第九話「In Your Memory」

〜今回のあらすじ〜
タチバナカナデ第百の首〉
長い時にわたって、カナデは早くから寝たものだ。前回、「自分のなかにたくさんの冷酷な自分がいるのでこれから眠ってそいつらをしばいてきます」と言いのこすひまもないこともあった。それでも一週間ほどすると、自分の中のたくさんの冷酷な自分を全部倒すことができたのはまさに奇跡だという考えに目が覚めるのであった。実際、自分ではSSS団対策用の分身は数十対ぐらいしか作った記憶はない(冷酷な自分の記憶によれば、だ)のに、いつのまにか百体もつくったことになっていて、つまり自分が冷酷でない自分として復活するには、一対百の戦いというレオニダス王のスパルタ軍が対峙したのと同じぐらいの難局を乗り越えなければならないということとなってしまっていたので、これを乗り越えられるならば確かに奇跡なのであると思えたのだった。「冷酷さ」以外は単なるコピーであるのだから、力は同等なのであることを考えるなら、奇跡というよりはもはやご都合主義の大盤ぶるまいであるようにも見えるのだが、現実と異なりフォーマの世界においては、一パーセントの可能性しかない希望はたいてい百パーセント適うと決まっているのだから、ことさら目くじらを立ててもしかないことだった。
カナデのいる世界は閉ざされていた。SSS団と自称する組織による、ミッションと銘打たれた大して意味のないテロ行為の数々も、敵も味方も死ぬことがないからだであるうえに、本質的に奪うものも奪われるものも存在しない状態である以上、単なる退屈しのぎのイベントでしかなかった。学校とその敷地が存続しているかぎり、麻婆豆腐は際限なく食べることができるのであるし、いくら死んでも死なない体は、いくら食べても太らないからだと同義でもあったので、考えようによっては天国よりも天国なのであったが、しかしそれ以上の何もないともいえた。音無と名乗る絶望先生が現れるまでは。絶望先生はそのモデルになった文豪とおなじく、人心をひきつけるのが上手いのだった。とくに、異性の心をひきつけるのが上手いのだった。その証拠に、カナデが目を覚ます瞬間を逃すまいとずっと枕元に座っていたのだった。


〈「ある記憶」ユズル・N・オトナシ談〉
竜頭がひねられたわけでもないし、客の中にブラックジャック先生もいたわけでもなかったけれど、ともかく事故は突然起こり、ユズルの乗っていた車両は両端を閉ざされたくらいトンネルの只中に取り残された。
ユズルは医大受験生である。高校を出てフリーターを経験した後、病気で今にも死にそうな妹を寒空の中連れまわし、衰弱させてそのまま殺してしまった後悔からなろうなろう医者になろうと、決意したのだ。本人は学生であると言ってるが、これはもちろん大学生という意味ではなく、妹を殺したあとにまた学校に入りなおしたのか、予備校生であることを学生といったのかはわからない。死人の記憶力なんてそんなものである。
さて、ユズルは事故一日目の段階ではげしく陥没し変色するほどの大きな打撲傷を腹部に受けていたのだが、以後吐血するでもなく苦痛にのたうつでもなく、外部からまったく気づかれないぐらいの健康さを保って、生存者たちのさらなる生存を導くリーダーとして尽力することになるのだが、これは、ご都合主義でもなんでもなく、ユズルが肉体をあらかじめヒドラ化していたと考えれば(痛覚も抑えられているところを見ると皇兄の配下よりも技術の進んだ組織がバックにいるのだろう)おそらく問題はないし、仮にそうでないとしても、「DAY2」以降の展開がすべてユズルの記憶混濁の産物だと考えれば、やはり問題はないだろう。後者の場合、逃げ場がどこにもないのに水を持って逃げる男、だとか、居合わせた皆がその場ですぐにドナーカードを出せる状態にあったり、あまつさえ、その時その瞬間に書き込めるように、ドナー承認の項に誰も一切記入をしてなかったりするような、シュールで不自然な展開もまた、朦朧とした意識の中で、都合よく再編された記憶であると考えれば、上手いこと合理化できるので、あるいはそういう見たほうが自然であるかもしれない。まあ所詮死人の記憶である。そうして、七日目の夜、ユズルは自分が死んだ夢を見て、長き夢見の日々は終わった。救助の声が聞こえてくる、このうえなくこのうえないワンアンドオンリーなタイミングでユズルは中有の世界へ旅立つことになる。そういうものだ。
そう、これまでの物語において語られた現世に未練ある死者たちの回想とは大きく異なる「満足」と言う気持ちを抱いたまま。


〈I・Y・M〉
Q「おまえの目的は、現世に未練ある死者たちを成仏させることだったのか」
A「そう」
Q「何でそれをちゃんと対話で明らかにしなかったのか」
A「不器用ですから」
Q「まともな学生生活を送ることで成仏できるのか」
A「まともな青春を送ってない人たちなら」
Q「根拠はあるのか」
A「見ていればわかる。乾し芋がおいしいぐらい自明」
Q「……」
A「SSS団成仏の手伝いをしてほしい」
Q「わかった。でも、すべてを成仏させたあと、おれたちはどうなる?」

答えは風に吹かれている。

〜次回〜
「またけいおん!! たぶん!!」


さて、いうまでもなく、今回の天使の成仏理論が正しいという保証はどこにもなく、むしろ間違っている可能性のほうが高いような気すらするのである。
というのも、岩沢の例を挙げるまでもなく、SSS団の面子の「満足できる青春」とは普通の学校生活を送ることにはないからだ。というか、SSS団でわいわいやってる現状こそがまさに彼らの望んだ青春そのものであるように見え、その状態で消えていないということの意味するところは天使の推論の誤りであり、ようするに今回の展開もまた、このシリーズにおいて再三(というかまさに三度目だ)繰り返されてきた「世界のルールを特定することの無意味さ」を確認するイベントに他ならない、という暗示なのではなかろうか。音無の存在もそうだ。そもそも未練を持ってこの世界に来たわけでもない音無が、ことさら成仏できない理由がSSS団への愛着であるなら、そもそもこの世界に来たこと自体が音無にとっては最大のトラップだったということになる。SSS団にしてみても、SSS団でいることが彼らにとって不本意に終わった青春時代の補填であるとするなら、「成仏」はむしろ未練の源になってしまうだろう。これでは、未練者の救済と昇天を補助するシステムがむしろ未練を発生させ、昇天拒否者を作りだしている格好だから、なんともひどいマッチポンプで、システム設計者はものすごいバカか、神どころか悪魔のような嫌がらせの精神の持ち主だという話になる。
これがもし、一神教に代表される、世界システムの統括者の存在を想定する世界観への皮肉だとするならば、なかなかどうして手の込んだ仕掛けではあるといえるのだけれども、この混乱に作中人物が誰も気づいていないために、混乱してるのは作中の「神」ではなくて、「作品の神」である作者そのものなのではないかという疑惑がどうにもぬぐえないのが、この仮説の最大の欠点であるといえる。物語内のルールとおなじく、物語のルールそのものも相変わらず、霧の中である。うーむ。

 “それまで彼はこんなに深い霧を経験したことはなかった。……”