第二十六話「森羅万象(ありとあらゆるもの)」

サブタイトルとは裏腹に、ありとあらゆるものの存在を肯定するわけではなく、主観的に気に入らないものはみんな排除すればそれでハッピーエンド、という素敵な最終回。
その、どこまでも熱血ロボアニメ的なドラマツルギーから逃れられないさまは、いくら電車に乗っても東京にいけない舞浜サーバー住人を思わせますな。やっぱり実はすべて「ゼーガペイン」ってゲーム内の出来事なんじゃないか、これ。

前回も書いたとおり対立の要因があやふやのまま――どころか、知らん自分で考えろとか開き直る体たらく。まったく、どこの排他主義者なんだろうか――、ボカボカ殴りあわれてもむなしいだけである。せめてそれがナーガの掌中で踊らされているだけの「進化への刺激プロジェクト」的なものである、というような話にでもしてあれば、まだまだ見られるものだったのに。
本当に、SFとは縁遠い人たちだったようですね、このスタッフ。
 
まあ、
「世界がデータ化された偽物だから駄目だ」
と言い出しておいて
「データ化された偽物でも本物と同等でありうる」
と返されると
「この世界はループする不完全な世界だから駄目だ」
と話の矛先をそらしただけで満足げだったり
「AIでもなんでもない純然たる生命である複製体のやつらの存在は問題だが、人工幻体の先輩の存在は問題ない」
と呼吸するように矛盾をばら撒いたり、
「世界とは本質的にはデータの集積なのだから、実体にこだわる必然性はない」
と正論を言われると
「そんなの俺は認めねえ」
で、何か結論出したつもりになっているアニメに、何を求めているんだと言われればそれまでですが。
 ちょっとでもSF的な面白さを期待したこちらがいけなかったということなんでしょう。
 
かといって、CGロボがボカボカ暴れるアニメとしても、あまり面白くないあたり、話の見せ場を間違っているのはスタッフも同じなんじゃないかという気もする。SFというには言葉足らずで、熱血アクションにしては長広舌に過ぎるという。

そして、ドラマ的にも最終回は微妙。
前回ラストでいきなり記憶が戻った(原理はもう知らん)キョウとは、つまり実質「新キャラ」であり――記憶の有る状態と無い状態ではそれぞれ違う人格ともいえるのだから――、作中でも明らかに今までのキョウとは違う価値観、論理で動いていることが示されていたわけで、そんなやつにいまさら主人公面されても困るわけであります。
まあ、いつのまにか元に戻っている感じだったから、要するに、シズノとの対話をやりたいがために戻しただけなんだろうが、そういうのは、はっきり言ってどうでもいいし(視聴者にとっては、他人も同然のキャラなんだし)、やるにしてももっと前に片付けておくべきことであるはずなのだ。ここは、「今の」――すなわち記憶をなくして、アニメの二十六話ぶんを積み重ねてきた――キョウの言葉でもって、シズノ先輩と対さなければ、ドラマ的な決着とはとうてい言えないだろう。

しかも結局リョーコとくっついているし。シズノ先輩は、相手が記憶を無くしても、一途だったのにねえ。やっぱりやらせてくれそうな若い子がよかったか。しかもデータ現実出自じゃない「本物」だ。

それにしても、敵を倒せばあっという間に世界は浄化とか、あと数年でシステム完成とかなんなんでしょうか。前回の印象だと、データ現実は安泰かつループで停滞、物理現実は過酷に着実に進むが、それでも物理現実を選ぶ、という感じで、それが実体を選ぶということの代償であり、なおかつそれを受け入れる覚悟があることこそが主人公の主人公たる由縁というように見えたのだけど、結果的にとはいえ、ずいぶんと払う代償は安かったのでした(思い返してみると、これに限らず、このアニメの「教養的引用」は、どれも大して意味がなかったな、そういえば。映画の製作者のシェイクスピアぐらいか?)。
そもそも時間差の発生っていうのは、ある種のウラシマ効果的悲劇を狙った設定じゃなかったのか知らん。ただのハッタリ?
いやはや、ゲーム的に主人公にやさしい世界である。やっぱり……まあ、いいや。


まとめ。
自然や町の描写はとてもよかった、空の青も美しく、廃墟すら詩情があった。キャラクターデザインも悪くなかったし(キョウを除く)、音楽も悪くなかった。ただし、SFにもロボットアクションにも突き抜けきれず、青春ものとしても半端な仕上がり。『テクノライズ』の吉田さんじゃないが、半端は駄目だと言い募りたくなる一品でありました(テクノライズもいろいろな意味でおよそ半端な出来だったのはこのさい問うまい)。

ロボも量子論もスコシフシギのレベルに抑え、映画製作とか水泳部とかをメインにした風変わりなSF青春アニメとして作れば、よかったんじゃないですかね。
 あ、それだとタイアップが意味ないか。