第十二話「Knockin' on Heaven's Door」

〜天使をめぐる冒険〜

私がはじめて『Angel Beats!』を見たとき、このアニメはKEYのゲームのテンプレートと既視感あふれる情景のなかで酔いつぶれていた。年季の入ったアニメファンもそうでないねんねのファンも、ヒロインを見たらSOS団の団長の親戚と思うことをやめることはできなかった。テレビの番組リストに載っている作品タイトルには新番組マークがつけられていたが、それは誤植であるようにしか見えなかった。有名クリエーターが脚本を手がけ、作品を周知させるために多額の広告料が使われているというだけで、ほかにとくに変ったところはないあたりまえの深夜アニメだった。革新性や独創性がそれほど重視されない世界で、革新性や独創性をまるで重視しなかっただけのことだった。
このアニメはどこかに私の心をとらえるものを持っていた。それがなんであるかはわからなかった。わかっているのはこのアニメがしょっぱなから支離滅裂を極めていたということだった。それでいいのかもしれなかった。

十二回目にこのアニメを見たとき、二千十年は半ばを過ぎようとしていた。既に七月からスタートするアニメの宣伝が各所で始まっていた。前期のアニメを早く片付けないとHDDが混雑すると叫びつづけていた。どうせ混雑するのだ。毎度のことなのだ。

テレビの中では、バンドメンバーがほとんど出番がなかったことを悔いもしないで勝手に成仏していた。ほかのほとんど出番のなかった、SSS団の団員も一緒だった。番組もそろそろ終わるのだ。いちいち成仏イベントをやるひまなどなかった。この時点では正解ということになっていたはずの「満足したら成仏」という法則がろくに守れてないことなど誰も気にすることはなかった。

一方地下へもぐったヒロインは「ギルド」のリーダーと語らっていた。体育館での音無の演説は、ギルドの地下深くまで響いていたらしい。盗聴装置でも仕掛けてでもいなければ無理な話だが、ここでは人間の世界の法則は関係ないのだった。リーダーによれば、ほかのメンバーはみな上層を目指したようだがゆりっぺが独りもすれ違いもしなかったところをみると、すべて成仏したか影にとりこまれたかしたらしかった。誰もそれを気にとめはしなかった。リーダーもなにに満足したのかわからないが成仏していった。もう誰もその成仏の条件がわからなかった。

影に取り込まそうになったゆりは「幸せな人生、青春を謳歌する学園生活」の幻想を見る。しかしそれでは駄目なのだとゆりはいう。ゆり自身が生きてきた時間を改変して生きるのは本当の自分の人生ではない、悲惨で理不尽な運命も受け入れて生きるべきなのだと。ならば神に復讐する必要などないではないかと思ったりもするけれど、それとこれとはきっと別のことなのだろう。ジョン・コルトレーンのレコードと今朝食べたセロリのサラダにあまり関係性が見つけられないのとおなじように。

そしてついに「エンジニア」とヒロインが対峙する。最後のシ者のような声でしゃべる「エンジニア」は中有の世界の秘密を語ってくれる。土くれからパソコンが作れる世界で、一人でパソコン室から大きくて重いパソコンを一台一台ぬすんで基地に運びこみ秘密基地を作った彼によれば、彼もまたプログラムであり、本当のことはわからないのだという。つまり、これもまた仮説に過ぎないのだ。

本来来るべきではないものが記憶をなくすとこの世界にくることができるようになるらしい。「記憶がない」と「満たされない青春を送った」にはそれこそコルトレーンとセロリ並の関係性しかないが、しかしこの世界のシステムはその二つを誤認して同じように受け入れるのだという。そういうバグなのだと彼が言うのだからそういうバグなのだ。
そのバグにより更なるバグがおきるのだという。「愛」が生まれてしまうのだ。来るべきではないものが来ることと、愛が生まれることにはこれまたコルトレーンとセロリの関係性しかないが、彼がそうなるというのだから彼の仮説の上ではそうなのだ。ゆいと日向の関係などはきっと愛ではなく、SSS団もバグとは関係なく発足している以上、愛とは関係ないのだ。
そして愛とは関係のないものであってもバグ除去装置である「影」はSSS団を襲うのだった。

「もう、なにがただしいのかわからない」ゆりは言った。
「ああ、なにがただしいのかわからない」相手は言った。


「神になれる」と彼は誘った。
ゆりは「第二コンピュータ室」を破壊しつくした。

あとには天井に頭から突っ込む時のテーマ曲だけが残った。

ゆりはまた幻を見る。妹たちが口々に「おめでとう」「おめでとう」といってくれるのだ。
さようなら。ありがとう。
そしてまた目を覚ます。

この気持ちをなんと呼ぼう。
この、テレビでエヴァンゲリオンの最終回を見たときに似た、置いてけぼり感を。

〜次回〜
「この支配からの卒業」


とりあえず物語の設定の底らしきものは見えた十二話。が、その底がどうも本当の底でなさそうにみえるあたりがこのアニメのすごいところである。嫌味でなく。カヲル君も認めているように、あの世界がなぜできたか、どういうロジックでつくられているのか、といった点はあくまでキャラクターの推測でしかないのだし、「人間」に対してパソコンで改変を加えられたりすることについてなどは「開発者にしかわからないが開発者はもういないのでわからない」「そういうことを出来るようにした人がいた」という説明以前の説明しかなされていない。
これはもう説明する気も、説明させる気もなく、設定はある種の観念を表現するための舞台設定に過ぎない。カヲル君の言葉を使えば「卒業していくべき場所」に囚われてしまった人々の物語というような寓話と見るべきなのかもしれない。
だがしかし、ことはそんなに簡単ではない。

だって、カヲル君の説も単なる仮説に過ぎないからだ。あらすじのところでも触れたように、天使が言っていた成仏へいたるプロセスもその通りに進行した例はほとんどないことからもわかるようにあの世界が「卒業していくべき場所」であるという保証などないのだ。
すべてが音無たちの勘違いだとしたら? 視聴者の脳裏からそういう疑問を拭い去らないかぎり、この作品は寓話性すら持ちえないのである。
これが、疑い深すぎるという人はむしろ信じ易すぎると思う。これまでどれだけ「実は勘違いでした」があったか、思い返してほしい。

もちろんすべては最終回次第、という言い方もできるが……。


ところであらすじを書くために久しぶりに『羊をめぐる冒険』を本棚から取り出してパラパラ見ていたら、いい台詞を見つけた。


“ボールを持ったからにはゴールまで走るしかないのさ。たとえゴールがなかったとしてもね”


果たしてこのアニメにゴールはあるだろうか。