第十話「先生!」

さわ子先生のバンドの音楽が、あんなレトロでききやすいメタルではなく、スレイヤーとかG.I.S.M.とかアンセインとかクリプトシーだとか、慣れない聞き手が確実にひくような激音だったらよかったのに、とちょっと思ったりもした第十話。魂のぶつかりあいだとのなんだのというのだから、それぐらいの激しさを見せてくれても、というわけだが、まあ、ギターのテクを競い合ってたとかいう元バンドメイトはギターをちょっと爪弾くとメタル系でもなんでもないブルースっぽいフレーズを聴かせるけど、そしてそれが実際の演奏シーンへの伏線にも何にもなっていないという、いかにも「けいおん!!」らしい粗雑さなので、そこで音楽にだけ説得力を求めてもしようがない話ではあるのだった。

実のところ、さわ子先生ってあんまり好きではない(というかどうでもいい)キャラなせいで、事前の期待値は前回、前々回に引き続きかなり低かったのだが、先生を肴にけいおんメンバーが右往左往するという古典的なドタバタものであったので、そこはまあよかった。さわ子先生奮闘記みたいなのをだらだらやられたらどうしようかと思っていたのである。
で、そのドタバタに交えて「成長すること」という、どうやらこのシリーズのメインテーマらしい話題をつついていくのがミソといえばミソなのだが、大人が大人に思えるのは中学生ぐらいまでじゃないかなーとか未来を見据えるなら受験生である現在が気になってきて困るんじゃないかなーとか、いろいろと今まで積み上げてきたものが完全に障害になっていたのでありました。

障害といえば、いちOGの結婚式になんで学校の新聞部が何人も出席してるのかとか、がんもどきがなんだかわからない紬はいくらなんでもやりすぎだろうとか、さわ子が三十代後半以上というのでもないかぎり、彼女が高校でバンドやっていた時期は今から十年ぐらい前ということになって、そのころは、聖飢魔IIが地球征服を完了し、ロックシーン的にはグランジどころかニューメタルとかモダンへヴィネスとか言われたスタイルの音楽も退潮になってきたあたりだから、メイクをするならスキンヘッドでボディーペインティングするぐらいでなければならなく、つまりデスデヴィルのファッションも音楽性もギャグレベルの時代錯誤でしかない(もちろん、「メタラーだった過去がある」という設定がでてきた段階ではギャグだったのだろうが、こういう話だとどうにも収まりがわるい)とか、はたまた、メタルのライブ演奏に対する観客の反応として、なぜヘッドバンキングがないのか、とか、細かいところからわりとメインに関わるところまで変な描写が間断なくでてくるのは、あえて見るものの気を散らせようとしてるのかと邪推すらしたくなる。

たしかにあまり見る側がまじめに成長というテーマを気にしだしたら、受験だけでなくバンドの今後(べつに部活動に依存しなくてもいいのだから、外でもっとライブをやればいいのである)とかから目を背け続けるキャラたちにあまりに無理がありすぎるわけで、そのあたりをごまかしておきたいのであろう作り手のジレンマもうかがえないこともないのだが……。

第十話「Goodbye Days」

〜やんよの皿〜

(お囃子が聞こえてくる)
“謎をどんどん、どんどん出し続け 嘘をつぎつぎ、つぎつぎ積み重ね
 Angel Beats!はどこへ行く 視聴者(ぼくら)を乗せてどこへ行く〜 う〜う〜”


エェ……。この世にはジンクスなどというものがありまして、これはようするに、科学的にどうこうなる法則というよりは、なんとなくそうなること――まァ、それも大抵悪いことでございますが――多かったりするようなことについて、「ああそれはジンクスだな」というわけであります。雨男だの晴男だのというのは大抵がこのたぐいですし、より本格的なものではたとえばクラシックの世界では「第九の呪い」なんてものがございまして、これは大掛かりな交響曲を作る音楽家はどういうわけか「第九番交響曲」を作り終えるか、その途中か、はたまた「第十番」をつくり始めると死んでしまうという、ジンクスなんでございます。有名なところではベートーベンは第十番を完成させることができずにこの世を去り、ブルックナーは九番の第三楽章を完成させたところであの世の人になってしまったというわけでして、マーラーなんぞは第九の呪いを避けようと第九番を完成させたあとの交響曲には第十番と名づけずに完成させて、さあもうこれで安心と第十番をつくりはじめたところでポックリ逝っちゃった(笑) いやこれは笑いごとでありませんな。
ジャズの世界でも似たような話がありまして、これは「チックコリアのワンホーンカルテットのサックス担当は長生きできない」というんですが、まあこれはあまり有名ではない。いま思いついたようなものですから当然ともいえますな。
しかし、これはなかなかなよくできておりまして、実際、一番有名なスタンゲッツは六十代で亡くなってますし、ジョー・ヘンダーソンも同じくらいで物故してる。そのうえ、コリアがエディ・ゴメス、スティーブ・ガッドというに馴染みの面子で作ったリズムセクションにかかわった三人のサックス奏者、ジョー・ファレルマイケル・ブレッカー、ボブ・バーグの三人は皆五十代で急逝しているでありますから、ジンクスと呼びたくなる人がいたっておかしくない。もっとも、実在の、それもごく最近の出来事ですから不謹慎極まりないし、変にこの「ジンクス」が話題になって件のリズムセクションへの参加者がいなくなっても困りますから、定着されてもこまりますけども。

さて今回のエンジェルビーツは、そんないささか不謹慎なジンクスについてのお話で――

音無「ヤるやつはきまった。もんだいはヤりかただ」
天使「ナンだい。藪から棒に」
音無「ナニって、アレさ。ガールズデッドモンスターってあるだろ?」
天使「少女達死体怪物?」
音無「筋肉少女帯絶望少女達を混ぜてさかさまにしたような訳しかたをしないでいいから。あれだよ、陽動のバンドがそういう名前だったんだよ」
天使「始めて聞いた。いつも普通にSSS団と戦ってたから、彼女らが陽動になっていたことも、今知ったわ」
音無「まあそれはいいとして……。ともかくそのバンドのヴォーカルをやっている子がいるんだけど、彼女ならもうヤれるかな、ってね。バンドにSSS団にどつき漫才にと、学園生活にはまったく馴染んでないけど、青春は謳歌しているみたいだから、もうヤって、成仏させるに機は熟していると思うんだ」
天使「あなたが彼女をヤるの? 卑猥だわ」
音無「カナデ、これがエロゲーなら確かにその解釈で間違いない……がしかしこれは清廉潔白なTBSの深夜アニメなんだ。ミニスカートで何度もブリッジしてもパンツがまったく見えないんだぞ。それでヤるのは無理だろう?」
天使「そうね。それで?」
音無「以前ガルデモのヴォーカルだった岩沢というのが昇天しただろう? 俺がこの世界に来てから消えたのは彼女だけなんだ。最初にヤるのは確実性が高いほうがいい」
天使「ユイはヤりやすそうだ、と」
音無「……。誤解を招きかねないいいかただけどそういうこと。それに上手くすれば、ガルデモのジンクス、というのもつくれるかもしれない」
天使「?」(小首をかしげる
音無「ガルデモのヴォーカルを担当することは成仏への最短距離である、と。実際思いっきり歌えば、ストレス発散してすっきりするから、満足しやすいのかもしれないしね」
天使「獲物を効率よく捌くために、常に席を開けておきたいのね。うまいわ……」

……などと、まるで拝み屋か御祓い屋のような作戦会議をして、いよいよユイの元へとやってきます。

音無「おお、ユイ」
ユイ「なんです先輩」
音無「時におまえ、ナニが怖い?」
ユイ「そうですねェ……ああ、バンドが怖い、プロレスが怖い、サッカーが怖い、野球が怖い、ここらで一発ホームランが怖い……」

かくして、ユイを「満足」させるための四苦八苦といいますか七転八倒といいますか、茶番劇が始まるのでございます。どんな内容かは本編を見なくても、過去のKeyのゲームのじゃれあいイベントと同じものを連想すれば間違いはござんせん。ミニゲームになっていたりするかもしれませんケド。

ああそうそうおまけにもれなく回想ムービー『病院より難病とともに』がついてきますのをいい忘れておりました。内容はまァ、皆さん御存知の、というヤツでして……ハイ。首から下がまったく動かないのか、車椅子に座れるぐらいにはどうにかなるのか、ぐらいははっきりしろという気もいたしますけども、前回の音無くんの回想と同じく、所詮は死んだ人の回想でございますので都合のよい改変も多数なされているのでありましょう。

そんなこんなでユイの願いのイベントはすべてこなし(八百長がアリなら、直井君を呼んで「催眠術」を使えば一発だったんじゃないかとおっしゃるむきもいらっしゃるでしょうが、ここは自分でがんばらないと主人公らしくないのであります)、気がつくとバンドも天使もどうでもよくなっているのでありますが、これはゲームで特定キャラのルートに入ると、ほかのキャラや設定が存在しないがごとき展開を見せることがよくございますが、ああいったものを再現しようとしたのでありましょう。
さて、クライマックスはお約束とも言える展開でございます。

一番怖いもの、それは「愛」。

しかしここからが面白い。記憶がないというアドヴァンテージを失ったため、ジゴロライフに主人公としての活路を見出そうとしている音無くんですが、意外にもここでユイの願いに答えてやることができません。体操着の下がブルマでなく短パンなのがいけなかったのでしょうか。あるいはここで性的に相手を満足させてしまうと、自分も一緒に満足して昇天してしまう可能性があるのでためらったのでしょうか。真実はまだ風に吹かれておりますな。
かわりに、というか、いままで隠れてみてタイミングを計っていた日向が放送時間が許すかぎり「結婚してやんよ」と繰り返し、見事、ユイにゃんは成仏したのでございますにゃん。どうやらこの世界では、日常的に友達らしいじゃれあいを繰り返している相手イコール結婚してもよい相手、という方程式が成立しているようでございますな。生者の世界にこの方程式が存在していたら、高校を卒業するころには既婚者だらけになっていることでありましょう。
ま、ともかくユイは無事に成仏していったのでございます。では日向というと、じつはなんでユイが消えたかわかっていないんですね、これが。
だって、ふたりが生まれ変わって六十億分の一の確率で――これも一体どういう根拠で導き出されたのかわかりませんが――再会したらユイがまた交通事故にあって半身不随になっていて、それを介護しながら結婚してやんよ、なんてまさかそんな悪趣味な想定をするような人じゃありませんから、いろいろいっていても結局は中有の世界で結婚したかったはずなのですが、ユイさん、あっさり消えてしまった。これは困った。

日向「おいおいこれはどういうことなんだ。音無? 半鐘でも鳴らせばいいのか?」
音無「それは一体どういう意味だ」
日向「これですっかり、おジャンになった」
音無「ほかの落語のサゲを使うな。っていうかどうもこうもないだろう。ユイは満足したから成仏していったんだよ。野球もやった。サッカーもやった。プロレスもやった」
日向「結婚はやってない」
音無「いや、俺は静止画像をたくさん見たぞ。あれでもやったのと同じことだ」
日向「ム。しかし」
音無「しかし?」
日向「しかし、バンドはやってない。バンドで成功していないじゃないか!」
音無「確かにそうだ。だけど、バンドで大成功したのと同じ気分を彼女は味わった。だからバンドをやったも同じことなんじゃないかな?」
日向「同じ気分?」
音無「そうさ。日向、おまえさん、一体なン回『やんよ』といったかね」
日向「フム、たしかにたくさん『やんよ』と言ったな」
音無「そう、おまえが、あんまりたくさん『やんよ』といったものだから、彼女、錯覚してしまったのさ、ああ、これはバンドで大成功したときに客席から聞こえてくるものだ。
これぞまさに、やんよやんよの大喝采

……おあとがよろしいようで。

(再びお囃子)
“楽しいことも あるだろさ 異常(おか)しいことも あるだろさ
だけど、視聴者(ぼくら)はくじけない……”


次回、ガールズデッドモンスターにたくさんのヴォーカルが加入! そして再びジンクスが……


という、第十話。
かんがえてみると、ゆりっぺの「学校に従うと消される」も、直井の「ここは神様育成所で勝ち残ったものが神様になれる」も、天使の「学校は青春失敗組の救済施設で消えることは救われること」も、大抵の「ジンクス」と同レベルの、あいまいで乏しいサンプルから導かれた性急な結論付けに過ぎないのであった。既にどの説でも説明できない状況や展開が目白押しだし、次回予告手前の謎の「影」の存在がさらにその「仮説の不確かさ」を強調する。失踪した少女が生きているのか死んでるのかがぎりぎりまでわからないコリンデクスターの代表作を思わせるような、念のいった霍乱と翻弄のてつきは、非常に素晴らしいのだが、かといって、面白さに通じてるかというとこれがちょっと難しいところでもあり、というのも、すでになんども書いたように、これだけなんどもオフビート化していると、さすがに、見るほうだって、眼前でどういう事態が展開していようと「これは最後の最後ではずす可能性があるぞ」と眉唾モードで見るのか必死であり、当然、どんな感動的な展開や台詞があろうとも、素直に浸れる奇特な人など、いるはずもない。それこそメメントの主人公のごとく、過去のエピソードをまる忘れするとかでもしないかぎり。

そうした結果、どういう視聴体験になるかというと、これが限りなく宙ぶらりんな、変に客観的で、それこそ中有な感性による、断片を断片のまま、散漫に鑑賞する体験である。この見方と、展開が強引だったり、かみ合わなかったりすることが多発する会話や、学校の外には何もないのに山篭り(川のみならず山もあるらしい)とかのシュールともいえないような支離滅裂な細部や、思いつくままに並べたようなテンポも質も悪いギャグは、非常によく似合う。連続性を意識しなければ、不連続性が気にならないからだ。そんななかで作画の安定性だけは連続しているので、すくなくても目には心地よい。真夜中のアニメとして、これはとても重要な要素である。夢みたいなものだ。あるいは、悪夢かもしれないが、怖くもなければ、不気味でもないので、安心してみていられる。

おまけにほら、子守唄すら聞こえてくるのだ。

ところで、この学校にミックジャガーがやってきたらどうなるんだろうね。彼は永遠に満足できないから、永遠に成仏(そういえば、なぜに昇天でないのだろう、「天使」がいるのに)できないのかな。

第九話まで

いよいよ、平助たちと袂を分かつところ。
その直接の動機である御陵衛士設立の首謀者である伊東がいかにも雑魚っぽいオカマキャラ(オカマだから雑魚といってるわけではない。かっこいいオカマキャラはたくさんいる。ボンちゃんとか)なのはどうかと思うが、まあこのアニメ的には雑魚キャラっぽいので、仕方ないのだろう。

とまれ、ワンクールでこのまま一気に五稜郭まで行きそうな高速進行で、せっかくキャラが立ってきたのにもったいないという気もするし、男の中に女一匹というおいしいシチュエーションをいまいち活かせてないのも、宝の持ち腐れ感がある。新選組隊士総出演の乳首健康診断ぐらいでは、サービスとはいえないのではなかろうか。だいたい男の健康診断をするなら、千鶴の検診もすべきである。現在と違い、当時はまだ乳房の露出に羞恥心をかんじる女性はいなかったようだから、なんなら男と混じって検診してもよかったのである。ああもったいない。

まあそれともかく、もったいないといえば千鶴の秘密の露見の仕方のあっさり加減ももったいない。この辺がちっともドラマチックにならないのは、進行の速さだけに問題があるのではなく、要所要所でもっときっちり入れておくべき、千鶴と隊士たちとの交流イベントをおざなりにしてきたせいだろう。九話の見せ場である斉藤や平助との離別の場面の弱さも同じ原因によるもので、ふたりともこれで最後の出番ではないにせよ(平助はもしかすると次回が最後? 闇の眷属化しなければ、だが)、ここは桜舞い散るなかで、目の前の離別とともに、来るべき崩壊劇を予感させる、美と儚さと哀愁がない混ぜになった印象的な場面になったのではないかと思わせるのだが、もうひとつのりきれない。ああもったいない。

さて、次回はより本格的に悲劇が前面に出るはずだが、果たして?

第九話

 海で、水着で、遭難で、小屋で二人きり……。『Angel Beats!』でもそうだったけど、短いスパンで既視感をおぼえさせる展開をもってくるのが流行ってるのだろうか? あちらはともかく、こちらはストーリーの整合性とかはどうでもいい(あちらもじつは整合性なんてどうでもいいという説もあるがそれは置く)のだから、いくらでもかぶらないイベントを持ってこられるはずなのに。
 というか、整合性がどうでもいいからこそ、かぶろうがかぶるまいがどうでもいい、ということなのかもしれない。
 シナリオの狙いとしては今回はネタよりも正調ラブコメでいこうとした感じで、文乃が主人公と遭難してふたりきりになったときの、男の絶対襲わない宣言にキレる展開なんかは、今まできちんとキャラクターの関係性を積み重ねてきた作品だったら、複雑な女心をうまく描いた場面……なんて、もしかしたら言われたかもしれないけれど、残念ながらそういう心理描写の蓄積のある作品ではないので、ひたすら「面倒な女」になってしまってるのが、いろいろな意味で気の毒である。
 今回の話でよくわかるのは、このシリーズにシリアスはつくづく似合わない、ということ。序盤の孤児がどうのというのが寒々しかったのは、各話ごとに監督が変るがゆえの腰の落ち着かなさなんていう表面的な問題ではなかったのだろう。設定もキャラクターも、いってみれば素面じゃやってられないものなのだ。

だからほら、いつもラリっているようなレールガンメイドコンビの次回予告は、毎回毎回光り輝いているわけである。

第九話「期末試験!」

前回から続く、茨の道シリーズ、または前々回から続く、劇中コントが寒すぎてサスペンスになってるシリーズ。

あるいは、塀の中の住人か、エルム街の夢魔の眷属か、呪われた村(ジェレサレムズロットではないほう)生まれとしか思えない、縞々衣装とあやしい色彩の眼をした、不気味な子供たちが退去して押し寄せてくる、京都アニメーションの自社CMが怖すぎて、本編の印象が薄れてしまうシリーズ、かもしれない。CMのインパクトが強すぎるシリーズという意味では前回から続いているともいえる。

さて、タイトルの試験のほうは、序盤こそまじめに向き合っているが、後半は唯と同じくどんどんどうでもよくなり、良くも悪くもこのアニメらしいベタなオチを迎える。前回の話がなければ、このベタっぷりはもっと映えたと思うのだが、半端に「現実」を志向してしまったあとで、このオチはいまいち空気が読めてない感じ。作品の傾向的にはこちらのほうが本領なのだから、やっぱり問題は前回にあるというべきか。
後半のテーマ、というか今回自体のメインテーマは、隣のおばあちゃんとの交流で、それ自体はほのぼのしていていいのだが、そのぶん「いったい平沢家の親どもはなにをしているのだろう」と言う疑問が募ってもくる。
ストーリーのクライマックスはそのおばあちゃんのために出る演芸大会で、高校で一番テクニックがありそうな梓と、天才肌の唯がいるのに、なぜに参加賞で終わりなのかという気もしないでもないけど、これはきっともともと「おばあちゃんにギターを弾いている唯を見せる」という狙いだったのに、唯が歌ばかりうたってギターをろくに弾かなかったのがまずかったに違いない。唯がギターを弾いたバージョンはいずれ出るであろうCD版で、ということなのかもしれないが。
それにしても、この人たちは部活以外だとよく演奏するんですね

バーゲンという言葉を生まれ始めて聞くような紬とかそういうのは、紬が金持ちアピールをしたいがために毎回毎回はじめて聞くようなポーズをしている、なんていうひねった話でないかぎり、、一期でやっておくような話だった気もする。この辺は以前も書いたとおり、一年、二年の話をすっ飛ばしすぎた弊害なんだろうし、このスタッフに、ひだまりスケッチみたいに無理なく時系列を入れ替えるような芸当は無理っぽいから、仕方ないのかもしれない。
あと、私服のセンスがますます八十年代になっている気が……。

次回は、さわ子先生。うーむ。できるだけ軽音部本体に触れない方向でいくつもりなのかしら。

第九話「In Your Memory」

〜今回のあらすじ〜
タチバナカナデ第百の首〉
長い時にわたって、カナデは早くから寝たものだ。前回、「自分のなかにたくさんの冷酷な自分がいるのでこれから眠ってそいつらをしばいてきます」と言いのこすひまもないこともあった。それでも一週間ほどすると、自分の中のたくさんの冷酷な自分を全部倒すことができたのはまさに奇跡だという考えに目が覚めるのであった。実際、自分ではSSS団対策用の分身は数十対ぐらいしか作った記憶はない(冷酷な自分の記憶によれば、だ)のに、いつのまにか百体もつくったことになっていて、つまり自分が冷酷でない自分として復活するには、一対百の戦いというレオニダス王のスパルタ軍が対峙したのと同じぐらいの難局を乗り越えなければならないということとなってしまっていたので、これを乗り越えられるならば確かに奇跡なのであると思えたのだった。「冷酷さ」以外は単なるコピーであるのだから、力は同等なのであることを考えるなら、奇跡というよりはもはやご都合主義の大盤ぶるまいであるようにも見えるのだが、現実と異なりフォーマの世界においては、一パーセントの可能性しかない希望はたいてい百パーセント適うと決まっているのだから、ことさら目くじらを立ててもしかないことだった。
カナデのいる世界は閉ざされていた。SSS団と自称する組織による、ミッションと銘打たれた大して意味のないテロ行為の数々も、敵も味方も死ぬことがないからだであるうえに、本質的に奪うものも奪われるものも存在しない状態である以上、単なる退屈しのぎのイベントでしかなかった。学校とその敷地が存続しているかぎり、麻婆豆腐は際限なく食べることができるのであるし、いくら死んでも死なない体は、いくら食べても太らないからだと同義でもあったので、考えようによっては天国よりも天国なのであったが、しかしそれ以上の何もないともいえた。音無と名乗る絶望先生が現れるまでは。絶望先生はそのモデルになった文豪とおなじく、人心をひきつけるのが上手いのだった。とくに、異性の心をひきつけるのが上手いのだった。その証拠に、カナデが目を覚ます瞬間を逃すまいとずっと枕元に座っていたのだった。


〈「ある記憶」ユズル・N・オトナシ談〉
竜頭がひねられたわけでもないし、客の中にブラックジャック先生もいたわけでもなかったけれど、ともかく事故は突然起こり、ユズルの乗っていた車両は両端を閉ざされたくらいトンネルの只中に取り残された。
ユズルは医大受験生である。高校を出てフリーターを経験した後、病気で今にも死にそうな妹を寒空の中連れまわし、衰弱させてそのまま殺してしまった後悔からなろうなろう医者になろうと、決意したのだ。本人は学生であると言ってるが、これはもちろん大学生という意味ではなく、妹を殺したあとにまた学校に入りなおしたのか、予備校生であることを学生といったのかはわからない。死人の記憶力なんてそんなものである。
さて、ユズルは事故一日目の段階ではげしく陥没し変色するほどの大きな打撲傷を腹部に受けていたのだが、以後吐血するでもなく苦痛にのたうつでもなく、外部からまったく気づかれないぐらいの健康さを保って、生存者たちのさらなる生存を導くリーダーとして尽力することになるのだが、これは、ご都合主義でもなんでもなく、ユズルが肉体をあらかじめヒドラ化していたと考えれば(痛覚も抑えられているところを見ると皇兄の配下よりも技術の進んだ組織がバックにいるのだろう)おそらく問題はないし、仮にそうでないとしても、「DAY2」以降の展開がすべてユズルの記憶混濁の産物だと考えれば、やはり問題はないだろう。後者の場合、逃げ場がどこにもないのに水を持って逃げる男、だとか、居合わせた皆がその場ですぐにドナーカードを出せる状態にあったり、あまつさえ、その時その瞬間に書き込めるように、ドナー承認の項に誰も一切記入をしてなかったりするような、シュールで不自然な展開もまた、朦朧とした意識の中で、都合よく再編された記憶であると考えれば、上手いこと合理化できるので、あるいはそういう見たほうが自然であるかもしれない。まあ所詮死人の記憶である。そうして、七日目の夜、ユズルは自分が死んだ夢を見て、長き夢見の日々は終わった。救助の声が聞こえてくる、このうえなくこのうえないワンアンドオンリーなタイミングでユズルは中有の世界へ旅立つことになる。そういうものだ。
そう、これまでの物語において語られた現世に未練ある死者たちの回想とは大きく異なる「満足」と言う気持ちを抱いたまま。


〈I・Y・M〉
Q「おまえの目的は、現世に未練ある死者たちを成仏させることだったのか」
A「そう」
Q「何でそれをちゃんと対話で明らかにしなかったのか」
A「不器用ですから」
Q「まともな学生生活を送ることで成仏できるのか」
A「まともな青春を送ってない人たちなら」
Q「根拠はあるのか」
A「見ていればわかる。乾し芋がおいしいぐらい自明」
Q「……」
A「SSS団成仏の手伝いをしてほしい」
Q「わかった。でも、すべてを成仏させたあと、おれたちはどうなる?」

答えは風に吹かれている。

〜次回〜
「またけいおん!! たぶん!!」


さて、いうまでもなく、今回の天使の成仏理論が正しいという保証はどこにもなく、むしろ間違っている可能性のほうが高いような気すらするのである。
というのも、岩沢の例を挙げるまでもなく、SSS団の面子の「満足できる青春」とは普通の学校生活を送ることにはないからだ。というか、SSS団でわいわいやってる現状こそがまさに彼らの望んだ青春そのものであるように見え、その状態で消えていないということの意味するところは天使の推論の誤りであり、ようするに今回の展開もまた、このシリーズにおいて再三(というかまさに三度目だ)繰り返されてきた「世界のルールを特定することの無意味さ」を確認するイベントに他ならない、という暗示なのではなかろうか。音無の存在もそうだ。そもそも未練を持ってこの世界に来たわけでもない音無が、ことさら成仏できない理由がSSS団への愛着であるなら、そもそもこの世界に来たこと自体が音無にとっては最大のトラップだったということになる。SSS団にしてみても、SSS団でいることが彼らにとって不本意に終わった青春時代の補填であるとするなら、「成仏」はむしろ未練の源になってしまうだろう。これでは、未練者の救済と昇天を補助するシステムがむしろ未練を発生させ、昇天拒否者を作りだしている格好だから、なんともひどいマッチポンプで、システム設計者はものすごいバカか、神どころか悪魔のような嫌がらせの精神の持ち主だという話になる。
これがもし、一神教に代表される、世界システムの統括者の存在を想定する世界観への皮肉だとするならば、なかなかどうして手の込んだ仕掛けではあるといえるのだけれども、この混乱に作中人物が誰も気づいていないために、混乱してるのは作中の「神」ではなくて、「作品の神」である作者そのものなのではないかという疑惑がどうにもぬぐえないのが、この仮説の最大の欠点であるといえる。物語内のルールとおなじく、物語のルールそのものも相変わらず、霧の中である。うーむ。

 “それまで彼はこんなに深い霧を経験したことはなかった。……”

第八話「迷い猫、抜いた」

『咲―saki―』の小野学が監督なので卓上ゲームネタ、なのか、卓上ゲームネタをやろうと思ったから小野学を起用したのかはわからないが、ともあれ麻雀アニメ風演出によるジェンガアニメ。
 これは意外に面白かった。前回なんかと違ってちゃんとキャラクターに、ゲームへ参加する動機があり、その動機にしたがってゲームが推移し、結末を迎える。
 ようするに、ごくごく平凡なプロットであったわけだが、このシリーズにおいて平凡は、砂漠にオアシスである。
ゲームシーンの面白さという意味でも、それこそ『咲』よりまともだったのではなかろうか。ジェンガが、麻雀よりもよっぽど視覚的にもルール的にもわかりやすいし、個人の超能力というレベルを超えているとしか思えない世界改変能力(単に確率を操作するとかではなく、確率上起きないこと――つまり絶対起きないってことだ――が起きるとか、「すでに」配置されている牌が最新のゲーム展開にあわせて、最初からそうであったように再配列されるとかは因果律レベルの侵犯が起きているとしかおもえない)が乱舞していた麻雀アニメより、お金持ちの超科学によるインチキであるというほうがだいぶ説得力があるし、そのインチキがゲーム進行上の重要なギミックになっていくあたりもまったく持って普通の面白さである。くどいようだが、普通はこのアニメでは(以下略)。

しかし、なんかあれですね、キャラものの連載漫画でネタが尽きると既存のジャンルイベントを総攫えしていくことがよくあるけれど、このシリーズは別ネタが尽きたわけでも原作のストックがないわけでもないのに、積極的に末期症状をおもわせる展開に突撃しているのは、非常にアヴァンギャルドな試みといえる。
まあ、たんに、原作をアレンジしたり、まともにキャラクターや舞台設定を運用して堅実なドラマを作るのが面倒だから、ということだったするのかもしれないが……。