第七話「なつのおしまい(ばいばい)」

まなびが前面に出てきた途端に屈折するまなびストレート

彼女が中心にいると、お話が「まなびの頓狂な言動が、じつは正鵠を得ていた」――つまり、「まっすぐでゴー」の伝家の宝刀で閉塞状況を叩き斬る――パターンしか出来ない(『苺ましまろ』の美羽みたいに、ドツキ落ちとかができない)わけだが、そうであるにもかかわらず、お題が、ただの地道な「文化祭の準備」という、件の黄金パターンにはもっとも不向きな状況、言ってみれば宇宙人が宇宙人であってもなんの意味ももたない状況である場合、正攻法が戦法としてハナから捨てられているのは、ある意味、必然の展開ではあるのだが、かわりに持ち出してきた手は、あんまり自慢できるようなものとは言いがたい。
たとえば、みんなをプッツンさせて『アマデウス』の病院の患者みたいな行動を延々とやらせるとか(決め台詞の「まっすぐでゴー」をああいう風に使うのは「全力」を自らネタにしてしまったコードギアス並に自爆行為であると思う)、カットアップ的に脈絡無くソフト部員のエピソードをやって見せるとか、メインのストーリーで定番が出来ない埋め合わせをやっているのが見え見えである。
もちろん、本筋は単なる縦糸にして、アンソロジー的にネタを羅列して楽しませる方法論自体はあるし、そのことを自体は否定しない。苦肉の策であることがあからさまであっても、それ自体は問題ではないだろう(そこまで展開してきた内容、手法との齟齬はもちろん批判しうるが、それはまた別の話)。面白ければ、なにをやったっていいのだ。

おもしろくければ。

今回の問題点はようするにこの一点にすべて集約する。端的にいってつまらないのだ。まなびたちの奇行は不気味なだけだし、ソフト部はただの時間つぶしにしかなってない。

後半、貴子さんが出てきて、事態は打開するようにみえるが、差にあらず。まなびの幻視を貴子さんが共感できないくだりは、演出的に気合を入れたたと思しきシークエンスを長々と展開しているわりに、すべてが終わったあとの孝子さんの述懐が無ければ、あの場でどういった交感とすれちがいがあったのか確定できないという、作り手の独り相撲に終わっている。それこそ、まなびが自身の幻視を相手に共感させられなかったように。作品レベルの失敗と、作中のキャラクターレベルでの失敗を重ねるとは、なんとも手のこんだ仕掛ではあるが、後述する例のように、そこからなにかが見えてこないと、意味がないのである。

次回への引きである。学校のっとり展開も唐突だし不自然すぎるしで、あきれるくらい盛り上がらない。だいたい、一日が異常に長い、とか、直射日光のもとで寝るのは危険すぎるとか、いろいろと粗雑だったりご都合主義的だったりするところ目立つ。夏の終わりの物寂しさも、ともだちと一所懸命に作業した充実感も、(宿題が出来てない)切迫感も全部狙って、全部しくじったという印象。

・・・

さて、ここからは、前半の総括的な話。
以前から気になっていたことにたいする明確な答えが出てきたようなので書いておこう。

なんのことかというと、視点の話である。
この話の視点はどこにあるか。この物語は誰の視座から語られているのか。

みかんだろう、とまあ普通は思うだろう。確かにそういうところも多い。しかしたぶんそれは「仮の」ものなのである。正確には、みかんの視点と、語り手の視点がかなり近いので、おおむねみかんの視点に重ねられているだけなのだ。

違和感は初期のころからあったはずである。OPに始まり、なぜこうも「カメラ」を意識した映像ばかりなんだろう、と。もともといろいろ凝ったことするメーカーなので、単なるカッコつけのようでもあるが――そういう側面も無論あるだろう――、それにしたってやりすぎなくらい繰り返される「第三者」的な映像の数々。まるでもう一人カメラマンがいて、記録映像を撮っているようですらある。

そう。つまりは、そういうことなのだ。生徒会のメンバーを描くとき、彼らの目の高さで描くよりも窃覗的であったり俯瞰的であったりすることが多いのは、これが本質的に彼女たちのドラマではないからなのだ。これは、彼女たちを「眺める」ドラマなのである(教師や外部の生徒描くとき、冷淡ともいえるぐらいそっけない演出であることが、逆説的にこれを証明しているとも言える)。
それはちょうど林原めぐみのうたうOP曲のCMの映像がしめすように近過去への回想であるのかもしれないし、あるいは単にありえたかもしれないというだけの願望の青春時代のシミュレーションであるのかもしれないが、ともかく、そのなかに作り手は(そして視聴者は)いないのだ。
また、視点が当事者に無いことは、本質的に「無縁の他者」に対するまなざしである「萌え」的な感覚を発生させやすく(*)、それがようするに一連のわざとらしい「萌え」演出を生んだ理由であるかもしれない。

と、ここまでくれば、みかんが「仮の」語り手として選ばれた理由もわかるだろう。彼女はまなび以上に生徒会のメンバーを結ぶ存在であるが、完全には打ち解けきれず、常に一歩引いたところにいるのだ。それはたとえば、今回の、阻害される不安を表象する夢と、プールに入らないで花火を打ち上げるシーンにそれは端的に示されている。
彼女はいちばん「外部」に近いのだ。あの場面でのみかんと他の四人との距離感がすなわち、作り手と作品世界との距離感であるのだろう(これがすなわち、作劇と内容が上手くリンクしている例である)。
(カメラマンキャラが別にいるのはアリバイみたいなものである。その証拠に彼女はストーリー上、いまのところほとんど存在意義がない)。

方向性が見えてくれば、問題点の指摘もたやすくなる(少なくても推定するにあたり根拠は充分にあるということになる)。
もっとも、この場合その問題点ははじめからほとんど明瞭で、本質の解明は推論の補強にしかならないが。

もう、おわかりだろう。まなびが問題なのだ。正確には、まなびがこのまま変化がないままだと、凄く問題になるのである。
理解できない宇宙人とは友情は結べないし、理解できない宇宙人と青春の思い出を作ることは出来ない。「異質なものと対するときに重要なことは、それが異質であるということだ」というベンフォードの言葉そのままに、まなびが異質な存在のままドラマの中心にいるかぎり、まなびストレートはずっとファーストコンタクトSF――それも不首尾に終わる類の――になってしまうのである。

その場合、この作品の演出意図はたぶん、徒労におわるのだ。本作の、丁寧な作画や凝った演出が、ドラマの面白さになんら貢献しない「無駄」になる――ただ映像だけ凝っているアニメになる――かどうかは、彼女の存在(の変化具合)にかかっている。なんといってもシナリオレベルでは、今までたくさん指摘してきたとおり、既にあちこちで破綻と強引に満ち溢れている。ここが最後の砦といっても過言ではない。

さて、どうなることやら。


(*) 他者でない、ごく親しい存在への「萌え」とはおおむね「愛情」と呼ばれるのである