第八話「あさっての方向」

からだ家出編。
ストーリー上も設定上も、ほぼ確実にうまくいくことがないとわかっていること――職探しとか――を、試みる描写が延々続くのは見ていて疲れます。面接のおばちゃんとか、からだのリアクション等で、息抜きをはかっているのはわかるのだけど、そもそも、からだと兄との馴れ初めや、からだの現状へのわだかまりを描くのにこの展開が必須だったかというと、少し考えてしまうのである。都会イコール怖い場所みたいな描き方も安易で、それがからだの内心の不安の反映としてというならばまだしも、作り手の主張みたいに見えてくるのがどうにもこうにもくすぐったい(そういえば、『藍より青し』の冒頭でも、「都会ってば……」みたいな描写があったが、地方の人にしてみるといまだそういう印象なのだろうか?)。

さらに、せっかく一話を費やして描いた、からだの過去描写もいまいち。
なぜ、「兄」が自分を認めてくれない、と想像できるんだろう? 描写されたかぎりでは、両親がからだを「義理の子だから」疎んじているようなことは一切なく、つまり、義理の子であることが家族関係においてネガティヴな要因になりうると、彼女が想像できるとは思えないのである。愛読書が醜いアヒルの子だったりシンデレラだったりしたならばともかく、「兄」も自分を「妹」として認めることが当然であり、そうならないことを想像するほうがむしろ難しいのではなかろうか? 

そのあたりの不可解さが前面に出てくるのが葬式のシーンで、寝ている幼児を一人置き去りにしていなくなる親族というのはまあイメージシーン的なものとして処理してもいいと思うが、二人が出会ったとき、あの時点でからだの脳裏にあった「兄」が「もしかしたら自分を認めてくれないかも知れない者」であるというのが、いまいち実感を伴わないため、彼女の置かれた情況がぼやけ、結果、からだの視点からも兄の視点からも共感しにくい場面になってしまっている。二人の物語としては、彼らの関係を決定づける最も重要な場面であるのに、である。
 あそこでは、むしろ、あの兄の本質的に他人への配慮がない性格(帰国して、彼女の元に戻らない理由を説明しないとか、今回も椒子さんに向かって「まだこんなの持っていたのか」とかいってましたな)を活かして、初対面のからだにも「誰ですか」とか言っていたほうが、その後の妙に距離のある会話や、からだが罪悪感を抱えていること、家出の理由等にも説得力が出ていたような気がするのだが……。

とまれ、背後関係も見えてきて、それぞれが抱えたものをぶちまけての再編成オチは見えてきたので、ドラマとしての先行きは明るい。ひと夏の物語、ということだから、変身も戻るんだろうしね。にしても、トラウマの解消とか、癒しとか、修羅場とか、どこまで言ってもエロゲーテイストでございます。

今回一番変だったのは、からだ失踪から一日以上経っているのに、椒子&兄が前回とほぼ同じ体勢で同じ写真を見ていたことですな。都会の一日は田舎の数分? あと、「ゴヒャクカワさん」といわれて「はい? うちはイオカワです」と答える兄も変だ。あの間違いには絶対言われ慣れているはずだから、対応も慣れているだろうに。