第八話感想補足、あるいは存在と認識

何日かまえに八話感想の一部が2ちゃんねるに引用されて、数名の方がその内容についてコメントを書かれていました(*出典は末尾に)。

そのこと自体は別にどうということではないのですが、それがいささか見当はずれの内容だったので、ここで若干補足をしておきます。こちらの表現不足のせいでもあると思うし、同じような誤解をした人がほかにもいるかもしれませんしね。気になる方はお読みください。

 お題はというと、「充分に複雑なデータを有するデジタルな虚構は、アナログな現実と区別がつかない」に端を欲する、キョウの悟りの是非についてなのですが、重要はコメントは以下の二つ。

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75 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で :2006/05/28(日) 01:34:53 id:VbFgOT9k
「充分に複雑な」てのが書き手の逃げ。認識の問題と
存在の問題を混同してるだけで大したことは言ってない。

82 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で :2006/05/28(日) 03:06:24 id:H2phMBgV
〔前略。クラーク風箴言についてはおおむね肯定とした上で〕
ってかそれあんま関係ないよなこの文章で。問題は
>彼の主張は、あの世界が作られたもの、模造だからアウト、だった
 はずなので、それすらも否定しないと、本来はおかしい
部分と
>そのレベルの議論を越えて、つまりデジタルであることをそのことを
 もって否定しないで、現実とはなにか、
 と考えてようやく悟れるはずなのではなかろうか?

の部分が整合的ではないということ。上>>75でも出てるけど
アナログ(現実)とデジタル(虚構)の>レベルの議論=存在論的言明で
そこを超えてというのは存在論の議論は置いといてって読めて、現実とは何か
というのは、明示されていないが「現実」とはどう認識されるか、認識するか
という認識論的言明を行ってる

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75と82は違う人のコメントなのですが、こちらの提案する「現実と区別がつかない虚構」に対峙する思惟を「認識論」としている点では共通しています。

 実はここからして違う。

 もともとクラーク風箴言はその前の回の感想での「物理現実も究極的にはデータの集合体」からひねり出した言葉なのですが、ようするにここでの「区別がつかない」というのは観測者の認識の問題というよりは、「ふるまい」の同一性を言っていたわけです。これは、アナログな現実もデジタルな虚構も存在論的には等価であるということを意味します。いってみれば、「組成」が異なるだけのもう一つの世界なわけです。

 つまり、「充分に複雑なデジタル」とは、認識論的に違いが存在しないだけでなく、存在論的にもアナログに劣るものではない。それはもはやどちらも「現実」といっていいでしょう。
 であるならば、「現実」の定義に従来の二分法は無効です。認識論であろうと、存在論であろうと、それは変わらない。
 「デジタルであることをそのことをもって否定しないで、現実とはなにか、と考えてようやく悟れるはずなのでは」というのはそういうことです。

 キョウはそこに気づけなかった。存在論と認識論の混同という言い方は、むしろキョウの思惟にふさわしいですね。認識論で否定できない世界を(今まで気づいてなかった)、存在論で否定しよう(「造り物だろ!」)として、結局認識論で肯定してしまった(「暖かい……」)わけですから。

 それでは駄目で(それを「越えて」)、虚構=デジタル/現実=アナログという古典的な存在論の刷新――現実の再定義にこそ、キョウの悟りの道はあったのではないか、というのが八話感想で書いたことだったわけです。

 ご理解いただけると幸いです。



ZEGAPAIN -ゼーガペイン- 第15章
 http://anime.2ch.net/test/read.cgi/anime/1148703799/ 
(現在はもう読めません)