第十二話「蒼穹ニ響ケ」

最終話まで視聴完了。第十一話までは放映時は録画しておいて、あとで気がむいたら見る、というスタイルだったのだが、最終話だけはしっかり放映時間にテレビの前に座りました。それはもちろん結末を早く見届けたかったからである。どう考えてもまともなオチがつきそうにないアニメって言うのは、とてもよく出来ている面白いアニメと同じように、続きが気になるものなのだ
 その最終話をどう見たかはおいおい書くとして、まずはこの『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』という作品全体について、ざっとまとめておきたい。

第一話を見た段階で、近年のアニメ作品に詳しい人であるならおそらく百人中百人が、本作の企画書に仮タイトルとして『けいおんウィッチーズ〜THE ARIANATION〜(スタジオジブリもあるでよ)』と記されているのを幻視しているはずであるが、本作のすごいところはその幻視を作品展開がまったく裏切らないところにある。
ほんとうに、ヒット作の断片のコラージュのまま話数を重ねて、どこまでいってもオリジナルな要素が出てこない。世界各国の文化や風景が混在した美術設定は、あるいはこの作品のコンセプトと呼応させる目的でデザインされたのかもしれない。作品の内容をより正確に視聴者に伝えるためには仮タイトルを正式タイトルにすべきでありました。
なお、カナタの「素敵」云々の恥ずかしい台詞の滑りっぷりに代表されるように、元ネタに比べてすべての要素が劣化してるあたりは、センスのない人が真似をすればほぼ必然的に発生する現象なのでオリジナルな要素とはいえません。

さて、全体にダウンサイジングされているとはいえ、人気のあった作品の要素満載で行くのだから、一見、安定株になりそうではある。あざといとか恥知らずとか言わば言え、そういうものが見たい客のために、そういうものを見せて何が悪い、というわけで、まあ考えてみれば、ヒット作なんてたいていそんな風にして作られているような気もしないでもないし、勝てば官軍の論理もあながち間違いともいえないのがこういうジャンルの難しいところで、本作が大ヒットすれば、何年か後には名作のひとつとうたわれている可能性だってなきにしもあらず、ではあるのだ。

もちろんこれは安定株になれば、の話。
コラージュで難しいのは、毛色の異なる要素を反発しないように組み合わせることだ。闇雲に積み重ねてもただのごみの山になってしまうからである。バンド演奏や音楽の話をろくにしない軽音楽部が「有り」なら、戦争や戦闘訓練をろくにしない軍人の話が「有り」だっていい、と考えるのはまだ「有り」と思うが、そこにさらに「終わる世界」的ビジョンやら「天使になれなかった鳥の骨」みたいなものやら「旧世界を滅ぼした怪物の末裔」やら「生きている遺跡」やら「われわれは戦争をしているんだ」的なシリアス志向やらを積み上げて、破綻せずにラストにたどり着けるとそろばんをはじいたのは一体どんな誇大妄想の産物なのだろう。本作を見ておそらくもっと巨大な謎として残るのはそれである。

実際のところ、破綻はかなり序盤から出ていたわけである。はっきり言ってしまうと第一話からかなりおかしかった。戦争中なのに全然すさんでない町の風景とかもそうだが、それ以上にわかりやすかったのは、常識の欠如である。

ここでいう、常識の欠如、というのは、作中のキャラの言動が視聴者の常識から見ておかしいということではなくて、作中ではなにが常識であるのかという提示が全然なされないという意味である。たとえば、戦争がどういう理由で始まったのか、とか、今どういう状況になっていてどうなりそうなのか、というのを、登場人物たちがどこまで「常識として」知ってるのか、あるいは、知らないのか。この辺をおさえておかないと、視聴者はなにを基準に作中の物事を判断したらいいのかわからなくなってしまう。さらにはそれをふまえて、主人公の属する軍人という特殊な組織の常識と、一般人の常識の違いなんかも、きちんと見せていかなければ、ドラマを見せるのは難しい。視聴者の知っている世界とは似ているが異なる世界を舞台にしている物語なら、なおさらだ。カナタたちの世界の常識と視聴者の属する世界の常識が一緒である保証がなにもないからである。
わかりやすい例で言うと、『けいおん!』の主人公が二十五万円もするギターを初心者が欲しがる行為が、あの世界においても、「おもちゃじゃねえんだ!」と斉藤和義に怒られても仕方ないレベルの異常な行為であると視聴者が認識できるのは、あの世界が基本的に視聴者の世界と同じ世界であるとわかっているからである。『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』世界で主人公が同じことをやっても、それがどういう意味のある行為なのかは、視聴者にはまったくわからないはずである。

いや、わからないはずである、ではないかな。
実際、このアニメにおいては、なにが異常か、について、視聴者は最後までまともな情報を与えてもらえていないのだから、はず、どころではない。
たとえばカナタの絶対音感の設定であるけど、終盤の描写を見る限り、デビルイヤー能力も含んでいるようにみえるが、それは脚本のご都合主義や考証のミスとはあながち言い切れず、あの世界ではそれも「絶対音感」という言葉で表現しているのかもしれないわけである。
さらに、爆音轟く激戦地で戦車から全身を出してラッパを吹き、「連絡」するのも(危険という以上に、物理的に可能と思うことからして)視聴者的には明らかに非常識だけれども、あの世界では、あれが常識であるのかもしれないわけである。戦車の外に出ないとラッパの音を伝えられてないということは、聞く側も戦車の外に出ている必要がある気もするが、それもたぶんあの世界では常識なのだろう。
限りなく部活かサークルのようなとりでの人間関係だって、あの世界の軍隊の常識はそういうものであると、想像してあげることは不可能ではない。

まあ、こういう細かいところでの意味不明さぐらいなら、ただのミス、或いは杜撰で稚拙な設定というだけで弁護できるかもしれない。名作傑作とうたわれるものだって、そういう欠陥が指摘されているものは少なからずあるだろう。この程度の問題はたいした問題ではないかもしれない。
たいした問題なのはドラマの根幹にかかわるレベルでも常識が欠如しているところだ。このあたりが名作傑作といわれる作品との違いである。

考えてみていただきたい。
そもそも一体あの世界の戦争というのはどういうものなのだろう? いかにして勃発したのか? 休戦中であると説明台詞はあったがどういう状態で休戦中なのか? 国民はその戦争についてどう考えているのか(仕方ない戦争だとも思っているのか、政府の暴走だと思っているのか、もっとやるべきだと思っているのか)? そういった「一般人の常識」がろくにでてこないから、「軍人の常識」なんぞもしめされようもなく、当然カナタたちのそれも、あやふやなままである。軍人らしい戦争観なのか、軍人らしからぬ戦争観なのか、そういうことすらわからない。
これはドラマ作りにおいて、致命的である。というのも、彼女たちが本題である「戦争」に直面したときのリアクションの意味がまったく判断できなくなるからだ。
「砦の乙女」たちが戦争反対を叫ぶとき、それが無知からくる単なる感情論なのか、高度に政治的な理解に基づく反戦思想なのか、はたまた宗教的信念に基づくものなのか……?
いきなり謎解きミステリに変じられても困るのである。

その状況下での最終回である。つみかさねられた、あらゆる不可解、あらゆる齟齬、あらゆる手抜きが、一堂に会し、見たものは、後の世まで、それを見たことを誇りに思わず、二度と再び出会うまいとするだろう。
それは、そんな破綻の博覧会だった。

具体的に何が起こったかといえば――

何の根拠もしめさないまま「戦争はいけない」と命令無視で暴走し、実戦経験もない旧世界の超兵器スーパー?ことタケミカヅチ(だったっけ?)をなんのトラブルもなく使いこなして味方を蹴散らす「炎の乙女たち」(巨神兵だって王蟲の大群しか攻撃しなかったのに)。

イリア皇女の十八番だったらしいアメイジンググレースに、友軍全部のみならず、敵軍まで心酔。カナタたちの回想だと、あの曲といえばイリア皇女というぐらいの独占ぶりであったはずなのだが、二つの国を覆いつくすレベルの人気曲であったようだ。

そして衝撃のどんでん返し、伝説に異説があった! そのもの青き衣をまといて金色の野に降り立つべしは間違いで、赤い衣で銀の野に降り立つという伝説が隣の国では流れていました、という感じだけど、だからどうしたのだろうか? 異説が正しい根拠はあるのだろうか? もしもこの場面が、じつは伝説の真偽なんてどうでもよくて、後世の人は目の前の光景に都合のよいほうをこじつける、という「伝説の成就の真実」を描くつもりであったのだったら、このアニメでは数少ない成功ポイントである。謎の化石(焼いても燃えないし焦げもしない)については現在も稼働中の謎の遺跡ともども、第二期以降への遺産となる模様。

そして瞠目は、その停戦のさせ方である。あんな広い戦場で単管のラッパの音が漏れなく(戦車に乗ってる人にも)伝わるのもすごいが、マイクも使わずに、「勅令」を発して周知させてしまう皇女殿下の喉はすさまじい。さすが筋肉少女帯の新作に召喚されるだけの特殊ボイスである(個人的には声が安定しなくて苦手なんですが)。とてつもなく振動するであろう多脚砲台のうえでバランスをとるぐらい、その偉業に比べればたいしたことではない。
かりにも敵を皆殺しにする覚悟で戦地に赴いているはずの軍人さんたちが、鶴の一声で停戦を知らされたらあっさりよかったよかったと喜ぶ光景に、一体視聴者はどんな感慨を抱けばいいのだろうか? すでに書いたように、ああいう態度が軍人として正しくないと思うのは「視聴者の常識」であって、あの世界ではあれが普通であるのだろう。大学の卒業式よろしくみんなでヘルメットを投げているところも、こちらの常識とはかけ離れていることの暗示なのだろう。
だいたい皇女殿下が人身御供で輿入れすると停戦が成立する戦争とはなんなのか? あの謎に満ちた奇怪な傑作『ハウルの動く城』でさえも戦争の原因と終結への端緒は明らかにされたのに、この作品ではそれすらまったくわからない。「ローマ」は嫁が欲しくて戦争を仕掛けたのだろうか? 
 
エピローグは一見よくある「実はまだ二階にいるのです」オチのようだが戦争を止めるために輿入れした人が戻ってきたということは……じつはまだ戦争は終わっていないです、オチであるのかもしれない。あ、これは「ハウル」だな。

とまあ、ほとんどすべての場面が意味を成していないのである。あるいは、意味はどうとでも取れてしまうのだ。その点は、ある意味恐ろしいぐらいに一貫している。
そういえばオープニングのクリムトの引用も、梶浦由紀による印象的な主題歌(これは良い曲でした。シングルもジャケット以外は素晴らしかった)の「涙さえ君を留めて置けない」という死別を暗示するかのようなフレーズも、意味はなにもありはしない。

そうまさに「空の音」である。むなしく、からっぽの、ひびきだ。空飛ぶパンツの中身がからっぽだった『そらのおとしもの』のほうがよっぽど中身があった気がする。

しかしかわりに、ひとつ、大きな意味を持ってきたものがある。それは、枠名の「アニメノチカラ」という言葉だ。これはつまり、アニメノチカラは何処より生まれるのか? という問いかけなのである。それは、アニメ(動画)だけでは生まれないのだ、と。アイジョーユージョーオモイを重ねないと駄目なのだ、と。