第十三話「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅵ」
さあいよいよ最終回ね! はりきっていくわよ!
ふぇぇぇ。まだ、やるんですかぁぁ……。今日はけっこう長いのに・・・…。
まあ確かにいい加減しつこいですよねえ。変化球ばかり出していたら、まともに相手されなくなってしまいますし。そろそろ普通にやってもいい頃合いじゃないでしょうか。
肯定……今回は最終回感想というだけでなく、全話総括の意味合いも兼任……よって、通常形態による記述方式の採用を支持……。
ということであるので、世界人類のうちの一名ぐらいはあるいは期待していてくれたかもしれないが、しかし残念ながら今回は上記のように、通常の形式での記述という事が提案され、そして決定するに至ったというわけなのであり、而して、以下よりは通常の形式での記述が実行されるわけなのであった。うむ、なかなかいい感じだぞ。
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というわけで最終回を迎えましたな。見終わってまず思ったのは、
「これ全部キョンの妄想なんじゃ?」
ということでございました。これは、キョンイコール作者、およびキョンの妄想イコール作品という意味でのメタなレベルの分析ではない。
ハルヒという人間と出逢い、退屈な日常が幸運な朝食、じゃない、ささやかな非日常に変わるということを願っていたのは、実はキョンであったのではないか、ということである。
つまりこういうことだ。
世界を変える力を持っているのはキョンで、しかし常識に囚われているがゆえに自分にその力があることは認められず、ハルヒという自分の妄想の受け皿になりそうなクラスメイトにその力を仮託することで、間接的に世界を変えようとしたのではないか、ということである。
もしかするとハルヒという人物自体、キョンの作り出した存在であるのかもしれない。
と、こう考えるとすべてのつじつまが合うのだ。
何故、目の前であからさまに超自然現象が起きていてもハルヒは看過するのか?
何故、ハルヒのために集まっているはずの宇宙人未来人超能力者は揃いも揃ってハルヒよりもキョンに好意を寄せるのか?(特に長門、緊急事態でもラブモーション――図書館云々――に抜かりなし)
何故、キョンの妹は妹キャラのテンプレみたいなキャラなのか?
何故、ミクルはいつも鍵をかけずに着替えをするのか?
何故、キョンとミクルがくっつきあっているときにいつも都合よくハルヒがくるのか?
何故、ハルヒが直接事件に遭遇しないことがあっても、キョンが遭遇しないことがないのか?(一人称だから、というのは反論としては無意味。キョンの知らないところでおきたとされたことが真実に起きたという保証はない)
何故、普通の家庭に育っているはずのハルヒにかくも生活感がないのか?
ハルヒが望む世界を作ろうとするなら「キョンもろとも」新しい世界を作っても何の問題もないはずであるのに、なぜかキョンだけはもとの世界のキョンを呼び寄せたのはなぜか? まるで「キョンに止めてもらうために」呼んだようではないか?
キスして帰還というより、帰還のためのキスってハルヒ的にはあんまりでは?(「我が唇はリターンキーか?」って言う)
そもそも、ハルヒは何でキョンのことを好きになった?
これらはまるで「ハルヒの力」がキョンのために作用しているように見えないか? キョンが幼少時の願望を現実化してもらい、キョンがハーレムをゲットし、キョンが眼福を得る。それも、「偶然」「不可抗力」「知らなかった」という、都合よく心理的アリバイの成立する状況ばかりで。そしてハルヒは永遠に真実に辿り着かないから、永遠に非日常を求め続け、現状は永続される……。
たとえば、ライブにしても、ハルヒ自身はライブをやることを望んでいなかったかもしれないが、思い出してもらいたい。キョンは「すでに十分退屈していた」のである(焼きそば屋以外はそもそも見るものがなかったし、そのことは事前にわかっていたのだから)。
そう考えてみると、ラストのキョンのハルヒへの同級生に対する視点とは思えない親父臭さも納得がいくのである。いってみれば一種の「父親」なのだから(奥さんは長門ですな)。
……というのはまあ、単なる妄想であって、これが作品の実像であると言いはるつもりは毛頭ないけれど、時系列の交錯でキョンと視聴者の溝を思いっきり深め、かつ各種「その後の話」でサスペンスを減じ、べたな伏線と、やっぱり「事後」のトークとで落ちを見え見えにするという、作品を楽しませる上でのメリットを限界まで減らした上、かつシリーズの結論的位置に、友達として一緒に歩く「サムデインザレイン」でもなく、ふたりで未来を見つめる「ライブアライブ」でもなく、この保護者視点炸裂のエピソードを持ってきた――というのは、もしかしたら、作り手にそういう深読み(キョン=絶対者)を期待する向きがあるのだろうと推測するのは、猿にタイプライターで無作為にシェークスピアの詩文を打たせる根気があれば、たぶんできることであると思う。
ようするに、変な小細工をしないで順番通りに話を進めていれば、もっと普通に見られたんじゃないかな、ということである。ちょいと小奇麗な作画で、いささか斜にかまえたところが鼻にはつくが、気晴らしに見るにはいい感じのスコシフシギ学園コメディ、というような見方が出来たんじゃないかなと。きっと、たぶん、もしかしたら(お好みの単語をお選びください)。
さて、最終回についていうと、映像的には最終話だけにそれなりに盛り上がっていたかな。不安になっていたハルヒが、校舎を見回ると称して一人歩きしだしたとたんにんまりしたのはホラー過ぎるし、キョンの妹のリアクションはやりすぎだし、マーラーの千人の交響曲はこそばゆかったけど(「狙ってます」感がいっぱいになるせいか、真面目なシーンでクラシックを使うのは難問であると改めて認識。エヴァの第九やハレルヤ、ラーゼフォンのワーグナーも恥ずかしかったし。かっこいいと思えたのは、るろうに剣心の悲愴ぐらいかなあ)。
あと、放置状態の伏線や謎があるのもなんとも。
大人みくるの「ヒント」が時間干渉になるんじゃないのかとか、みくるの存在意義は神人の発生要因ですかとか、キョンの服が制服になっている時点で、それは転送じゃないじゃんとか(どうせハルヒにとってもっとも身近なのが制服を着たキョンだというような半端な理屈があるんだろうが)、そういう細部はたいしたことじゃないからいいとして、第一話からひっぱった喋る猫やミクルビーム、「三年前に何があったか」(これはわかると思ったんだが。どうせ三年前にキョンにあっているとかそういうことでしょう)、そして、エンディングで延々映していた「七夕」がらみの何か。二期の宣伝には早過ぎませんか旦那。まあ、「あのね」ってやるよりはいいけどさ。
ともあれ、そんなこんなで、うんざりしつつも最後まで見てしまったのだから、なにを言おうとスタッフの掌の上なのかな、と思わないでもないが、ソフトを買おうとか何度も見ようとはとんと思わないシリーズではありました。
火をつけた爆竹を群集に向けて多数投げつければ、話題の人にはなれるけど、誰も「たーまーや―」と言ってはくれないのである。
そういうものだ。