第十六話

古くなったゴンドラと名残を惜しむ話。今回もまた最終話につかえそうな話。
 ここのところ、この手の区切りの話が多い気がする。漫画では出ているらしい新キャラを投入する季節なのかな?
 さて話はなんということはないというか、大げさに過ぎるという気もするし、灯里さんはいちいち全てに感動しすぎなんじゃあないかとさすがに思うわけですが、そこははしゃぎ過ぎない演出でどうにか押さえ込んで、万事OK。コンテは佐藤順一で、納得の仕事。

 今気付いたけど、ゴンドラに名前が無い。これはちょっと東洋的な発想かもしれない。
 西洋だと船に限らず物にはやたらと名前をつけて、そうすることでそれらが量産品でない「たったひとつのもの」になるというイメージなのだが、東洋だと、名前があろうがなかろうが、釜だろうが草鞋だろうが、ものには全て神が宿る。それはつまり、人が認知までもなく、物はそれぞれに「人格」があるという、言ってみれば人間非中心主義の精神に他ならない。
 灯里の「感動」も「世界と私」という対置関係の確認でなく、「世界に私」という内包関係の認識なわけですね。
 いやまあ、だからといって、それが斬新だとか凄いとか言うつもりは毛頭ないですけど。
 東洋的にはごく当たり前のものの見方だしね。

 ただ灯里がやたら手を大きく広げるポーズをとっているのも、「ああこれは、世界という大きな輪に参加していることを示す仕草なんだなあ」などと思えば、なかなかSF的に壮大で、漏れなくついてくる恥ずかしい台詞に対しても、「恥ずかしい台詞禁止」といわなくてもすむかもしれないとか思ったりしたのでありました。