新宿バルト9の座席に、スイッチひとつで作動する、殺しのライセンスを持った英国情報部員ご愛用の緊急脱出装置が親切にも常備されていたら、気恥ずかしさのあまりおもわず使ってしまうひとが多数いたかもしれない。そんな妄想すらしてしまうほどすばらしいキョンくんのナレーションとともに、この『劇場版・涼宮ハルヒの消失』は幕を開ける。
なんのナレーションかといえば、劇場にいった人、あるいはこの劇場版の原作である『涼宮ハルヒの消失』を読んでいる人ならいうまでもなく、「地球をアイスピックで」云々のフレーズのことなのだが、なにを隠そう、この一文こそ、この文章を書いている人間がかつてのテレビシリーズ放映時に感想を書くにあたって、はて原作はどんなものなのかしらと書店で手に取ってまず目に留まったのがまさにこの箇所であり――まあ、なんといっても冒頭だしね――、そして「おいおいアジアの片隅の極寒ぶりをいうのに、地球全体が氷河期化してるとたとえるのはいくらなんでも無理があるだろう」と、緊急脱出ボタンを押すかわりにさっさと本を閉じて書棚に戻し、爾来原作を読む気はもう一切、てんで、まったく起こらなかった……という曰くつきの(ごく局所的なことながら)一節なのであった、というのも、今となっては、劣化しまくったビデオテープを再生して見るかのような懐かしい思い出であるわけなのだが、そのような文章をまさかのっけからなんのオブラートもかけずに(動画すらない状態で)杉田智和の朗読で聞かされるというのは、なかなかどうして我慢比べにも似た体験であったわけなのだが、それぐらいでめげるぐらいなら、そもそも劇場まで来ないのである。いくらシネマチネなるサービスで安価で入場できる、という好条件があったにせよ、本作が、二時間四十分を越えるというアニメ映画としては異例の長さの、普通の映画としてもかなり長いほう(*2)に属していて、しかも、それが文庫一冊ぶんの映像化だというのだから、どうにもただごとではない作品であるのは(質の意味でなく、作り手のバランス感覚という意味で)、ハナからわかっていることで、いつかのハリウッド映画であったコロッセオで瀕死の元将軍に決闘をしかける皇帝ぐらいの覚悟はできているわけなのだ。ああそうとも好きなだけナレーションしてくれキョン

などと、テレビ版のときの感想よろしく、下手なくちまねで本稿を続けるのはあまり面倒であるので、以後普通に書くことにする。

そういうわけでナレーションまみれの百六十ニ分。少なくても退屈はしなかった。睡魔にも襲われなかったし、冒頭のナレーションを越える気恥ずかしい時間もなかった。作画は正直な話、テレビ版と大差ない印象もあるし(それはテレビ版がなんだかんだでかなりのクオリティであったということもでもあるだろうが)、完全にテレビ版の視聴者を前提としたつくりも正直どうかと思うが、それでも意外なぐらいまっとうな構成、演出で貫かれ、無駄に時系列を入れ替えたり、同じ話を繰り返し続けたりといった、話題性重視で視聴者のほうをまったく見ないような、作品にとって無意味で視聴者にしてみればくだらないだけのギミックはなかった。もちろん、相変わらず細部に関しては、たとえば文芸部室の背景ひとつとっても、実在の書物を多数取り込んだりして(早川の世界SF全集とかすごく懐かしい)凝ってるようでいて、ハイペリオン四部作が第三部までしかなかったり、『日暮らし』が上下巻のうちの一冊しかないうえ、シリーズ前作に当たる『ぼんくら』がなかったり、そもそも学生の買っている蔵書(生徒の持ち出しなのか部費なのかはともかく)なのに安価で場所をとらない文庫が見当たらなかったり――と、スタッフにSFや翻訳ミステリのファンがいるのは確かだけど(ランズデールの『ボトムズ』とかも長門は読むのだろうか?)もうひとつ考えが足りない、と思えてしまうような、せんじつめればテレビシリーズと同じように中途半端な描写だったりするわけだけど――真冬なのに布団が薄すぎるとか猫の動きがおかしいとかも、そうだが――それはもう伝統芸能の域とも言えるだろう。
唯一、非常識ともいえる上映時間こそがギミック的であったといえないこともないが、その長さは退屈ではなかったのだから、少なくても無意味ではなかったのである。ただ、まさにその点こそが、この作品の持つ大きな問題の原因にもなっているのが、皮肉というべきか、悪いことはできない、というべきか。
というのも、作品にとって無意味でないことと作品にとってマイナス効果があることは矛盾せずに同居してしまう。少なくても本作の場合、この長さは、作品の本質をわかりにくくする効果を持ってしまっているのである。

それはつまりこういうことだ。

本作が「退屈しない」ことのメカニズムはじつは至極、簡単なことなのである。それこそ一回二十数分のテレビアニメをなんの工夫もなくひとつなぎにしたかのごとく、大体それぐらいのスパンで、展開上の山があってオチがあって次の展開に流れていくから、見る側はなんの忍耐もいらないのだ。薄味のスナック菓子を漫然と食べていると一袋ぜんぶ食べてしまってしてもその実感がない――といったような状況を思い描くとわかりやすいだろうか。おまけにその場その場でキョンが自分の心境ややりたいことを逐一説明してくれるわけであるから、忍耐どころか考える努力すらいらないのである。このスタイルなら、極端な話、あと一時間長くてもそれほど疲れないに違いない。これが諸刃の剣なのである。忍耐も考える努力もいらない、という状況は必然的に、観客を怠惰にする。目の前で展開されているのがそれぞれのキャラクターにとってどういう状況であるのか、どう考えているのか、どう感じているのか、そういうことを「想像しなくなる」。だって説明してくれるから。とりあえず目のまでちょっとしたドラマティックな展開があって、それを見ていれば次の展開にたどり着くから。事象が右から左へ流れていき、蓄積しない。ようするに、量的な大きさが質的な大きさにつながっていかないのだ。

 「見易さ」がわかりやすく裏目に出ているところとして特に重要なのは、エンターキーを前にしての、キョンの選択の箇所があげられる。この場面は、割とあっさり選択がなされ、描写的にもたいして重要視されていないように見える。その後に置かれたキョンの内的自己との対話をドラマ的なクライマックスとするための前座のような扱いだ。しかしそれでいいのだろうか?
この場面において、キョンが直面した問題は、物語の深奥部に位置する問題である。
 もちろんキョンハルヒの「消失」していない――ある意味ハルヒの作ったともいえる――世界、いわば「ハルヒの世界」に帰りたいのであるが、この物語における主な舞台である(バレバレだけど一応ネタバレになるので秘すが)或る人物の作ったこの世界、これを仮に消失世界とするが、この消失世界にも魅力に感じているはずなのだ。すくなくても、そうでないとドラマが成立しない。なぜならこちらの世界には「普通」があるからだ。ハルヒの世界はキョンにとってはたしかに帰るべき現実ではあるのだけど、考えようによってはより非現実的――意地の悪い言いかたをするのならラブコメ/ギャルゲー的な充足空間――であって、日常に根ざした平均的な青春は失われている。その点、モノトーン気味のビジュアルに象徴されているように、消失世界は、ハルヒの世界で得られるようなSF的冒険もなぜか身の回りにあふれるたくさんの女の子も立ち向かうべき世界の危機も存在しない、たとえるならばオズの国にいけないままで人生を終えるドロシーの世界と地続きの世界なのだが、そこには等身大の人間がいて、等身大の青春があるのだ。とっぴなこともせず、文芸部室で本を読んだりおしゃべりしたり、一緒に帰ったり(いきなり家に来いに誘われたりとかはちょっとできすぎだが)、そういう、キョンにとってはまったく現実ではないのに、キョンにも、そして観客にも、より現実らしい世界を、否定できるのか否か? つまり、日常的な非日常を選ぶか非日常である日常を選ぶか、という問いが、モニターを前にしたキョンの前に投げかけられた問いであり、それはすなわち、物語の主人公である道を選ぶか否か、というメタレベルの問いでもあり、もうひとつはそう、三角関係の頂点にいる身としてどちらを選ぶか、という問いでもあって、これはもう大変な問題であるはずなのである。エンターキーを押す手には見た目の何倍もの重圧がかかっていないとおかしいのではあるまいか。
 いうまでもなく物語の主人公としては後者を選ぶはずもないし、現実のハルヒこそがヒロインである以上、消失世界の作者は選ばれるわけもないのだけど、すくなくてもキョンはそこで強烈に葛藤しなければならないし、また観客にその葛藤が伝わるように描かなければせっかくの「涼宮ハルヒの消失」という大事件を描いた意味もないだろう。
 しかしあまり葛藤しているようには見えないし、なにより葛藤してるように見えないのがおかしく見えないのである。なぜか?

 非常にわかりやすい原因は、ナレーションである。キョンの心情も見る側が感情移入する理解しようとする必要もなく説明され続けてしまうので、結果的に観客は文字通りの傍観者ポジションから一歩も出られない。せめてナレーションが十分の一、いや、ゼロでもいいくらいに、切り詰められていればまだしもだっただろうが、もうひとつ、これが先ほどいったことになるわけだけど、エピソード単位の印象の薄さだ。イベント一つ一つが散発的に開始と終結を繰り返すばかりで、その場その場の「引き」にはなっていても総体として大きな力を持たない。消失世界での体験は、その場その場のキョンの不安を描くだけではなく、キョンが消失世界に惹かれていく過程でなくてはならないはずなのだ。せっかく原作者を脚本監修に呼んでいるのだから、それこそ映画らしい凝縮感で見せていけるキョンと消失世界のエピソードをいくつか考えてもらえばよかったのではないだろうか。
 
 消失世界とのかかわりにおいて作劇的には無残にも失敗しているキョンと対照的なのが消失世界のハルヒで、彼女は今までの本編で描かれたどのハルヒよりも魅力的だったりする。これは正直意外だったのだけど、しかし考えてみれば当たり前のことだったかもしれない。なぜならこのハルヒは世界改変力だとか何とか空間だとかのバックボーンも持たず、当然、未来人だとか宇宙人だとか超能力者だとかキョンだとかに陰ながら全肯定されていたりしないで、普通に肯定されたり否定されたりしながら、自分の力だけで生きている存在だからだ。そういう普通の人間が異世界から来たキョンに出会って目を輝かして変化していく、というのは至極自然だし、見ていて共感できるのである。消失世界のハルヒがナレーションで内面を説明したりしないのも大きいに違いない。(*3)
 
 キョンほどではないがキョンの巻き添えを食っているのが長門(消失世界もハルヒ世界も)で、本作はある意味彼女が主役ともいえる話なのに、これは気の毒だった。エンディングロールの後のエピソードがエピローグとして、いまいち精彩を書くのも、ようするにあの場面での彼女の心理や行動を観客が確信を持って思い描けるほどに本編で描けてないことに起因している。それこれも「おまえはこう考えているだろうああ考えていただろう」と延々説明しまくるキョンが悪いのである。最も悲惨なのが屋上のシークエンスでキョンの台詞をちょっと工夫してナレーション不要なレベルまで含みを持たせられていたら(そして「ユキ」をめぐるやり取りはたぶん小説でしか使えない仕掛けだから思い切って削除してしまってもよかっただろう)、気合の入った作画とかあわせてなかなかの名場面になっていたかもしれない。おでんの場面なんかも、もう少し踏み込んだ描写がほしかったところ。宇宙人でない長門なら宇宙人でない長門らしいおでんの食べ方などがあったはずで、そういう場面に居合わせていくことでキョンがどんどん揺れていく、というのがこの物語の真のプロットであったのではないか、そこを描ききってこそはじめて成立した作品だったのではないか、と思うのである。(*4)

ようするにこの映画の問題はじつは、たった一つであるのかもしれない。
すなわち、映画にしようとする努力を欠いたこと。

これは、原作の設定から踏み出さないようにとか、原作にあるエピソードの徹底再現だとか、原作にないことはやらないとか、続編作るときの調整が面倒だからとか、いろいろ考えての結果なのだろうとは思うのだが、ここは「劇場版」であることを第一義にしてやってほしかった気がする。
たとえば具体的には、終盤のキョンの内的自己との対決とかははしょってしまってもいい。エンターキーを推している時点ですでに選んでいるのだからキョンが言うまでもなく「わかりきってる」のだ。タイムパラドックス関連の最後の展開も無駄にややこしくなっているだけで、さらに矛盾が増えている気もする(*5)。古泉はどの世界でも気持ち悪いので出なくてもいいぐらいである(それでも、消失世界のほうは、オブサーバー気取りが無いのでまだましかもしれないが)。
 そうしたとき、それが、たとえば宮崎駿が『カリオストロの城』で、あるいは押井守が『ビューティフル・ドリーマー』(*6)でやってしまったような、実質的にシリーズ全体の総決算のみならず終結を意味するようなフィルムを作り上げるような行為になってしまったとしても、むしろ評価はきちんとされるのではないだろうか(というかテーマ的には本作で実質終わっているような気もするのだが……。ぬるすぎてそうとは見えないだけで)。
 なに、テレビで続きを作りたいのなら、『テレビ版・涼宮ハルヒの消失』と銘打って「原作の完全再現版」を作ればよいのだ。それぐらいのあこぎな商法はお手のものだろう。
 
 こまかいところで文句をいうとオープニング、主題歌の流れるところがいささか残念な演出で、クレジットと完全に分離した位置でアバンタイトルの続きをやるのはそれこそテレビ的、OVA的な発想じゃないかと思う。人間はカメレオンではないから画面の左右を同時に見て理解する能力はないのである。OPのために複数回見ろということなのだろうか。
音楽の使い方も疑問が残る。楽曲字体はやや大仰に過ぎるとはいえそう悪くないとおもうのだが、使い方が、ドラマが盛り上がる前からさあ感動しろとばかりに押し込まれてくる感じなので、どうにも印象が悪い。特にキョンが消失世界にもハルヒがいることを知るくだりの使い方が気になった。ハルヒがいることを知って、教室を出て学校を出てかけていくあたりまで音楽を抑えたほうが観客の気分と上手く同調したのではあるまいか。ナレーションと一緒でどこまでも観客に自発的に感じる機会を奪う作劇を意図しているのなら、あるいは意図通りであるのかもしれないが、それはタイアップ主題歌を無理やり掛け捲るトレンディドラマと大差ないノリとも言える。執拗に使われるジムノペディもどうなんだろう? 同じように有名なピアノ曲の流用でも『時をかける少女』で細田守ゴールドベルク変奏曲を演出的にもテーマ的にもあざやかにリンクさせていたのとくらべると、どうにも垢抜けないように思う。

時をかける少女』で思い出したのだが、この映画に感じる隔靴掻痒な気分は、そういえば『時かけ』にも感じていたのだった。時間をおいて鑑賞した『時かけ』がだいぶ違った見方ができたように、あるいはこれも時間をおいて鑑賞したら違った見方ができるかもしれない。
 もっとも、より簡単に「違った見方」を可能にするやりかたも、ある。もうわかるだろう。
 それは、ナレーション抜きバージョンを作ることである。
 DVDの特典でそういうのをやってくれたら、買ってもいい、という気になるような気もしないでもない、ような気にならないでもない、かも知れない、気がする。


(*1)劇場版、というからには、テレビ版とかあるのか? という突っ込みもあるがまあそれは置く。あるいは小説に対しての劇場版であるのかもしれないし。
(*2)宮崎駿の最大規模の作品(にして最大の失敗作でもある)『もののけ姫』ですら二時間十三分。実写でもクリストファー・ノーランの『ダークナイト』が二時間三十五分、タルコフスキーの『ストーカー』がビデオの表記によれば二時間四十分ちょうど、といった程度の長さであり、黒澤明の『白痴』でも二時間四十六分、スピルバーグの『ミュンヘン』が二時間四十四分と本作よりちょっと尺があるぐらいでしかない。ジェームズキャメロンの『アバター』(これの長さの原因はもっぱら3D効果のためだ)やザック・スナイダーの『ウォッチメン』(こちらは原作の密度が膨大なためだ)と大体同じくらいの長さである。
(*3)ナレーションに関して、まだ納得できないと思う人は『ブレードランナー』の「ファイナルカット」でもなく「ディレクターズカット最終版」でもなく、「完全版」を見てみるといい。とにかくハリソン・フォードのナレーションがすばらしく邪魔で、映画への没入をテッテ的に阻んでくれるのを実感できるはずである。

(*4)些細なことだがエピローグについて(一応反転しておく)
    長門が読んでいた本はティプトリーの新訳本だが、これはたしか二千八年の刊行である。時代設定はどうなってるのだろう。

(*5)ネタバレになるのでこれも反転
    キョンが刺され、二人みくる&キョンが現れた世界はまだ長門にワクチンを打つ前、つまり消失世界であるのだけど、ということは「その時点」では消失世界の未来しか存在しないということで、つまり、ハルヒ世界は存在せず、当然そこから彼らが来ることはできないはずなのである。

(*6)『ビューティフルドリーマー』は「エンドレスエイト」の元ネタでもあるし、本作のテーマとも思いっきり近接する(もっともあちらは「夢の破壊者は壊したことの責任を取らなければならない」という本作がシカトしてる命題にも触れているので、そういう意味でも映画的な完結性を持っているのだが)。ハルヒ世界がハルヒの夢と見ることも可能な以上、極論するとハルヒのシリーズそのものがビューティフルドリーマーの産物といえるのかもしれない。

追記
(3/7)若干文章を手直し&追加。

ちょっとだけ踏み込んだ話(ネタバレなのでまたも反転)
本作は、見ようによっては、というか、正しく描けば、ものすごい悲劇なのである。
マクロな視点で言えば、ある女が一人の男のために作り出した世界を丸まるひとつ、(もう一人の女の世界に戻るために)「消失」させるという、大量破壊の物語であるのだし、そこまで視点を広げなくても、キョンが、元の世界のハルヒを選ぶために、消失世界の長門を「殺す」話であるのだから。それも、長門自身の力を借りて。
本編のキョンがその行為に直接手を下さないのは(やったのはあくまで「未来のキョン」だ)、やはり見た目だけでもひどい場面になってしまうからだろう。描写不足からその本質的な重さが見ている側に気分として伝わらないにせよ。
逆に言えば、そこまで出来て始めて物語は物語の態をなしたのではないかという気がするし、そうすればそれこそ後々、カリオストロの城ビューティフルドリーマー的な、つまりテレビシリーズの派生だが単体でも見ても優れた映画、というポジションにだってつけたかもしれない。もったいないですなあ。