第十一話「遠い隣人」

これは素晴らしい。シリーズものの展開としては理想的な「フォーマットを壊さずに新しいドラマ性の獲得」というのをやっています。

あるいは猫好きにしか伝わらない要素があるのかもしれないエピソードではあるが、たぶんこのアニメを見た、なべての猫好きには強く支持されるエピソードであるだろう。

感のいい人は、カットバック風の序盤と、再現映像スタイル(ナレーションとキャラが地獄チームの持ち回り)の二点から思惟をめぐらしてオチが早い段階で読めたのだろうけど、もともと騙されやすい純朴あたまな上に、猫がいつ殺されるかと不安で不安でとても先読みする余裕などなく、結果、どんでん返しのカタルシスを心地よく味わうことが出来たのでした。なにか負け惜しみっぽく聞こえるかもしれないが、こういうのはむしろ「騙されるが勝ち」なのである。
つまりあれだ、『アクロイド殺し』とか『ソウ』とか『時計館の殺人』とか『メメント』で、初見からオチを先に知ってたら面白いかどうか? そういうことである。
これは妄想で言っているのではない。『ファイトクラブ』や『アザーズ』なんかで中盤で予想したとおりのオチが大盤振る舞いされてしまったときの、なんともいえぬ哀しさを今でも忘れません。(『ヴィレッジ』なんて、映画館全体に沈んだ大気が満ちていた)
そんなわけで今回の地獄少女はとてもいい観客になれたわけだけど、見終えていい気持ちに慣れたかというとそう言うわけでもないのが、このシリーズの味である。DVDの宣伝で「憂鬱アニメ」と自負するだけのことはある。

依頼人の恐怖と苦痛と悲しみを体感させられたターゲット、そのターゲットもある意味被害者であること(対話能力の欠如は、本人のせいであるとは言い切れない)。それを全てが手遅れになってから、まるで「呪い」の現世での代償のように知らされる依頼人
とくに、壁中の猫好きならではの猫写真の数々と、束縛(直接的な拘束でなく、水入りペットでのゆるい拘束、というのがまた哀しい)から解放されて彼女の家に悠々と戻っていく猫を写したシークエンスは強力で、後者は地獄チームの持ち回り再現劇以上に鮮烈にターゲットの感じた喪失の恐怖と苦痛と悲しみを依頼人と視聴者に体感させる。

今回の物語の人間たちには悲劇しかない。幸せなのは猫ぐらいである。
個人的にはシリーズ屈指のエピソードであると思う。

ただし、どんでん返しを狙うあまり、いささか強引なミスディレクションをいくつか行ってしまっているのは惜しい。

たとえば、一応真相へのヒントにもなっている、ターゲットがあげていた餌の器だが、そもそも、ある程度までなついた猫は時間帯も覚えるから、そもそも依頼人と会わない可能性もあるが、まあそれはおくとしても、猫好きなら、餌を蛆がたかるような状態まで放置することはまずありえない。猫好きなら確実に日参(ないしそれ以上)、猫のところに行くだろう。
脅迫状もおかしい。手紙によるコミュニケーションができるなら、「その猫はわたしの猫です」とか書きそうな気がするし、ただ外で餌をあげていただけという心理から所有欲を出しづらかったり、そういうものは持つべきでないと思っていたにしても「捨てろ」という強くネガティヴな言葉を使わないだろう。「ネコヲハナセ」辺りが妥当ではないだろうか。
あと、これは言いがかりに近いが、猫は飼い主の睡眠時間に合わせて寝るようになることが多い(作中でもちゃんとそうしてた。寝相が最高とか思ってニマニマするのは100パーセントこの文章を書いているような猫馬鹿である)。もし、ターゲットがそのことを知っていたら、飼い主の睡眠を邪魔するようなことはしない。なぜなら、猫の睡眠も邪魔することになるからである。
 あるいは、これらは全て、ターゲットの想像力の欠如であるとか、知識不足であるとか、精神的な障害の産物であるという弁護も可能かもしれない。しかしそれは違う。そういうターゲットであるならば、同情の余地はないのだ。この話は、ターゲットもまた、主人公と同じぐらいの猫好きである――すなわち、それなりに猫について理解があり、その生活を想像することの出来る人である、という「真実」があって始めて成立するものだからである。

 それにしても、袋の中のミンチ肉のシーンは真相がわかった今思い返すだけでぞっとする。ネタの勝利でもあるが、演出力の勝利でもある。

あ、岡崎京子の『リバースエッジ』を思い出してしまった。うーむ、どうしよう。