第八話「進路!」

 一番衝撃的だったのは本編ではなく、次回予告直後に流れた氷室京介のコーラCMだったわけだがそれはともかく。

サブタイトルどおりに進路にまつわる話。と同時に前回のサブタイトルをそのまま使ってもとくに問題のない回でもあった。
コンセプト的にはサブタイトルどおりの、『あずまんが大王』の終盤とか『ARIA THE ORIGINATION』と同じ、登場人物が、現在の幸福を謳歌しつつ、未来へのまなざしを持つようになるという流れの端緒ではあるのだけど、経年進行で着実に時間が過ぎていたあずまんがや、遊んでばかりのようでもあくまで「修行期間の物語」(つまり未来に大成することが目的だ)であったアリアシリーズとは異なり、この『けいおん!』の人々は徹底的に現在に生きているから、やはりどうにもとってつけたような感じがするのは否めない。このシリーズは良くも悪くも「都合のいい現在」に特化してるからである。目標武道館とかは目標火星とかと大差ない話でしかない。
 まあその辺の違和感を作り手が重々承知しているのは、冒頭にも書いたとおり、前回以上にたっぷりとお茶会の描写に時間を取っていることからもわかるし、そうすることでたしかに、進路調査をめぐる唯の右往左往が突出しないようにはなっているのだが、そんな風にごまかしごまかしやるぐらいなら、むしろそういうやっかいな話はもっと後まで放置しておく(あるいは完璧に無視する)方針で、すっ飛ばしてしまった二年生の後半から第二期をはじめてのんびりのんびり時間を進めていけばよかったような気がするのである。あるいはひだまりスケッチ方式で、過去へ行ったり来たりするやり方をとってもいいけども。
 大体、そんな風にしてわざわざ腫れ物に触っても、結局なんのオチもつけられないのだから腰砕けもいいところで、くどいようだけど、不向きなジャンルなのだから、さっと触れてあとはもう知らんぷりぐらいの思い切りがほしかった。へたに引っ張ると「よくわからないけど楽しい」ではなく「よくわからないけど楽しくない」感じになってしまう気がする。
 もちろん、「軽音部の将来」を描くな、といってるわけではない。ただし、本気でそれを描こうとするなら、当然のごとく、軽音部の現在もまた書き込まないとならないのである。それは――これも当然のごとく――お茶ばかりしている軽音部ではなく「軽音」している軽音部の現在だ。これができてはじめて、軽音部の将来を思い描くことができるのではないか。そしてそれは失礼ながらこのスタッフの資質からは大きく外れた要求なのではないだろうか。そう思うわけである。現在地を見据えずして、将来の話をきめろといわれたって、それは唯でなくたって困るのである。
 次回は試験……。なんで今度のシリーズはこんなに積極的に地雷を踏んでいこうとするのだろうか。

塚本晋也『鉄男THE BULLET MAN』

映画というよりは塚本と石川忠によるデアアイゼンロストのPVのような趣。
会場には客は二十名ぐらい。日曜の朝、立川シネマツー。
話は単純。キャラも単純。とくに監督演じる「ヤツ」のキャラが弱い。台詞に説明させなくても充分顔が雄弁だ。説明することでむしろ説得力がなくなってしまっている。
特撮はチープ。往年の東宝怪奇映画のようだが、それがむしろいい味。これがいまどきのCGであったら、あの質感は無理だろうし、ただのグロ映画になってしまったことだろう。東京は灰燼に帰してもよかった気もする。すべてを破壊し尽くした先に、家族を求めた男が何を得られるか? そういうほうが面白かったかもしれない。
爆音上映は心地よいが、ほんもののアイゼンロストのライブを聞いていると、この大きさではいささか小さい。もう二目盛り上げてもよかった。死者は多分出ない。
一番感動したのはタイトルがでるところのMTV的な圧迫感(音がね)。

第八話「Dancer in the Dark」

〜第八話「××ントの眠り」〜
   
思い出す。果たして天使の命運は。

   *
思い出す。仕組みもわかってないのにゆりっぺが適当に追加した天使のプログラム「absorb」が発動すると、複数作られた天使のコピーの要素が、すべて本体の天使に属性として「吸収」されるということらしい。ゆりっぺがプログラムの発動を十秒にしなければ、ゆっくり対応策も考えられた(怒りに我を忘れた王蟲モードの天使より多くまともな天使をハーモニクスして複製していけば赤い目のほうの意識を限りなくゼロに近づけることができる)のだが、どういう仕組みでどういう結果になるのかをゆりはまるでわかってなかったのだから、しかたない。

   *
思い出す。赤い目の天使とゆりの最終決戦は冷酷さのコンテストだった。弾丸を刀で弾き飛ばし岩をも砕く超音波と称されるソニックブームで相手を気絶させようとする少女、作戦の成功を勝ち誇り「おまえを蝋人形に、もとい、喉をかき切ってやろうかあ〜」と微笑む少女とではどっちが正義の味方かわからない。この世界に神の姿が見えないように、この世界には正しき「義」もないのだ。

   *
思い出す。小山ほどもある魚を釣り上げるほどの怪力の持ち主である生徒会長兼天使の複製品たちは、柔道の心得があれば押さえ込むことができる。合気道の心得のある生徒会長兼メイド様が柔道の心得のある悪のお金持ちに押さえ込まれてしまうようなものである。とくにSSS団の柔術は素晴らしい。死体になっても柔道の心得があれば天使を押さえ込み続けることができるほどである。SSS団団員は、一刺しされて死んでも、天使を放しませんでした。そういうものだ。
男ばかりの団なのに、天使を子孫繁栄的な意味で一刺ししてやろうと思った団員が一人もいないのは、彼らの紳士ぶりをよくしめしていて素晴らしい。ともあれどんどんキャラが死んでいくシックジョークのループは、この物語における死というものの重みをどんどん減らしていって、これは同時に生の重みも減らしていることになるのだが、こうやって、あらゆる重みから開放されていった果てにドラマは果たしてどうなるのか、興味深い。紙(神?)のように薄くなって、吹けば飛ぶような、そしてむこうが透けてみえるような、やすっぽいなにかになるのか、羽化登仙の境地に達して前人未到の世界を描くのか。

   *
思い出す。第二話でこういう展開、こういうギャグ、こういう状況を見たことがある。既視感ではなくて、意識的な堂々巡りである。
ちなみに、昔の偉い作家は書いている。「同じところをぐるぐる回っていると、次第に溝が深くなり、抜け出せなくなる」。

   * 
思い出す。NPCの生徒たちに聞き込みをかけて目撃情報を総合すると、天使(オリジナル)の拉致先が、生徒たちがその存在を知るはずもないギルドの地下秘密基地の跡地だと推定できるらしく、当然次の作戦も決まる。ギルドの地下秘密基地への潜行作戦である。
 なお今回は陽動作戦はしない。もう充分シングルCDが売れたから、ではなくて、意味がないとゆりが判断したからである。では今まで意味があったのかと誰もが思うが黙っていることにする。

   *
思い出す。作戦会議で音無くんは自分のカナデへの愛情を執拗にアピールする。一方ピンクの髪の子は泌尿器系に異常があるらしい。

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思い出す。以前散々大騒ぎした天使の部屋に単身、あっさり入り込んで、データをあさるゆり。天使は「私たちと同じ」といっていたはずだが、その天使に取扱説明書が付属していたり、コンピューターで動作プログラムを打ち込めたりすることには何の疑問も抱かない。ということはつまり、おそらくゆりっぺたちにもマニュアルがあって、コンピューターでいろいろなことをプログラミングできるということなのだろう。だったら、音無君のコンピューターをいじって「ゆりを好きになる」と打ち込んでしまえばよい気もするのだが。

   *  
思い出す。赤い目の冷酷な天使は音無くんのお友達の天使が巨大魚をさばく際に気合を入れたらつい出現してしまったものだったらしい。あの程度で分身してしまうのなら今までのSSS団との激闘の際にはもうたくさんハーモナイズされていたのではないかと思うのだが、よっぽど解体ショーに夢中になっていたのだろう。
また、生徒会長の任を解かれている状態で分身しているのだから、基本的な行動原理に「生徒会長としての責務を果たす」というのがあるのはおかしい気がするのだが、直井が言うようにバカの集団なので、誰もそのことには気づかない。

   *
思い出す。人が死なないから病院が存在ない世界でなぜかしっかり存在している保健室にSSS団は天使を担ぎこむ。相打ちならば赤目のほうは捕まえて拘束しておけばいいような気もするし、相打ちでないなら、活動が止まっていない赤目の猛攻をどうよけたのかわからないのだが、そのあたりの事情は誰も思い出せない。
天使はSSS団団員と同じく時間をおけば回復するとゆりはいうのだが、それにしては直りが遅い。そしてそのことに誰も疑問を持たない。

   *
思い出す。突然出現した赤い目の天使。夜遊びはまかりならんと言い立てて攻撃してくるのだがそんな高速があるとは一度も言わないところをみると、そんな校則は無いようである。つまりゆりが攻撃されている理由はほかにある可能性が高いが、やはり誰も思い出せない(もしくはゆりっぺが隠している)。
 そして、音無君に猛攻を仕掛ける赤目の天使と、料理の後片付けをしていた天使が激突する。
 果たして天使の命運は。

〜次回予告〜
大量生産された赤い目の分身を「absorb」により取り込んだ天使が目を覚ます。吸収した分身のぶんだけのたくさんの冷酷な精神、そして、たくさんの頭、たくさんの胴体、たくさんの手足を兼ね備えた合成怪獣のような恐ろしい自らの姿に、彼女は一体何を思うのか……?



というふうになるかどうかはともかくとして、前回ラストでのもう一人の天使の出現は、天使が天使でなくなったら(天使的な責務を果たさなくなったら)すぐに後任が現れるという、いかにもすべてをコントロールする上位システムの存在を証明するような状況――使徒や怪人が倒されたらまた新しい使徒や怪人がくるパターンですね――ではあったのだけど、今回それをあっさり否定して、単なる偶然の連鎖だったということにしてしまうビルドアンドスクラップ進行の手際のよさは、展開的に面白いかどうかはべつとして、冗談でも嫌味でもなく潔い。もっとも、一連の偶然としか思えない出来事は皆「運命」いう名の神(もしくは悪魔)のなせる業というオーメンもしくはファイナルディスティネーションスタイルでくる可能性も、1パーセントぐらいはあるかもしれないが。
 そうここまでくるとやはりこれは嫌味でもなんでもなく、意図的な破壊進行だと思うべきだろうと思う。
流石にもう三分の二近く話数を消化してきているわけで、序破急ならばクライマックス直前、起承転結で言っても、とっくに「起」「承」と世界観の提示は終了して「転」に差し掛かったあたりに相当するわけである。まさか、視聴者に尻尾をつかまれまいという意識だけで確定情報の提示を回避し続けているわけでもあるまい。

もしも完全に無計画でここまで来たとすると、それはそれでたいした胆力であるとはいえるだろう。いくら逃げても、放映の終了という行き止まりは必ず訪れて、そこでどうやっても視聴者に追いつかれてしまうわけだし、かのエヴァンゲリオンのように劇場版へオチを回避しても、おかげでむしろハードルが高くなって、結局劇場版でも完璧に視聴者を満足させたとはいえないような出来映えになり、十年経ってまた墓から引きずり出して作り直すようなことになってしまう可能性だってないわけではないのである(まあ、そこまでついてくる人がいれば、だけど)。
 とまあ、後代まで続くかもしれないリスクを考慮すると、いろいろ謎や矛盾はあっても、すべてをごまかせるぐらいの派手な悲劇と感動を大盤ぶるまいしてごまかしてしまえば、あるいはなんとかなりそうなきもしないでもないけれど、その点に関しては麻枝准の今回のやり方は非常に抜かりなく頼もしい。というのも、あれだけ死をギャグのネタにしてしまったら、お箸が転がっただけで泣けるぐらいの度量のある人でないと、「死」で涙を誘われることはないからだ。美しいエンディングのバラードすらもギャグのジングルにすぎない。ようするに麻枝准のメッセージはこういうことだ。「イシャはどこだ!」……じゃなくて「感動無用!」
 エンジェルビートとはつまり、オフビートなのだ。
 次回が楽しみである。これもまた嫌味ではない。フォーマではあるかもしれないが。

第七話

 パロディものではお約束のひとつでもあるロボットアニメごっこ回。それもたとえば『機動戦艦ナデシコ』みたいに、本編のテーマと絡むかたちでの挿入ではなく、あまつさえ本編とは登場人物の名前とキャラクターデザインが同じなぐらいではべつに関係がないという、いつものキャラのコスプレ的な妙味みたいなものすらない、ようするに、べつにこのアニメでやる必要も意味ないけど、スタッフがやってみたかったからやりました、という感じの、大胆不敵なコンセプトである。あれですね、リミックス頼んだら、原曲の一部をサンプリングしただけの、リミキサーのオリジナル曲が仕上げられてきた、というようなはなし。
 といっても今回の監督の久城りおんという人の監督作品は『明日のよいち』というるろ剣を現代に移してラブひな化したようなものしか知らないうえ、その作品に特別監督の個性を感じたりもしなかったので、今回のこの作品からも、なにかそういう独自性みたいなものは見えてこなかったわけなのだが。もちろん、よいちがそうだったように、上がってきた脚本をただそのまま作っただけ、とみえる作劇こそが久城の個性であるならば、まさにこれは久城の個性の発揮された結果ということは可能かもしれない。
 さてしかし、今回の御乱行でわかったのは、このシリーズはべつにキャラクターの統一とかシリーズを通しての変化や深化は考えていないということである。残りの話数が皆今回と同じ王道フォーマットのなぞりごっこである可能性も充分あるということだ。たとえば、魔女っ子もの(古典的なのから、プリキュアやなのはみたいなのまでよりどりみどり)、異世界ファンタジー(RPGっぽいのがいちばんありえるか?)、ミステリー(本格系からヒッチコックまで)、昼メロ、まあいくらでも出来てしまう。もちろん、それが面白いかどうかはまたべつの話なのはいうまでもないところ。

第七話「お茶会!」

かつて「けいおん!」史上でここまで緊迫感あふれる展開はあっただろうか。
いや、ない。
では、かつて「けいおん!」史上でここまで視聴者の期待をはずした話はあっただろうか。
これは結構あった。
ではさらに、かつて「けいおん!」史上でここまで作り手が間違った方向に突っ走っているのが明らかな内容はあっただろうか。
これも結構あった。
ではさらについでに、かつて「けいおん!」史上でここまで細部が粗雑な回はあっただろうか・
これはいつものことである。

まとめていうと、どっちか、といわないでもあまり出来のよろしくない回だったということでございます。

緊迫感、とはまあ見た人なら誰もが容易に思い当たると思うが、サブタイトルの「お茶会」の部分のことである。先週、次回予告でこのサブタイトルをみたときは、水戸黄門のいちエピソードの説明として「悪党に印籠を見せるエピソード」というのとおなじ程度の的確さでそのエピソードの内容を示しているなあと思いはしたけれど、それでもまあ、一話だらだらと、紅茶飲んでお菓子食べて、をやるのはそれはそれで悪くないだろう(舞台固定ものは上手くやれば面白いからね)、いくばくかの期待もあったりもしたわけである。それがまさかこんな特別で恐ろしいお茶会の話であるとは、お釈迦様でもわかるめえ。
 これは単純に、ファンクラブイベントの内容がつまらないとかギャグが寒いとかギャグが寒いというギャグそのものが寒いとかそういう次元の話ではない。まあそれはいいのだ。だって、ファンクラブイベントなんていうのはそもそも、部外者にはついていけないイベントなのである。つまらない内容と寒いギャグのオンパレードなのだ。当事者にしたって、自分の高揚した気分と、会場全体のハイな雰囲気にのまれているからこそ楽しめているのだ。たぶん。
 すくなくても、客観的な視座から楽しめるようなしろものではないのは、火を見るより、いや、今回を見れば、もう申し分なく明らかな事実ではなかろうか。澪が言い間違いから変なギャグを飛ばすあたりで本気でテレビのスイッチを切りたくなったのはこのブログの管理人だけではないだろう。百物語攻めとか十七年の人生を半生呼ばわりとかも四コマの小ネタとしてはありだろうけど、このアニメらしい律儀な見せ方でやられるとかるいいじめにも見えてくるのも、ちょっといたたまれないものがある。
澪が特に好きでない視聴者にもきつい、澪好きの視聴者にはなおきつかった(はず)。そういう、世にもつらいお茶会!担っていたように思う。

で、ここで視聴者の期待と作り手(原作者かアニメスタッフかはどちらでもよい)の見当違いの話になるわけだが――
思うに、「萌え」とかキャラクターへの愛着って言うのは、本人と対象のあいだに夾雑物がすくなければすくないほど成立しやすいもので、現実においてもアイドルが結婚していたり恋人がいたりという情報の露出は、たいていの場合忌避されるのはそういう事情を考慮してのうえであろうし、作り手によるコントロールが容易な二次元のヒロインヒーローであるなら、彼らあるいは彼女らと視聴者のあいだをさえぎる要素はできるかぎり回避されるのも当然の流れといえ、現に本作だって変に視聴者のまえをさえぎる男キャラとかは少なくても見た目の上では存在しないも同じであるように、細心の注意を払って作られていたわけである。
 ファンクラブというものの存在はともかく、そのメンバーをたくさん出してしまったのは、そういう良くも悪くも強力なコントロールがきいていた空間の秩序を激しく乱しているようにおもう。ファンクラブ会員がぞろぞろでてきて「澪かわいいー」を連呼させることは、見た目はともかくやってることは、デブでメガネでリュックを背負ったオタクの典型的なキャラを大挙出現させて「萌えー」と連呼させているのと大差なく、それは前述したような「熱狂の客観視」という冷淡さにとどまらない、「第三者には付いていけないものでもありがたがる愚民」とでも言うような、ファンそのものの侮蔑につながっているようにもみえるのである。
 もちろん、作り手にそんな悪意があったとは思えないので、例によって例のごとく、もう一歩考えてみることをしない作り方の産物なのだろう。悪意をこめることになんのメリットもないし、そういう作家性の人たちでもないからである。焼きそばパンのシールの話をみても、一体どういうアクロバットをするとあの位置にシールが(偶然、そして無自覚なまま)つくのか、そして朝からファンクラブ以外の誰かになにも言われなかったのか(よく気がつくのどかが同じクラスだというのに)とか、そういう整合性をなにも考えてなさそうなのも、傍証としては有力だ。

 これは「成功のうえに胡坐をかいている」というような単純な問題ではなくむしろ胡坐を欠くまいと意欲的に背伸びした結果、できもしない世界に手をだしてしまったということなのではないかと思う。
おそろしいのは、次回の話題「進路」もまた、同じ流れにあるように見えるところで、今回の内容も含め、ツマラナイコトハヨセ、といってくれる親切な人が近くにいなかったということなのか。ドウイフあにめニ、コノあにめハナリタイノカ。


ときに、軽音部が生徒会長の顔を知らなくても不思議ではないっていうのは、やつらひょっとして生徒会に全然出てなかったりするのだろうか?

もうひとつ、会員証の会員番号って会長は0001番固定とかなのかしら。カードそのものはひきつぎでなくて、わざわざ作っているっぽいのだが……。

第五話、第六話

山南さんがらみの二篇。変若水とやらを山南が飲んで鬼化する展開というのは、史実から行っても折込みずみなのだけど、そういういわば運命によって定められた出来事に千鶴というキャラクターを絡める手つきはいまいち。食事を運ぶエピソードなどで、もっと二人のつながり、というか山南のなかで千鶴の評価が高まっていったことを描いてあれば、いきなり薬や新「撰」組の秘密をべらべらしゃべってしまう流れの強引さも解消できただろうし、完全に鬼になるまえに踏みとどまることの説得力もただ薬の改良に成功していてよかったよかった――という、だけでないものになっていたはずで、なにより、ドラマ的な求心力が全然違ったのではないだろうか。この話では千鶴がほとんど傍観者で物理的な側面だけでなく心理的な意味でも、脇役でしかないからだ。
 あと、歴史もので実在の人物の末路が史実と異なる展開を見せたときに「『○○は死んだ!』ということにする」というのはお約束のひとつだから、山南が生き残ること自体は悪くはないのだが、この段階でそれを使ってしまうと、この後のキャラの去就にちょっと困ることにはならないだろうか。まさか毎回毎回「死んだと歴史上はなっている」でメインキャラを生存させるわけにもいかないだろう。この手の荒業はもっとクライマックスに使ったほうがよかったような気がする。それともこの作品的に一番重要な土方は、一番重要だからこそ美しく散らせてしまおうということなのだろうか。千鶴が不憫である。

ところで、名前が鬼の証(雪村か? それとも「千」鶴のほうか?)と自信満々に言われたのもびっくりだったが、それ以上にびっくりしたのは、この人たちはどう考えても異人さんでそれだからこそ「鬼」であり、なおかつ主義主張で動いているのではないのだな、と勝手に解釈していた、ヤンキーな人たちがみな日本名であることをクレジットで確認したと瞬間だった。特に津田健次郎先生のキャラの風間千景という女の子のような名前には目を奪われるものがありました。

第七話「Alive」

〜第七話「世界の中心でウマイを叫んだ天使」もしくは子供釣り団〜

ワンクールアニメの話数のなかば、ふと気がつくと、視聴者はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。
ああ、その森の異常さ、可笑しさ、荒涼ぶりを語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の解からなさがもどってくる!
その経験の苦しさは、死にもおさおさ劣らぬが、そこで巡りあったよきことを語るために、私は述べよう、そこで見た他のことどもをも。
「プーティーウィ?」

〈CASE2.音無望の場合〉

前回のBパートあたりから降りつづけてゐた雨が、急に止んだ。
しかし、辺りはさつきよりも暗くなつて、重苦しい雲が廂あたりまで降りてゐるらしかつた……というやうなことは全然なく、むしろ今までの雨は狐に化かされていただけハナから雨など降つていなかつたのではなかつたかと思うほどに天晴れな空模様であつた。

そして、音無望は苦悩していた。考えてみたらこの仮名だとまるでメルメルの家に婿養子に入ったみたいじゃないかとか、一体いつからこの世界は目を赤く光らせて心理操作する超能力のことを催眠術と呼ぶようになったのかとか、昨日の敵は今日の友とはよく言う話だが、昨日自分たちを虐殺していた敵を特に制限もかけずに団員として受け入れるのはさすがに知能のある存在の行動としては問題があるのではないかとか、森や川原もある学校の敷地はすごいなとか、そのようなことは些細な問題であり苦悩するに足らないことではあった。ただ、目がまわる、目がまわる、目がまわる、というだけのことである。
とはいえ、自分がなぜいままで記憶が一切戻らず、あまつさえ名前が明らかにされなかったのか、そのことになんの意味もみいだせなかったこの状況にはさすがにへこんだのである。これではまるでなんとなく主人公らしいポジション、つまり作品世界に不慣れな視聴者と割と近い「なにも分からない、なにも知らない」という条件を満たすためだけに、記憶と名前の喪失という設定をプレゼントされたようではないか。してみると、その二つともを再取得してしまった現在、望はもう主人公である必要がないか。いくら中の人がアジアナンバーワン男性声優であろうとも、物語はそのことでえこひいきをしてはくれないだろう。現に、昔超人ロックで現在はリトバスラジオのメインパーソナリティである男は今回限りの出番ではないか。あのぷちこさんだってたった三回で消えてしまったのである。そういうものだ。

いやまてよ、と望は思う。あるいは思い出さなかったことに意味はあるかもしれない。そうだ、考えてみれば、なんだかよくわからない病気―マエダ病とでも名づけたらよいのだろうか―で死にそうな妹のことはほとんど生きがいといっていいくらい大切だったにもかかわらず、その妹へのプレゼントはほとんど生きてようが死んでいようがどうでもいい相手へのプレゼントのごとく、非常にぞんざいに選んでいたというのは、自分の中での押さえ切れない妹への愛情とそれを認めたくない十代後半の青少年らしいかっこつけのはざまの、結果的に外部から見ると錯乱した狂人か圧倒的に恥ずかしいお子様のどちらかにしか見えない行為であったわけで、これは確かに思い出したくないんじゃないだろうか? しかもその後も「なんだかよくわからない病気―マエダ病(仮)―で今にも死にそうな妹はきっとクリスマスの寒空の下、外を出歩きたいはずだ!」となんだかよくわからない頭の病気的な思い込みにより、今にも死にそうな妹をクリスマスの寒空のもと、外を連れ歩いた挙句、衰弱死させてしまっているわけであり、この人じつは妹のことが邪魔で邪魔でしょうがなくて、徹底的な善意に発する事故に見せかけた巧妙な殺人計画だったのではなかろうかとかんぐってしまうような、見るもの誰もが音無くんに同情できない展開が用意されており、やはりこれも思い出したらむしろ死にたくなるだろうから、思い出せないのも当然であったのかもしれない。そういうものだ。

そんなときに、新たな天使が来訪する。
「それはいけません」「そんなことをしたらえらいことになるよ」と止める声。
「えらいこととはどういうことです」
「だってあんたは、あんたは、天使のタチバナカナデにそっくりじゃないか」「もしあんたが行ったら、タチバナカナデのところに行ったら……」

(続劇)


という第七話。

あらすじのところでぴんと来た人もいると思うけども、この作品はようするに〈フォーマ〉なのである。フォーマとは、〈徹底的に無関心な神の教会〉と母体とする宗教団体の用語で、その教義によればフォーマとは「生きるよるべ」であり、またフォーマは「あなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」ものであるという。その宗教の教義は教える。あらゆる宗教はフォーマであると。当然、その教義自体フォーマである。この言葉自体は、平たく訳してしまうと「うそっぱち(伊藤典夫訳)」ということになるが、どんな悲惨な過去も、残酷な暴力も、CMがおわればみなすっきり、という思い切りの良さはまさにフォーマであり、すなわち、ひとを「勇敢で、親切で、健康で、幸福」にしてくれるものであるような気がする。直井の登場から団への編入、クライストレベルのギャグキャラ化までの流れにしても一見無理筋の連続のようだけど、序盤で殺戮をギャグとして描いておいたことがいい按配に通奏低音になっていて、直井たちの殺戮行為もただの殺戮ではなく、平気で生き返る人たちの殺戮という、どっちかというとギャグに類する無意味行為(ゾンビを殺すより罪がない)になっているから、筋立ての上で考えるよりはるかに違和感がない。音無による妹の殺害も、麻枝「泣きゲー」路線の十八番である陳腐さに加えて、雑誌選択の意味不明さやら病院連れ出しの非現実感が件の展開の「泣き」要素を完全に亡きもの(雪の中での死という流れはクラナドセルフパロディでもある)にしていて、音無し君は妹を寒空に連れ出しその結果妹は死にました、と乾いた気持ちで見られるわけである。そういうものだ。
かくのごとく、この物語はまさにフォーマなのだった。

来週の最後で天使マーク2がまた仲間になっても誰も驚かないことであろう。ゆりっぺがやられたのはきっと、天使が食べようとしていた麻婆豆腐を横取りして食べてしまったからに違いない。