予定を大幅に遅らせての第二部。前回『序』は封切り日から二日遅れの吉祥寺で見たのだけれど(当時の感想は、以前書いたものを手直ししてアップしてあります。こちら[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序] - 真空亭雑記)、今回は、実質的な新作であり、新作ならやっぱりミラノで見るのがお約束なのであり、同じ日の深夜にすぐ近く(歩いて五分かからない新宿MARZのライブイベントでデルジベットを見る用事もあるのであり、とあらゆる状況が公開初日に観劇すべきであると告げていたので、ここで逆らうのはむしろおかしい、と暮れなずむ新宿へ単身赴いたのでありました。ライブは午前二時過ぎとわかっていたので、八時過ぎに映画館に到着した後、八時三十分の回と十一時十分の回を続けて鑑賞。悪しき合理主義の化身のようなシネコンと違い新宿ミラノはまだまだ居続けが可能なのである。善哉。
 二時間かける二のワイドスクリーンバロック(文字通りの意味でもあるな)を堪能したのち、一時間ぐらいの爆音と光彩と妖艶の渦にもまれに行ったのでありました(こちらはこちらですばらしかったがそれはまた別の話)。

さて、どんな映画だったかというと――
 面白くなかったかどうかと問われれば面白かったと答えるだろうし、退屈したかと問われれば退屈しなかったと答えるだろう。と同時に、つまらなくなかったかと問われればつまらなかったと答えるだろうし、不満はないかと問われれば不満はあると答えるだろう。これはべつにひねくれているわけでもないしはぐらかしているわけでもない、素直な感想である。よく出来ているが欠陥も多い、そういうよくある映画だというだけの話だ。
 
欠陥とは、たとえば、公開前からわかっていた諸要素、新キャラのデザインの微妙さ(一人だけギャルゲーキャラのごとき装飾過積載状態)、相も変わらずな恥ずかしい響きの固有名詞群(ザ・ビーストだのネブカドネザルの鍵だの)、このあたりのことではない。このあたりは特に問題はない。新キャラ、マリはデザインの微妙さが気になるほど物語上で大きな役割を果たしていないし、恥ずかしい響きの固有名詞群はその相も変らずさによってみるものにある種の郷愁を呼び起こす効果がある。それこそ十四歳の自分に戻ったかのような。あるいは、『ヱヴァンゲリヲン』でなく『新世紀エヴァンゲリオン』にわくわくしていたころの自分に戻ったかのような。だからこれらは別によいのである。
問題はそんな表面的なことではない。


【以下、内容に触れる箇所もあります。まっさらな状態で見たいと思われる方はご注意ください】

 
この『新劇場版:破』、タイトルとは裏腹に,実は非常に「守り」に入ったつくりである。むしろ『新劇場版:保』と名づけたほうがいいのではと思うくらいに、前作『序』の成功パターンをなぞったつくりになっている。すなわち、極端化と単純化
極端化、それは例えばやたらとでかい施設の数々にそれは端的に窺え(明らかに産業も人口も衰退しているはずなのに)、物語の中心である使徒戦にそれはより明確に窺える。
すなわち、テレビ版にのっとりつつも、より凝った形態へ、より派手な戦法へ。前回はそれをヤシマ作戦だけにほぼピンポイントで使ったから、意外性もあり、盛り上がりもしたが、今回は出る使徒出る使徒そのパターンで、使徒が大量の血液になって街を押し流すあたりでもう「しつこいシトだよ!ゴクリ!」とかいいたくなってしまう。それはいってみれば「パターン:青」ならぬ「パターン:序」みたいなものだ。当然のことながら、『序』での新鮮さはそこにはない。同じように派手な映像、同じようにくどい展開、同じような大破壊、同じような大攻撃。
だから、第十使徒ゼルエルとテレビ版では呼称されていたやつである)が出てくるころになると、さあどこが変形するのかなーとクイズ気分で見ることになる。テレビ版と同じような形でできたのが後半違う形になったり、逆にテレビ版とは違う形で出てきたのが最終的にテレビ版を髣髴させる形態になったりと、なんだかんだで一見さんよりおなじみさんを意識したサービスが多いのも、メインの想定客は「第三十話」(「AIR」と「まごころを、君に」を第二十七、二十八話として数えた場合)を見に来た客であるという作り手の姿勢をうかがわせ、それは、やはり新規の客よりも「新しく変った点」を見せるのがメインだった『序』と同じである。ここでも「パターン:序」がたちあらわれている。いや、「パターン:保」のほうが適切だろうか。

純化はいうまでもなく、プロット面での整理が筆頭に上げられる。三号機関連のエピソードに関わる人物の変更と削減やテレビ版の第十九話「男の戦い」と第二十三話「涙」のエピソードの融合等々。これは二時間弱の映画三部作(予定)に物語を落とし込むにあたって当然のことだし、それにともなってキャラクターの背景事情なども削減されるから、当然人物描写も単純化していくことになる。今回でいうとアスカのキャラクターに顕著で、これ自体は特に悪いことでもないが、前回のレイと同じく簡略化したことで、そのキャラクター理解には「二十八話以前」の視聴が前提となってしまった。これは作劇的にけっこう痛い。
 前回と異なり、今回はヒロイン一点集中の構成でないぶん、さらに描写に尺が取れておらず、結果、『ヱヴァ』のみの観客にとって見れば、あからさまに話の都合で唐突にあらわれ、そして再び話の都合であっさり引っ込んでいくキャラクターにしかみえないだろう。それはちょうど、マリについて、馴染みの、(久米田康治ふうにいうならば)二十八見さまの客が受ける印象と近似なのではあるまいか。むしろ本作が久々の声優業復帰である宮村優子のアスカよりも現役バリバリの坂本真綾演じるマリのほうが存在感があるように感じる人だっているかもしれない。それでなくても、内面劇とトラウマの解消とシンジへの岡惚れ的なものを一時間ぐらいでやるのである。それもテレビ版とは違う設定を開陳しつつ――とこう書けば誰でもわかることだが、これはそもそも無理なお題目でしかなかった。「過去」の蓄積のある視聴者であっても彼女の「わたし笑えるんだ」という台詞になんの感慨ももてないし、それに続く悲劇もテレビ版よりも凄惨な映像であるにもかかわらず(あるいはそれだからこそ?)その衝撃は薄いのだから。

 前作を引き継いでいない部分ももちろんある。たとえば脚本はほぼ全面的に変っている。シンジのキャラクターなど設定等はぜんぜん違うのにパラレル設定の漫画『碇シンジ育成計画』を思い出してしまったし、彼をめぐって料理合戦的なものが勃発する展開もくだんの漫画にちかい雰囲気があるといえないこともない。ただし、キャラクターの肉付けが十分に取れている漫画に比べるとここでもやはり尺の問題が顔を出すし、それ以上に構成の問題が大きく横たわっている。構成の悪さが全体をギクシャクさせ、ある種のつまらなさを醸し出している。

 それは簡単に言うと抑揚のなさだ。同じようなテンションの「派手な」戦闘場面とちょっとした日常描写の反復。シリーズにおいて作り手がもっとも力をいれた「クライマックス」ばかりを並べた結果、それぞれの場面の迫力が引き立てあうのでなく殺しあってしまい、ひたすら単調になってしまう――というのは、総集編にはよくあることだが、オリジナルキャラまで作ったうえで全体の刷新を図った本作が、総集編であった前作以上に総集編的になってしまうのは本当に不思議である。あるいはそれぞれのエピソードを分割して、テレビ放映すれば、よりそれらしく見えた可能性もあるが、これはひとつながりの映画なのだ。
 もしかするとこれこそが『破』の「破」たるオリジナリティといえるのかもしれないが。オリジナリティの有無は映画の面白さとは必ずしもイコールではないのである。

それにくわえて、前作にはかろうじてあった全体を貫くドラマの欠如が作品の勢いを致命的なまでに減じている。展開が単調なだけでなく、物語を推進するエネルギーがないのだ。
見た人は冷静に思い返して欲しい。これはいったい誰の物語だったのか?
アスカのか? シンジのか? シンジとレイのか? あるいはマリ?
その全部、という人もいるかもしれないが、そうだろうか? グランドホテル形式にそれぞれのドラマが同時進行するというよりは、散発的に各場面でその場面の当事者が叫んだり心情を吐露したりしてその場面限定でドラマの主役らしく振舞っているだけではなかっただろうか? 
わかりやすいのは第十使徒戦だ。テレビ版ではさほど違和感のなかった(というか、考えずに感じるノリでごまかせていた)シンジの移動経路も、いろいろ小細工してる割にかえって無理筋に見えるのは、加持との対話パートと焼け落ちた畑の映像の対比が上手くいってないとか、マリとのやりとりが作為が見えすぎるという技術面の不手際だけでなく、そもそもシンジと「世界」とのつながりがドラマ的蓄積として存在しない――あるいは存在していても微弱な存在感しかない――ために「そういうつながりを失わないために戻ってみんなのために戦おう」と考えるシンジの気持ちに同調できないのである。考えることはできても感じられないのだ。
これは本編クライマックスのレイの救出劇にも同じことがいえ、ここでのシンジはほとんど別人のようである。心の補完とかいらないんじゃないの、と思えてしまうぐらいに。

とはいえ、(例によって)映像ショー的にはこれはいい意味でも「パターン:序」であって、つまりは、壮観。さまざまな欠陥を認識してなお劇場で見る価値はあるフィルムになっているとはいえる。特に完全に映画のみのエピソードである序盤は初見時はどうしても字幕パートを見ながらになるので、二度目に見たときのほうが細部までじっくり見られるので、新宿ミラノのように続けて好きなだけ見られるような劇場での観劇がベストであるだろう。前回は特に思わなかったが、今回はDVDが欲しい感じである。まああとから後から別バージョンが出そうでもあるから、最初のDVDは買わないかもしれないけど(児童ポルノ法が改正されたらそもそも発売されないかもしれないが……まさかあんな愚法を通すほど日本の国会が阿呆だとは思いたくない……)。

新キャラ、マリについてはパンフレットにあえて違和感のある存在として作られたとあり、実際そのとおりの印象なのだが、その違和感に意味がよみとれないので、すくなくても本作だけでは成功しているとはいいにくい。現時点ではあくまで「大人(製作者)の都合で利用されている」だけのキャラである。

音楽は今回はいまいち。よく知られた歌を挿入歌として対位法的に使うのは定番ではあるし、庵野監督的にも常套手段ではあるのだけど、さすがに二度三度とやるのはくどすぎるし、選曲もベタ過ぎて対照どころかほとんど絵解きの世界である。中盤の「朝の風景」的なシークエンスの爆音イージーリスニングも感心しない。嫌がらせのつもりならば成功しているが嫌がらせをする意味がちょっとわからないのである。

そういえば、今回は「虹」があまり出なかった。エンドロールを除けば、本編では一回ぐらい?


 次は来年……ではなく、どうせ再来年だろうか。(以下一応反転しておきます)サブタイトルは『急』ではなく『Q(Quickening)』(胎動)になったようだが、これは第四部の『?』=Questionと合体したということなのか、やっぱり『Q』『?』二本立てなのか。はたまた、二つが独立したということなのか。……とまあ、じらしたり気を持たせたりする技術は相変わらず天才的なのだった。