『サマーウォーズ』、あるいは夏の戦いを戦った者たち。

時をかける少女』に続く細田守新作。バルト9は、予約をかけるのが遅かったせいもあり深夜の上映回しか空いておらず(公開初日と一律千円の日が被っていたので、あるいはチケットが取れただけでも運がよかったのかもしれない)、終演後の暇つぶしが面倒だなと思いつつ出かける。

本編開始前にいきなり罠があって、アスミカナさんみたいな声でしゃべるスミ子さんの上映前の注意のつもりらしい勘違いしたショートフィルムにまずげんなり。確かにアフロヘアが目の前にいたら困る劇場もあるが、バルト9みたいに傾斜の大きいところでは関係ないのではなかろうか。もしかするとバルト9専用のCMではないのかな。あとおまえが一番客をいらだたせているぞスミ子さん。
 そしてようやく本編開幕。だがしかし、ここでまたCMである。そう、劇中CM(正確には広報番組という態だがTVCMにしかみえない)。なぜかここでも音楽が爆裂レベルでげんなりさせられる。わざとなのか? このかぎりなくCMっぽい広報番組で紹介されるサイバー空間は、一種の理想郷でもあるのだから轟音テクノで圧倒するより洗脳系癒し音楽かお洒落なスムースジャズでも流したほうがよかったのではと、観終わってから思ったが、観ている時は、うるせーと思いつつ設定説明を消化するのに精一杯でありました。
 もっとも、以後はそこまでのパンクで攻撃的なノリとはうってかわって、どこまでも優等生的な――よく言えば落ち着き洗練された、悪く言えば杓子定規な――「一般向け娯楽大作」なのでした。映像は綺麗だし退屈もしないし、実に快適である。

だがそれがよかったか、というとまた違う問題である。

なぜか? 理由は簡単だ。この作品はただの一般向け娯楽大作ではいけないからである。これは「少年のひと夏の物語」だからである。「かけがえのない時間とかけがえのない人をめぐる、かけがえのない体験をめぐる物語」だからである。そこには、登場人物たちが遭遇する、希望と喜びと冒険と喪失と痛みがあり、観客もまた、希望と喜びと冒険と喪失を共有し、エンドクレジットが出たあとも、何かが残っていないといけない物語だからである。見終わって「実に快適」で終わっては失敗なのだ。通過儀礼を経た少年は、もとの少年ではないはずなのである。

具体的には、やはり奥寺佐渡子による脚本の弱さがあげられるだろう。これは『時をかける少女』のときでもそうだったことなのだが、細田守という人はインタビューではかなり理論めいたものを振りかざしていろいろ語るわりに、肝心の物語構成のイロハをわかっていないのではないかと思うことがある。話の視点、立脚点が毎度毎度不明瞭なのだ。「何を語りたい作品なのか」がわからない、ということである。前作についていえば、主人公やその所属する世界をどう捉えるか――現在とするか、ノスタルジアとするか――がぶれていたし、これはこの前の再放送でわかったことだけど、実は主人公(物語の中心人物)すら終盤でぶれてしまっているのではないかという節がある(簡単に言ってしまえば、「少女」でないもうひとりの時をかける人の話になってしまってる気がするのだ)。
 本作の場合、一番わかりやすい欠陥というとおそらく、この、ナツキ先輩という、物語の中心に位置しているだけでなく、象徴としても「あの特別な夏」を体現するような人物の(だからこそポスターなどでのあの立ち位置のはずである)、まさにその存在感が非常に薄い点があげられるだろうが、この欠陥も先に挙げた視点の不明瞭さに起因している。それはつまりこの『サマーウォーズ』という物語が「少年が好きな少女とその属する大家族」の物語であるのか「大家族とそれに属する少女の戦いに関わってしまった少年」の物語であるのか、すなわち少年は物語の主人公であるのか事件の傍観者であるのか、語りの方針の根本の根本が不明瞭である、ということだ。
 
物語の状況や設定のうえには言うまでもなく前者のはずである。憧れの先輩と未知の田舎への二人旅というそれ自体に非日常な体験に始まり、婚約者偽装とか、憧れの先輩の憧れの親族の出現とか、憧れの先輩がお風呂場から出てくるところに遭遇とか、ふた昔前のラブコメ漫画でも照れて逃げ出すような御膳立てが次々に積み重ねられるにもかかわらず、かれはどんどん物語の脇に追いやられていく。これは主観的な画面をあまり使わない作風のせいだけでなく、そもそも田舎の大家族の只中に放り込まれるという、いわば第三種接近遭遇並みの異文化体験をえらくあっさり通り過ぎてしまう構成がまずよろしくない気がするし、さらに、そういう異文化に属してる先輩に対して、主人公にしても戸惑いや新発見があったりするはずのところもあっさり通り過ぎてしまうのは、もっとよろしくないだろう。かれの内面を描かないことで意識的に観客の共感を拒絶するつくりにしたかったのなら成功だけれども。
かくして少年は主人公(物語の視点人物)足るに充分な行動を見せることかなわず、後ろのほうで事件の推移を見ているばかりの存在に、つまり、観客に見られるばかりの存在になってしまう。
このとばっちりは、当然のことながら、その少年に贔屓されることがある意味ヒロインの証である少女にもいく。ポスターやCMでいくら中心にしようが、作中できちんと中心にいなければ、ヒロインはヒロインとして機能しないのである。ヒロインを描くことに長けたスタジオジブリのあの人の作品を見るがいい。誰もがヒロインを見て、何かしら反応を示す。そうやってキャラクターは「描き出されて」いくのである。かれの先輩はそもそもかれ自身にすらじっくり見てもらえないのだ。目立てるわけがない。一番目立ってるのは宣材、なヒロインの出来上がりである。
というかむしろ、最初から異文化の中にいて、その中で自分と近いところもあるとわかってくるカズマと少年のかかわりのほうがよっぽど「青春」っぽいのだから、脚本の機能不全は深刻だ。(ところで、カズマが少年であるというのがいまだ納得いかないものがあるのだが……。いや、少女だとナツキに勝ち目がなくなってしまうか?)

問題はこればかりではない。考えようによってはこちらのほうが寄り致命的であるかもしれない。
それは「ラブマシーン事件」が、物語の主題と併せて考えると実は非常にどうでもいい事件であるということだ。設定自体は、本作の直截の元ネタであるという細田監督の旧作『デジモンアドベンチャー僕らのウォーゲーム』のさらに元ネタであるジョン・バダムの『ウォーゲーム』(デジモンは未見だけれども、題名からしてもこれは間違いないだろう)と同じ、コンピューターのプログラムの暴走が巻き起こす事件であるわけだが、その「どうでもよさ」という点において、ジョン・バダム作品とは本質的に異なっているのだ。
確かに『サマーウォーズ』においても、それには世界の危機だし、「戦争」の当事者となる先輩の一族にとっては、文字通り頭上の脅威であるのだけど、『ウォーゲーム』におけるプログラムの暴走が、文字通りの人間不在の事態というだけでなく、「人間性の不在」というゲーム的な戦争そのものへの異議申し立てになっているという意味で、主題と密接にかかわっていた――というか、それこそ主題そのものであった――のとは、対照的に、「ラブマシーン」の暴走は本当にただのプログラムのバグでしかない。サイバー空間に対する何らかの異議申し立てなり問題意識の発露でもないし、主人公にとっての「恋敵」であるおじさんの何かを象徴するようなキャラでもなく(おじさんのキャラがそもそもいまいちという問題もあるが)、どこまでいっても「戦う理由」があくまで物理的な事情といった域を出ないままで、それはそのままドラマ的には至極、表層的な問題でしかないことになる。世人、これを空虚という。

そのあたりの欠陥がとてもわかりやすく出ているのが、大詰めの見せ場らしき展開における「お願いします」という台詞で、この、本来はドラマ的に最高潮になるはずの、つまり主人公の決意と覚悟を切り札にした一世一代の勝負、すなわち通過儀礼の最終試練の回答にあたるような場面が、不思議なぐらい焦点がぼけている。なんの感動も興奮もないどころか、むしろ戸惑うところになっているようにすら思える。これは、序盤の当主のばあちゃんと主人公の会話をうまく印象づけ損ねているという技術的な失敗以前に、そもそもそこでその台詞をいう意味がまったくなにもないということに起因する。

だってそうでしょう、誰に「お願いします」なの?

いいかな。ラブマシーンおよびそれがもたらした問題が、ばあちゃん、ひいては一族を象徴するものであったらならば、主人公が決意を込めて「お願い」することに、事件解決への思いだけでなく、先輩に対する気持ちの表明という、別の大きな意味を持つことになり、それによってなにがしかの感動が生まれるだろう。だが実際はそうではないのである。あの場でお願いしたって、相手はただの暴走したコンピュータープログラムでしかなくて、そこになんら象徴的な別の意味合いは生まれないし、生まれようがないのである。
なにも生まないまま、事件はあくまで解決すべき問題としてはじまり、解決された問題として終結する。これはまさにゲームである。先輩と主人公たちの「サマーウォーズ」はたんなる「ウォーゲーム」として終わってしまうのだ。

というわけで少年は、真の意味で乗り越えるべき葛藤にも戦うべき困難にも、ついに出会うことなく、即ち通過儀礼は一切行われることないままに、上映時間の終わりに辿り着き、観客はなにか騙されたような気持のうちに山下達郎の歌を聴くことになる。少年は『僕らの夏の夢』は見られずに終わってしまったのである。ポニョの宗助のほうがまだ何かを乗り越えたかもしれない。あるいはもしかすると、主人公にさえ、なれずに終わっている可能性すらあるのではなかろうか。その証拠にほら、かれの名前をさっぱり思い出せない。