第八話「たたかえ聖桜生徒会」

 今日まで、あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である
 今日まで、あらゆる階級闘争の歴史は敗北の歴史である

 全国のプロレタリアートよ、団結せよ

とやってくれたら、絶賛したかも、と思わないでもない、学生闘争ネタが異常にさむい第八話。
世代的にそれを体感している押井守がある種作家的必然を持ってやっても寒いネタなのに、たぶんなんの関係もないスタッフが、なんの必然性ももたずにやって、寒くならないはずもないのだった。

思うに財政の逼迫による経費削減――イベントの強制終了という生徒の力ではどうにもなりそうにない問題をあっさり解決するための策なのでしょうな。つまり、茶番劇にしてしまえ、と。
まなびのお兄さんの彼女が統合先の高校の理事長であるという、ご都合主義以外のなにものにも見えない設定も、彼氏といる(話す)ときと仕事中で別キャラになるのも、おなじ理由による。当然、まともな世界ではありえない学びやむっちーの教師に対する暴力も、クライマックスの大げさな演出も同じだ。嘘くさければ嘘くさいほど、いいのである。

そんな無茶をするなら最初からそういう問題を出すなよ、という気もするが、まなびの理想とする学校像――ただ勉学を治めるだけでない生徒たちの共有空間――を、彼女のバックボーンと絡めて、掘り下げたかったのだろう。
もっとも、学校を転々とした人って、まなびみたいに学校が世界というような共同体幻想をもつより、よりドライな感覚で学校というものを見るのが基本である気がするし、そのうえ、相手高の理事長の言ってることのほうが正論に見えるのがまずいですな。

話としてはどうせ、次回まなびたちの努力で生徒たちの署名が集まり、学園祭が実行されるのだろうけど、まなびの望むような学校モデルはこの現代でさえも既に時代遅れ(*)なのに、未来でそれを実現してハッピーエンド、というのはそこにいたる展開以上に茶番劇になってしまうような気がする。

にしても五人目の人は本当に存在意義がないな。

(*) 学校論を語る気はないが、いわゆる学級崩壊やら教育の問題はそういう旧来の教育モデルの維持が限界に来たということだと思う。
学園祭にしたところで、実際のところ、学園祭って、「友達が」やっているとか「学校で」やっているとか「自分がやっている」というような、イベントそれ自体の面白さとは違う魅力によって成立しているわけで、ものだけ取り出してみたら、所詮、素人展示、素人縁日、素人演劇でしかないのだ。