第九話

  媚びることしかできないか
  媚びることさえできないか
  感動なんて知らない
 

などと先週に引き続いて名曲(それもMJQバージョン)が脳裏に流れていたりする、まなびストレート。コルダのあとだと、その寒々しさが引き立っていいですね。

その、妙に打算や距離感が消えない人間関係はリアルといえばリアルで、その描出が狙いであるならこれは大成功といえるけど、おはなしのクライマックスは例によってべたべたな「感動系」な展開だったりするわけで、しかもそれが視聴者をあえて退かせるつもりなのではとかんぐりたくなるぐらいに大げさでくどい演出となると、これはともすれば遠大な嫌がらせなのかと思ったりもするが、そうすると前段のリアル風との帳尻が合わないという、結局作り手の意図を測りかねる仕上がりなのだった。

もちろん意図がよくわかるパートもある。
たとえば、唐突に出てきた学園町の寮時代の話とか――「失敗」の過去に対する「成功」の現在、という位置づけだろう。にしてもこの世界の人間はなぜにかくも全共闘スタイルが好きかね。
あるいは、しょぼいアイドルポップ風新校歌プロモーションクリップ対現行校歌(いつバックトラックをつけたのかしらないが)つきブレアウィッチプロジェクト風ビデオのシーンとか。
なおこのふたつは、事態を打開するためのとってつけたような展開に見える、という点でもよく似ている。旧態の学校を愛して止まない校長は、しかしそれを維持するための努力をちゃんとしてこなかったわけで、あちらの理事長と掛け合ったという形跡もない。また、突然スポットがあたった桃の人は(小鳥でおどりと読ませるのは、実在するのか?)、今までのこういうことをするようなキャラクターにはまったく描かれてなかったわけである。しかも今回も別に他の生徒会メンバーメインの回のような内面のほりさげがあったわけではないのだ。

にしても、見れば見るほどアイコウ学園理事長の言い分のほうが正しいようにしか見えないのはどうなんだろうか。学生だって学校だけが世界の全てではないのだ。むしろ、学校が全てと思っているまなびのほうがおかしいのではないのかしら。彼女がパラノイアックになる理由は前回一応説明があった(すでに書いたように相当苦しかった)けれども、この方面においてはこのキャラ、宇宙人というよりはむしろ古典的な価値観の持ち主である。団塊の世代以前というか。このアニメのスタッフ自体はそんなに古臭い価値観を信奉しているようには見えないのだが(というか、自分たちの主張を信じているように見えないのが問題なのだろう)。
 
で、次回は、いよいよ結果が出るわけだが

  茶番になったらー
  よーろーしーくー