく古びていない。

(*2)ちなみに、本作が王道どころか完全に異端の道を爆走して傑作となるルートもあった。千九百八十年代のアメリカンコミックでヒーロー物について試みられたように、「魔法少女もの」を徹底的にシビアかつリアルに再構築し、魔法少女の現実を容赦なく提示するのである。この場合、かなり高い確立でバッドエンドや魔法少女否定になり、本作のような、最終的には魔法少女賛歌となるような展開は難しい。『フェイト/ゼロ』のあとがきを読むかぎり(本編は未読)、虚淵氏にはそういうほうが作風としては合ってるのではないかという気もしないでもない。ただし、この路線で成功するには相当の技量とセンスが要求される。

07:51

NOといえる都民
為政者のさじ加減でいくらでも規制が出来る条例案にNOといえる都民
以前より適用範囲が拡大、曖昧化しているのに
「以前より範囲が限定された」と虚報を流すマスコミにNOといえる都民
これは表現規制の問題ではなく単なる区分配列の問題だとうそぶく副都知事にNOといえる都民
同性愛者などのマイノリティを公然と愚弄して恥じない都知事にNOといえる都民
反対した前回とほぼ同じ内容であるのに賛成しようとする民主党にNOといえる都民

単なる区分指導でなく
単なる表現規制でなく
緩慢な弾圧であり
文化の扼殺である
おろかな思想にNOといえる都民

・・・・・・・・

ぐーたらモードから復帰しようとして最初に書くのが、こういう文面であるというのはいささか考えてしまうのだけど、しかしこれはやはり大切なことである。(ほんとうはエンジェルビーツけいおんのまとめや、薄桜鬼の第二期、いいじゃなイカとか、俺の妹がどうしたこうしたとか、神のみが知ってるどうしたこうしたについても書きたいのだ)

この条例案に賛成しようとする人たちは、これが一体どういう意味を持っているのか本当に考えているのか。子供達のため、という美名の元に何を許そうとしているのかわかってるのか。
目先の利益や政治的判断(民主党に関しては政治的にもこれが得策なのか、とは思うが)やらで、
文化的絞首台の作動スイッチを押すのに加担していいのか

そんなに将来に禍根を残したいのか。

恐怖政治は大義名分を掲げてやってくる。
治安を維持しようとか、退廃芸術を撤去しようとか、文化の大革命だ、とか。

あとには悲劇しか待っていない。

そういうことをわかったうえで賛成票を入れたいというのなら、入れるがいい。
そういうことをした政治家であると、みなに知らせたいというのなら。

本日投票のようである。本当に考えていただきたい。
それでいいのか?


“また、だらりと吊り下げられる新しい首
 ゆっくりと連れ去られていく子供たち
 暴力は沈黙をはぐくみ
 誤認されつづけるわたしたち

 わたしでなく、わたしの家族でなく
 あなたの頭の中に、生ける屍“
  ――クランベリーズ「ゾンビ」

第十二話「夏フェス!」

冒頭で夏期講習だとか受験生とかいろいろ視聴者からのつっこみがありそうな部分を前面に出したうえで「ちょっとした息抜き」と唯たちに言わせて押し切るという力技が印象的な第十二話。二年生のときにやっておけばもっと簡単に進められた話じゃないかという気もするが、以前も書いたとおり、これはどうにもならないことなのだろう。

どうにもならないこと、といえば、日ごろとくにバンドのライブに行ってる様子も、音楽を熱心に聴いてる描写もなく、あまつさえロックの話すらほとんどしていないひとたちがフジロックフェスティバルがモデルとおぼしき「夏フェス」に行って楽しめるのか、という根本的な疑問が、ロックファン視点とか、揚げ足取り目的とか、そういう偏った視座に立たなくても、夏の終わりの雲のようにもくもくと沸いてでてきてしまうのは、これまたどうにもならないことである。

こういう違和感が生じるのは誰にでもわかることなのだから、、期末試験のはなしをやる余裕があるのだから、けいおんメンバー(まあ主に澪と梓だろうか)の音楽ファンとしての側面を描いたエピソードをこまめに織り込んでおくなり、一話丸々使ってやるなりしておけばいいのである。このシリーズの特徴に「細部の適当さ」だけでなく「段取りの悪さ」まで加わえてしまっていったいなにがしたいのであろうか。
まえふりさえきちんとしておけば、「音楽まみれの二日間」に浮き足だつ澪の心理にもおおきな説得力が生まれたはずで、それを呼び水にほかの四人もまたバンドマンであると同時に音楽ファンでもある、視聴者に納得させるのも現状よりはるかに容易だったろうから、終盤の五人で寝転がって語らう場面のいささか唐突なように思える唯の台詞も、好きな音楽をあびるように聴いた高揚した気分のなかで、それはつかのまかもしれないし、根拠だってあるかは怪しいけれど、幸せな全能感と可能性に満ちた未来への期待――といういわば「僕らの夏の夢」から生まれた言葉だと、見る者も素直にうけとめることができ、「楡の木の上、君は笑う」と歌いたくなるような、かなり印象的な情景になったのではなかろうかとおもわれるだけど、残念ながら、実際に視聴者が目にしたものはといえば、極端でめちゃくちゃな自画自賛にしかみえないという、悪い意味での印象的でしかない場面にすらなっていたように思う。
 いや、それは音楽フェスティバルに来ているのに音楽以外のことに夢中だったりする一連のコントが描くためには仕方ないことじゃないか、とおっしゃる向きもあるだろう。紬の焼きそばへの偏愛(この人のわたし富裕層なので庶民のことは知りませんアピールはさすがにもうしつこいと思う)とか、唯が水遊び用にサンダル持ってきているとか、澪がベーシストのベースプレイよりレフティであることに共感しているとかそういうのがメインなのだから、と。
 あるいは原作ではそういうのがメインなのかもしれない。原作ではこの話がどういう扱いになっているのか知らないし、そもそもどれくらいがアニメオリジナルなのかすら知らないのだが、結論から言ってしまうと、そういう方向でやれるような作品ではもうなくなっていると思う。

 たしかにさわ子先生と唯の「あたしロックだから」「なにそれわからない」のやり取りなんかは面白かったから、ああいうのをもれなく削ってしまったらさびしくなると思うけど、それをメインにするなら終盤にああいうエピソードをやるべきではなかった。爆音の演奏のなか音楽以外のことに気をとられる人が「自分たちも同じレベルかそれ以上の演奏ができる」と思ってしまうなら、それは単に人の音を聞かない無礼者か、人の音を聞けない愚か者でしかないだろう。そういう人がなにを語ったところでそこにはどんな種類の説得力も生まれない。あのシーンの不自然さの理由はそこにあるのだ。唯が普段はいい加減でおっちょこちょいであっても、音楽に関しては俄然夢中になる(弾くことだけでなく聴くことも)と描写できていれば、事情は全然違ったはずなのである。
結果、テーマと内容のわりに、「僕らの夏の夢」とはどうにも言いにくい場面になった。

これを、サマーウォーズ現象という。いま、命名しました。

フジロックもといナツロックの描写については、実地には行ったことがなく、テレビのドキュメントといったことのある人の話で聞いただけなので、あの描写がどれぐらい正確なのかはわからないが、すくなくともいろいろと綺麗過ぎるような気はする。もっと足とかドロドロになりそうなイメージであるし、雨が降ると意外なぐらい寒かったりもするようだ。ただ、このあたりは過剰な美化とそしるよりは、たとえばコミケを描写した漫画やアニメが実態よりだいぶ綺麗目になっていることが多いように、フィクションとして描く際のブラッシュアップと見たほうがいいのかもしれないし、そもそもが「大変ことは最大限に避けて通る」アニメの描写なのだから(とはいえ、あの用意周到そうな梓が「会場は広いらしいですね」みたいな半端な知識しかなさそうだったりという、得意技ともいえる詰めの甘さは気にならないでもないのだが……)。

あと、野外ライブはあまり行かないので確かなことはいえないのだがライブハウスの音より野外のほうが音がびっくりするほど大きい、ということはあるのだろうか。あるいは、唯たちが行ったことのあるライブハウスは特別音が大きくなかったということなのか。まあこれもまたいつもの詰めの甘さのなせる業なのかもしれない。

次は憂チームがメインか? 「未来」とか「バンド」とか面倒な要素がないぶん、あちらのほうがシリーズ本来の持ち味を獲得できているような気もしないでもない今日この頃である。

最終話「おしまいは完璧?」まで

うーむ。結局タイトルの意味は本当に序盤のネタだけだったのだな。まあもともと第一巻の内容に特化したタイトルだったのだろうし、それはべつに悪いことでもないが、終わってみるとやっぱり第一巻の内容(であろう)ところまでしか面白くなかった、というのはあまり悪くないとはいいにくいぐらいの出来でしかないのでした。
 いろいろ引っかかることはあるのだけど、何より困ったのは、学園ものプラス魔法ものと見せかけて『都市と星』とか『地球ヘ』とか『マトリックス』とかと同じ「完璧な管理社会と異分子の話」、ようするにSFだったというツイストを利かせる手際の悪さである。まず最初の「見せかけ」の部分の世界設定がうまく説明されずにはなしが進むのが問題で、ここをきっちり説明しておかないと、ひっくり返したときになにがひっくり返ったのかよくわからないわけである。とくにわかりやすく、わかりにくいのは(わかりにくい文章ですみません)、中盤以降の最重要要素であるこの世界における「神」という概念の位置づけというやつで、最初のほうで「私はなんとか神に使える〜」とか言ってはいてもそれが今日的な意味での「教徒」なのか、ギリシャ神話の世界のような教徒なのかが、明確に説明されないままだから、実際に「神の指令で暗殺をおこなう教団関係者」なるものが出てきたときにこれは悪いのは「神」なのか「神の指令を代行していると称する教団」が悪いのかの判断がつかない。これが判断つかないと、その後の主人公の「神に反旗を翻す」の対象が何なのかもわからないわけだ。譬えとしていってるのか、具体的な存在をやっつけるつもりなのか、わからない、ということである。そうしてどうにもはっきりしないまま、『神なんてものはいない、それはただのシステムだ』とか力説されても視聴者は『そうか神はいなかったのか』と驚くよりもまず『そうか、神はいるという世界観だったのか』と驚いてしまうわけである。これでは盛り上がりようがない。同じようなことはタイトルになっている「大魔王」という概念についてもいえる。魔法はみんな使えるのでことさら魔力が強くて性格の悪い人の喩え、なのかと思いきや、どうもそうではなくて、隔世遺伝で出現する文字どおりの魔族の支配者の転生体、とおもったら、ネオとかミュウとかユニークの同類でした、とかどんでん返しが一人くるくる回っているを見せられるようなむなしさがある。

 そのうえ主人公のキャラクターがどうにも微妙で、いきなり不良の足をベキベキ折ったりするだけでなく、「魔王」になってからは、序盤の愚直善人キャラはカモフラージュだったのではと思えるぐらい腹のそこがよくわからないキャラになり、ある意味設定以上にドラマが視聴者を置き去りにした原因はこいつのせいであるともいえるかもしれない。これくらい見ていてその去就がどうでもよくなる主人公ってそうそういない気がする。
ヒロインズはそれなりに描けているし、なかでもゴムゴムの実の力を持っているファンタスティックな生徒会長さんはかっこいいと思うのだが、よくみるとこのひと、ほとんど主人公とは関係のないところで活躍しているのである。エンディングの画像みたいに、主人公に積極的にモーションをかけるようなこともなかったし。
 男性陣で視聴者が一番理解できたのはやんすのブレイブだとは思うが、彼の正体を魔王が知ってるのかどうか、また、やんすのほうでも知られていると思っているのかいないのかがよくわからないとか、肝心要の部分の説明がへたっぴなので、結局魔王を食うほどの存在感はもてていない。

 悪役も残念なのばかりで、大ボスはアスラクラインでも見た気がする、やたらと世界に迷惑をかけるが根底の動機は個人的な恋心、という傍迷惑なかわいそうな人で、本作では終盤ねじりんぼうみたいになって倒れている姿が最後という設定以上に扱いのかわいそうなキャラではあったし、あとはこれまたよくあるやたらとテンションの高い変態(これはシャナとかにも出張しててもおかしくない)とかあからさまに悪いバカですみたいなつまらなさいっぱいの敵しかいないのはさびしいかぎり。バトル漫画の三分の二は悪役の魅力でできている、気がする。

 最後の最後、ループ的にまた序盤のハーレムラブコメに回帰する流れだったのは、まあ良かった。とはいえ続きをつくることになったとしたら、どうせまた新しい敵が出てきてシリアスぶって残念な感じになるのだろうから、すっきり終わっただけでも誉れとして欲しいような気がする。

第十二話「Knockin' on Heaven's Door」

〜天使をめぐる冒険〜

私がはじめて『Angel Beats!』を見たとき、このアニメはKEYのゲームのテンプレートと既視感あふれる情景のなかで酔いつぶれていた。年季の入ったアニメファンもそうでないねんねのファンも、ヒロインを見たらSOS団の団長の親戚と思うことをやめることはできなかった。テレビの番組リストに載っている作品タイトルには新番組マークがつけられていたが、それは誤植であるようにしか見えなかった。有名クリエーターが脚本を手がけ、作品を周知させるために多額の広告料が使われているというだけで、ほかにとくに変ったところはないあたりまえの深夜アニメだった。革新性や独創性がそれほど重視されない世界で、革新性や独創性をまるで重視しなかっただけのことだった。
このアニメはどこかに私の心をとらえるものを持っていた。それがなんであるかはわからなかった。わかっているのはこのアニメがしょっぱなから支離滅裂を極めていたということだった。それでいいのかもしれなかった。

十二回目にこのアニメを見たとき、二千十年は半ばを過ぎようとしていた。既に七月からスタートするアニメの宣伝が各所で始まっていた。前期のアニメを早く片付けないとHDDが混雑すると叫びつづけていた。どうせ混雑するのだ。毎度のことなのだ。

テレビの中では、バンドメンバーがほとんど出番がなかったことを悔いもしないで勝手に成仏していた。ほかのほとんど出番のなかった、SSS団の団員も一緒だった。番組もそろそろ終わるのだ。いちいち成仏イベントをやるひまなどなかった。この時点では正解ということになっていたはずの「満足したら成仏」という法則がろくに守れてないことなど誰も気にすることはなかった。

一方地下へもぐったヒロインは「ギルド」のリーダーと語らっていた。体育館での音無の演説は、ギルドの地下深くまで響いていたらしい。盗聴装置でも仕掛けてでもいなければ無理な話だが、ここでは人間の世界の法則は関係ないのだった。リーダーによれば、ほかのメンバーはみな上層を目指したようだがゆりっぺが独りもすれ違いもしなかったところをみると、すべて成仏したか影にとりこまれたかしたらしかった。誰もそれを気にとめはしなかった。リーダーもなにに満足したのかわからないが成仏していった。もう誰もその成仏の条件がわからなかった。

影に取り込まそうになったゆりは「幸せな人生、青春を謳歌する学園生活」の幻想を見る。しかしそれでは駄目なのだとゆりはいう。ゆり自身が生きてきた時間を改変して生きるのは本当の自分の人生ではない、悲惨で理不尽な運命も受け入れて生きるべきなのだと。ならば神に復讐する必要などないではないかと思ったりもするけれど、それとこれとはきっと別のことなのだろう。ジョン・コルトレーンのレコードと今朝食べたセロリのサラダにあまり関係性が見つけられないのとおなじように。

そしてついに「エンジニア」とヒロインが対峙する。最後のシ者のような声でしゃべる「エンジニア」は中有の世界の秘密を語ってくれる。土くれからパソコンが作れる世界で、一人でパソコン室から大きくて重いパソコンを一台一台ぬすんで基地に運びこみ秘密基地を作った彼によれば、彼もまたプログラムであり、本当のことはわからないのだという。つまり、これもまた仮説に過ぎないのだ。

本来来るべきではないものが記憶をなくすとこの世界にくることができるようになるらしい。「記憶がない」と「満たされない青春を送った」にはそれこそコルトレーンとセロリ並の関係性しかないが、しかしこの世界のシステムはその二つを誤認して同じように受け入れるのだという。そういうバグなのだと彼が言うのだからそういうバグなのだ。
そのバグにより更なるバグがおきるのだという。「愛」が生まれてしまうのだ。来るべきではないものが来ることと、愛が生まれることにはこれまたコルトレーンとセロリの関係性しかないが、彼がそうなるというのだから彼の仮説の上ではそうなのだ。ゆいと日向の関係などはきっと愛ではなく、SSS団もバグとは関係なく発足している以上、愛とは関係ないのだ。
そして愛とは関係のないものであってもバグ除去装置である「影」はSSS団を襲うのだった。

「もう、なにがただしいのかわからない」ゆりは言った。
「ああ、なにがただしいのかわからない」相手は言った。


「神になれる」と彼は誘った。
ゆりは「第二コンピュータ室」を破壊しつくした。

あとには天井に頭から突っ込む時のテーマ曲だけが残った。

ゆりはまた幻を見る。妹たちが口々に「おめでとう」「おめでとう」といってくれるのだ。
さようなら。ありがとう。
そしてまた目を覚ます。

この気持ちをなんと呼ぼう。
この、テレビでエヴァンゲリオンの最終回を見たときに似た、置いてけぼり感を。

〜次回〜
「この支配からの卒業」


とりあえず物語の設定の底らしきものは見えた十二話。が、その底がどうも本当の底でなさそうにみえるあたりがこのアニメのすごいところである。嫌味でなく。カヲル君も認めているように、あの世界がなぜできたか、どういうロジックでつくられているのか、といった点はあくまでキャラクターの推測でしかないのだし、「人間」に対してパソコンで改変を加えられたりすることについてなどは「開発者にしかわからないが開発者はもういないのでわからない」「そういうことを出来るようにした人がいた」という説明以前の説明しかなされていない。
これはもう説明する気も、説明させる気もなく、設定はある種の観念を表現するための舞台設定に過ぎない。カヲル君の言葉を使えば「卒業していくべき場所」に囚われてしまった人々の物語というような寓話と見るべきなのかもしれない。
だがしかし、ことはそんなに簡単ではない。

だって、カヲル君の説も単なる仮説に過ぎないからだ。あらすじのところでも触れたように、天使が言っていた成仏へいたるプロセスもその通りに進行した例はほとんどないことからもわかるようにあの世界が「卒業していくべき場所」であるという保証などないのだ。
すべてが音無たちの勘違いだとしたら? 視聴者の脳裏からそういう疑問を拭い去らないかぎり、この作品は寓話性すら持ちえないのである。
これが、疑い深すぎるという人はむしろ信じ易すぎると思う。これまでどれだけ「実は勘違いでした」があったか、思い返してほしい。

もちろんすべては最終回次第、という言い方もできるが……。


ところであらすじを書くために久しぶりに『羊をめぐる冒険』を本棚から取り出してパラパラ見ていたら、いい台詞を見つけた。


“ボールを持ったからにはゴールまで走るしかないのさ。たとえゴールがなかったとしてもね”


果たしてこのアニメにゴールはあるだろうか。

第十一話「暑い!」

まあタイトルどおりの話なのだが、音楽室って熱や湿度に弱い楽器が保管してあって、防音構造が必要とされることが多い都合上、ほかの教室がそうでなくても空調完備の学校は多いのではないだろうか?
という突っ込みはまあたぶん野暮で、ようするに暑さにうだうだとするけいおんメンバーを描きたかったというだけのことなのだろう(好意的に解釈すれば、軽音部室が音楽室と位置づけられてないのだ、ということになるけど、それなりに歴史がある部活なのに、という疑問は結局残る)。
そして、小学生ぐらいまでしか使わないようなスクール水着をなんでもっているのか、とか、スクール水着って材質的に蒸れて暑い(着用経験者に聞いた話)とか言うのもまあ野暮な突っ込みである(ついでにいうと、お尻のほうまでスカートになってるスクール水着って現存するのか、という突っ込みもたぶん野暮である)。バケツいっぱいの水と氷をばら撒いたら後始末がかなり大変だろう、とかもまあきっと野暮である。

でも、まあ、「暑くて練習ができない」というところから涼しくするためのさまざまな無駄な努力や脱線をコント風に羅列していき、部長会議対策の擬似討論に至って、ふだん練習していないとかという軽音部の本質的な話になる流れはけっこううまい。これがないと本格的に軽音部のはなしである必要がなくなってしまうしね。好みとしてはもうすこし梓には頑張ってほしかったところではあるけれど(あそこでもっと突っ込んだ話にしておいたほうが最後のオチのばかばかしさが映えたはずだし)。

ちなみに人間の脱皮はあれです、日焼けの皮剥け。

ひとつ気になるのは紬の「うちの亀」についての発言。脱皮はたしか若い亀でなくても毎年するはずだが(人の爪が一生伸び続けるようなものと、どこかで読んだ気がする。まちがってたらごめんなさい)、亀は大抵長命なので病気にでもならないかぎり過去形になることはめったにないはずなのである。紬の家ではどういう飼い方をしていたのだろうか……。

次回は夏フェスの話……っていい度胸だな受験生。

第十一話「Change the World」

〜YURI〈霧の学校〉〜

Page.1 次の犠牲者を誰にするか、音無くんは考えます。直井と日向が味方に加わるのですが、直井がことさら悪っぽく言わなくても、相手の同意も得ずに勝手に昇天を促す行為は、犯罪行為であるように思えますが、気にすることはありません。
Page.2 タタリガミっぽい「影」が襲ってきます。影は銃などによる物理攻撃により倒せるのでした。音無くんは慕ってくれる直井君に対してはけっこう冷淡です(影に食われかけて倒れたのに、かけよりもしないのですから)。
Page.3 ゆりっぺさんは天使とは異なる勢力による攻撃とは考えていますが、天使を呼び出して「おまえがかかわってるのではないか」と問い詰めるのでした。
Page.4 ゆりっぺの詰問から天使を守るためには、音無くんたちも天使とゆりっぺの対話の場に同席しなければなりません。直井くんがあからさまにうそくさい言い訳を駆使して、天使がまるで悪に染まっていない事実を隠そうとします(直井君はいつのまにかそのことも知っているようでした)。音無しくんは立ち会ってるだけでゆりっぺさんへの牽制になるのでした。モてる男はオトクです
Page.5 また「影」が襲ってきます。「影」はマトリックスのエージェントのように一般市民をのっとって出現するのでした。
影は倒さないと、影に食われて、地面に飲み込まれてもとの自分ではいられなくなります。魂が食われてしまうのです。めがねを落としてしまうぐらいの大変な事態です。
Page.6 影にとりこまれ、魂を食われてしまうと、NPCとして中有の世界に永遠にとどまることになります。この学校は「喪われた青春体験装置」ではなかったのでした。
Page.7 ゆりっぺさんはSSS団を召集します。はじめてみるまるでモブキャラのようなぞんざいな顔のひとびとが集います。「ギルド」の面々は見当たりませんが、どこかに隠れているのでしょう。松下五段は山でまだ修行中のようです。
ゆりっぺさんの目的は、学校が油断すると魂が取られるサバイバル空間になったことを告知することと音無抹殺チームの存在を皆に告げることです。既に学校が昇天を援助するシステムでないことが露見している状態で、音無は自説を述べます。どういう言葉を使って説明したかは誰も知りませんが、なんとなく視聴者の心に訴えかける感じのきれいめのピアノのフレーズを使った音楽が流れていたので、なんとなくSSS団の心に訴えかけた感じになりました。
Page.8 天使は天使ではない、とゆりっぺはいいます。これは、音無たちのような普通の死者と異なる存在ではない、と言う意味ですが、プログラミングで自分にさまざまな機能を付与できる存在であるという事実はこの断言にまったく邪魔にはならないようでした。実はゆりっぺたちもパソコンで特殊オプションをつけることができるのでしょう。
Page.9 高いところからジャンプするには、天使のように、飛行能力はなくてもそれなりの空気抵抗は生み出せる翼を広げ、いい按配に着地時の衝撃を和らげるか、ゆりっぺのように、一階ぶんぐらい下の屋根に飛び移ってから、そのまま降下して、屋上からじかに降りるよりは衝撃を減らすかすれば問題ないようです。
スカートも、通常の物理法則で考えると、飛び降りているときはもはやスカートというよりは腹巻かなにかのようになっているはずですが、この世界の物理法則ではそのようなことはおきないので、つつしみある淑女でも恥らうことなくジャンプできるのでした。
Page.10 天井にきりもみ回転しながら激突するときの音楽が流れる中、SSS団は現実と向き合い、思い悩みます。抹殺チームに成仏させてもらうか、影と戦いながら中有の世界に居残り佐平次し続けるか、はたまたNPCになって学校の一員になるか。
Page.11 ゆりっぺは、推測の外れすぎな現実と向き合って、一人「事件の黒幕」を探しに出ます。
Page.12 この世界の事象はパソコンでコントロールできるのです。
Page.13 最近、パソコンがよく盗まれるようです、土塊から有機物以外は何でも作れる世界のはずですが、どうやらパソコンもまた作れないようです。そうして盗んだパソコンで「影」を作っている人がいると、パソコン室はギルド跡地につながっているので、三度バイオハザード展開を経たはてに「エンジニア」があうことができる、とゆりっぺは推測するのでした。それがあっている保証は例によってまったくありませんが、いよいよ物語も終わりに近づいてきたのです。

次回。
「しってるか? 天国ではみんなが海の話をしてるんだぜ」


という第十一話。音無しの説得からゆりっぺによる探索開始までのお約束で固めたような感動系の展開が、「またギルド?!」という、オフビート感あふれるノイズともいえる落ちでサゲられる。ここまで来るとこれはどう考えてもわざとだと見るべきで、具体的には、最後の台詞が無いだけでも、緊迫感あるひきになるところなので、盛り上がりどころを的確に破壊することこそが、本シリーズの大きなテーマなのだろう。本作でなにが成し遂げられたか、あるいは成し遂げられるのか、という点に関しては、完結してからでないと確たることは言えないとはいえ、すくなくても麻枝准に、まったく泣けないし、感動もできないうえに、そもそも得体がまるで知れない難解な作品を作る才能があるということだけは、広く知らしめることはできたと思う。

さて、展開的には、シリーズ序盤の感想で「上位構造がわかってから本筋だ」的なことを書いたがそれがようやく形になったようなところで、しかし本作の非凡なところは件の上位構造説がたった一人の探偵(それも間違いやすい)の単なる仮説であって、そのうえそれが次回以降でまたひっくり返される公算があること。まったく持って素晴らしい。これで次回またもや虐殺コメディをやってくれたら本当に天才である。

ところで、今回のサブタイトルの元ネタは、まあたぶんエリッククラプトンもカヴァーしたあの名曲からなのだろうが、個人的に連想したのは、昔レンタルビデオ屋さんに張り出してあった広告のこんなフレーズでありました。

「映画の歴史は変らない。
チキンパークでは変らない。」

これ、『チキンパーク』というジュラシックパーク便乗映画のキャッチコピーで、コピー自体もジュラシックパークの宣伝のパロディなのだが、映画自体がどういうできだったかということはともかく(というか、見てないので語りようがない)、このコピー自体はチキンパークといういかにもどうしようもない響きの名前がもたらす文章の説得力とユーモアが素敵で、当の映画が、言葉通り映画の歴史をまったく変えることなく、むしろその闇のなかへと消え去ってしまったあとでも、忘れがたく光かがやいている。
 エンジェルビーツは世界を変えるだろうか? アニメの歴史を変えるだろうか?
 もちろん、アニメの歴史は変らない。エンジェルビーツでは変らない。

 しかし、あるいはその(ある意味しょうもない)破壊性によって、見るものの心にいつまでも残り続けるかもしれない。