第七話「ミステリックサイン」

さて、今回は一話完結であるのだが、例によって例のごとく、微妙に消化がよろしくないのが実情であって、どこか奥歯に物の挟まったようなというか、やっぱり漫画でも途中から読むと楽しみきれないなあというか、そういう気分が消えないのが率直な感想であるのだが、それがなにに起因するかというと、具体的には今回のエピソードが、「ハルヒとは何者であるか」という問題にある程度決着がついたはずの「憂鬱」シリーズを通過した後の物語であるという事実にあるのであって、すなわち本来的には、この時点で視聴者とキョンハルヒについての情報量はほぼ同じ、即ち視聴者とキョンはほぼ同じ視座で事件に出会え、そうすることでキョンへの共感はたやすく、ハルヒの身勝手さに対する許容心もだいぶ増していたはず、というのが作劇上の計算に含まれていたと思われるわけなのだが(たとえば、ハルヒの都合の悪いことは見えなくなったり、「不思議」に全く気づかない性格、繰り返されるみくるへのいじめなんかも、「憂鬱」の結末を知らない現状では、困った奴という以上の感慨を抱くのは不可能なわけで。知っても変わらないかもしれないが)、そこを製作者たちがなにをトチ狂ったのか錯時法構成をとってしまったためにその計算が全て反故になってしまった、ということであるのだろうと推測されるのだ、と見終えた今現在ならば、美少女コンテストの候補者の群れに迷い込んだ糖尿病気味の関取を発見するぐらいの難易度で指摘することができるのだったが、見ている時はグダグダと続くキョウの語りにいらいらしたり、腐ってるかもしれない蕨餅をみくるに無理矢理食べさせるハルヒにいらいらしたり、一般家庭への録画機器の普及と視聴者のSFに対する予備知識に頼りきった長門さんの説明台詞にいらいらしたりしていたのであって、とてもそれどころではなく、いい加減この書きかたも面倒になってきたりする今日この頃でもあるのだった。
 
 普通にいきます。
 不連続にエピソードを配置するメリットはいまだ見えない。前段で述べたように、むしろ、マイナス点ばかり見えてくる。憂鬱シリーズだけではない。次回は、前回の孤島編の続きである。なんで今回、次回をやらないのか? 推理もので間を開けたら伏線の印象が薄れるから、作劇的に自殺行為であることぐらい誰でもわかるはずなのに。
 現時点ではともかく視聴者を撹乱して気を引こう、という第一話以来のコンセプト以外何も見えない。
 
 内容についても、今回の話はお世辞にもいい出来とはいえない。
 ようするに、ハルヒのわがままが周囲に悪影響を及ぼし、悪影響を及ぼされた周囲の損害をキョンたちが火消しして回るという、おそらくシリーズの定番の一つと思われる構造で、その定番の存在それ自体はけっして悪でないのだが、そこになんの工夫もなければ楽しく見るのは難しく、そういう場合に限っては悪といっていいのかも知れない。登場人物の関係性の進展があるわけでなし、楽しい会話があるわけでなし、意外な解決法があるわけでなし、ではいささかちょっと退屈である。
 致命的なのは、そういう定番のプロットを消化するに必須と思われる「視聴者のキャラクターへの理解」を決定的に欠いている点である。簡単にいうと、おなじみの面子がおなじみの馬鹿騒ぎ、という感覚の提供、ということだ。すでに書いたように、これは構成によって意図的に排除されている可能性もあるので、あるいはシリーズが最後までいくと、不満が氷解する……かも知れない。
 未来はどうあれ、現状では、淡々と事件が起きて淡々と終わる、それだけの30分でした。ひとことでいうと空虚。これでは困る。あるいは、変なCG昆虫やゲーム風の演出が楽しみどころだったのか? まさかねえ。

 あるいはもしかすると、これは作品のコンセプト自体が孕む欠陥ということがもできるのかもしれない。
 というのは、野球の回や、今回で示された情報からすると、ハルヒは目の前で超常現象が起きても「気づかない」のであり、さらには古泉やキョンたちはそのことをハルヒには教えない方針で事の対処にあたっている。これが意味することは、SF的難関が存在するエピソードにおいては、基本的にハルヒは事件の発端である以上には本筋には関われないのが基本という現実に他ならない。実際、今回にしても、キョンをワトソン役(たまに指示も)にした長門古泉による、Xファイル的トラブル解決譚になっていたわけで。つまりハルヒは事件の核心には居ても物語の核心には居られないのだ。タイトルロールは常に蚊帳の外。もしシリーズの基本が今回のような話ばかりだとすると、ハルヒ結構可哀想かも。タイトルロールなのに。

 細部あれこれ。
 ハルヒがコンピューター部の部長の名前を忘れているのは、それは本当に頭がいい奴なのか?  
 大体あの学校のパイプ机にあんなモニターを置いて、安定は悪くないのか? ちょっと机のかどにぶつかったりしただけで落ちそうな気がする。
 長門さんが読んでたのは神林長平の『膚(はだえ)の下』という本で、これは読んだことがないのだが、この人シリーズ物の後半ばかり読んでないか(これは三部作の三作目とのこと)。あとハードカバーばかりだな。持ち運び不便だろうに。
 コンピューター部部長の部屋に貼られたポスターが実写だったりするのもちょっと。ストパニのエンディングや三文芝居炸裂のハルヒVDCM共々空気が読めてないと思う。


蛇足。
 本作のエンディングテーマのシングルをオリコンチャート一位にしようという試みがあったそうな。

 かつての「『ハッピーマテリアル』をトップに!」運動のリベンジだとかいうふれこみだったらしいけど、あの時とは、まず曲自体が、好みもあるんでしょうが、アニメファンでも人前では聞けないような微妙な歌だったから、洋楽チャートのトップをA×C×(読み方は自分で調べましょう)の『皆殺しの唄』やペインキラーの『処女の臓腑』が占めたりとか、全米映画チャートのトップを何週間もパゾリーニの『ソドムの市』が占めたり、といった一般の紹介番組が確実に困りそうなシチュエーションをいとおかし、というような、パンキッシュというか、理屈をくっつければ、アンチマジョリティーとか反マイノリティー差別とかそういう言いかたも可能な、嫌がらせ、もとい反骨の精神もあったと思うのですが、今回の曲はそつのないただのポップスで、インパクトという点ではるかに劣るし、なにより二番煎じというのが、かっこ悪い。
 どこまで本当が知りませんが一人で数十枚買った人もいたようで。
 これって、むしろ、アニメファンとは同じCDを一人で何枚買ったりするような変な人たち、という、よりアニメにネガティブイメージを植え付ける結果になっている気がするんですが。街頭であのエンディングの踊りを踊って宣伝した人もいたとか何とか。やーめーてー。

 メーカー的には、記録も売り上げも目覚しい結果が残せて、結構なことだとは思います。五位も立派な結果です。儲けたお金は大切に使ってください。
 しかも、百人が百枚買ってくれるという一発屋でもできる売れかたでなく、十人で百枚買ってくれるような客層が見込めた、という心強いデータつきです。こういうお客さんって、鴨が葱を背負ってくるどころか、鴨鍋がこめんくださいと尋ねてくるようなものですよね。
 まあ、売る側でない立場からすると、ファンの大人買いでチャートインってのは、実は何の意味もないわけで。一般人がたくさん買ったのではないから、結局たくさんの人の耳に音楽が届いたということではなく、あくまで数字の上でのみ、「一般化」しただけに過ぎないのだから。
 ちょうど今週の話で、情報生命体のおかげでアクセスカウンターが増えたのをまるで実際の訪問者が増えたみたいに喜んでいるハルヒ、みたいなものです。ヒジョーにムナシー!
 あ、それを考えて、物語の流れをズタズタにしてまで今週にこの内容をもってきたのか?
 だとしたらすごいなあ、スタッフ。