第六話

前回よりさらに失速。

原因は簡単、少尉の退化である。馬鹿でもいい、空気を読んでほしい。はっきりいって闇屋の親分のような人物の言うことがすべて正しい。
あるいはスタッフとしては、終盤、少尉が「戦後の混乱の中で、たった一人の孤児の親を探す無意味さがわかっている。でも……」という述懐を始めるくだりで、今回の主題を説明したつもりであるのかもしれない。すなわち、現実を見つつも理想をもまた貫かんとする少尉の一途な人物像の描出、ということだ。

しかしその述懐がなんの弁明にもなっていないたわごとではしょうがないのである。
無意味と判っているというのならば、最初から探さないでほしいものだ。「でも」もテロもない。少しでも現実が見えていれば、孤児の親に子供を育てられる算段がないから捨てたということも十分に考えられるはずなのだ。困窮の中で親とともに餓死するのと孤児として生き延びるのとどちらが幸せかは結局本人が決めることかもしれないが、決定するにはとりあえず生きていないとならないのである。
ようするに、わざわざ一話さいてスタッフがなにを伝えられたかというと少尉が現実が見えていないアホキャラということでしかないのだ。

ではどういう話にすればよかったのか? リアリティを追求して孤児は孤児として救護院にでも送るという話にすればいいのか、というとそれはそれで後味が悪いのでやめてほしいところである。それでは「現実」と大差ないからだ。どうせ「絵空事」ならば、母親が戻ってきてめでたしめでたし、のほうが良いに決まっている。しかしすでに書いたようにそれでは少尉の馬鹿さ加減を強調するばかり……となると道は自明である。こんな話はそもそもやらなければいい。戦後復興の名の下に弱きを助け強きを挫く、蛮勇と公明正大の人々を描く娯楽ものに徹していればいいのである。真面目ぶるならそれ相応の器が必要なのだ。