第十話「また、夏がくる」

まず、前回の疑問についてのひとくさり。
 量子データは本質的にコピーが不可、なんだそうです。じゃあ量子データ以外の記述法を使えばいいじゃんとか、データが多すぎるなら圧縮とか、一部のみのバックアップとか、未来らしい「魔法と区別がつかない」技術で乗り切れ、とか、そもそもデータコピーできないコンピューター(しかも転送すると劣化必至)なんて使いにくいよなーとか、いろいろ思わないでもないのだが、そういう設定ではない、のだから、これは言ってもしょうがない気もする。
 しかし、だ。問題は、そういうことは作中で説明しないといけないのではないか、ということ。特に「量子データの複製不可能性」なんかは、もしかして常識的に知っていないといけない事柄なのか? オフィシャルサイトでは説明済み、なんてのは論外である。

 
 というのはともかく、今回はロボはなく青春と世界の終わりについての考察。納涼浴衣ショーなどで視聴者をなごませつつも(エンディングも浴衣特別版。曲も従来のではなくシングルのカップリングの曲を使用。気のせいかCDで聴くより印象がいい)、今後のとても明るいとは思えない展開も示唆していく、このシリーズの根幹が、CGバトルにはまったくないということを証明してしまった、ゲームメーカー蒼白の回ともいえます。

 今回明らかになった「セレブラント」とは何か、だが、各サーバーは戦士の「いけす」みたいなもので(むしろ、ホスピスとか療養施設みたいなもの、という位置づけなのかな。ただ生かしておくのでなく、英気を養わせる、という)、リョーコの覚醒は劣化してきた古い手駒の代替要員の確保、ということになりそう。
 ともかくも、リョーコは単に箱庭パートの「癒し」存在だけでなくなるわけで、キョウをめぐるもうひとつの戦争の前線に登場するのも時間の問題となったわけでした。

 気になるのは、セレブラントたちの認識レベルより上位の管理機構(プログラム?)の存在を暗示してしまったのはどうなんだろうか。マトリックスにおける設計者たちの存在みたいなもので、極端な話、セレブラントたちの戦い自体、そいつらが仕掛けているゲームである可能性もでてきたような。

 しかしリョーコさん、発掘映画の画像に人がいないことに気づくのは遅すぎると思うぞ。
 余談だが、あのビデオを見て中野正貴という人が撮った「TOKYO NOBODY」というやっぱり人が映ってない東京都心写真集を思い出した人間は一体どれくらいいるだろうか?
 そんなこんなで、波乱含みで次回に続くわけだが、傭兵カップルが思いっきり退場しそうである。


 ところでテーマがらみでは、途中引用されるシェイクスピアが暗示的である。もちろん「あらし」のプロスペローの台詞が元ネタだが(リョーコは知ったかをしたのではなく、シェイクスピアというと「真夏の夜の夢」しか思い浮かばなかった、ということだろう)。じつは、このアニメとの関連性においては、引用されてない箇所こそが重要であるように思う。
 
「われらは夢と同じ糸で織られているのだ、ささやかな一生は、眠りによってその輪を閉じる」(福田恒存訳)