第六話「露を吸う群」

蟲にとりつかれることで、幸せを見つけてしまったものと、それを利用して無関係に幸せを売ろうとしているものの話。
後者は当然のことならが「人の罪」であるので裁かれるが、前者は裁きようがない。蟲はあくではないし、蟲の世界に魅入られるのも「生けとし生けるものならば仕方ないこと」であるからだ。生命の根源に触れて生きていこうとするものを、ギンコが、ひいてはこの物語が、否定できるはずもないのだ。せいぜい「置いていかれた側」のやるせなさを描くしかない。
村の長などを前面に出して、サスペンス&アクションにも出来そうな内容を、不自然なぐらい静かな芝居にした(たとえば、あっさり検診と治療が出来てしまうとか)のが、テーマの重さを伝えるのに上手く役立っている。

この話、考えようによっては、麻薬中毒を肯定するような、危険な主張をはらんでいる。麻薬中毒も社会的な問題(労働力の消滅、貧困層の増大と、薬物入手のためのモラル低下)を除いてしまうと、非常に否定しにくい快楽ではあるのだから。この蟲にしても、養ってくれる人々がいなくなったら、アウトなわけで、麻薬のもたらす各種の弊害のうち「耽溺」以外の要素を都合よく取り除いただけのものということも可能なのだ。『天保異聞妖奇士』でもやっているように、「あちら側」を求めすぎたものは、畢竟、この社会と相容れないのである。ただ、「あちら側」が大いなる自然(あやしで云うなら異界)であるのか個人のインナースペースであるのかで、なにがしかの違いがあるように見えるだけなのだ。