第六話

監督が無能だったり、そういう監督の暴走をいさめるポジションのひとが存在しないと、素材の質はどうあれ、作品のできばえが残念なことになってしまうという、各話ごとに監督が変って、その監督の暴走をいさめるポジションの人が存在しないどこかのアニメのスタッフの耳にはとても痛そうなお話。

部活動アニメで、部活動の宣伝ビデオを作ったりする展開はよくあることだけど、部活動がなにをするのかもはっきりせず、当然、部活動の何を宣伝するのかもはっきりしないままで宣伝ビデオを作ることだけが決まっていき、それどころか実際にビデオ作りまで始まってしまうという展開は、たぶんあまりないのではないだろうか。作る直前に「で、何を宣伝するの?」と誰かが指摘して、「あ、考えてなかった」「ギャフン」と制作が頓挫するパターンが一般的な気がする。考えようによってはそういう定型を脱し、なおかつ「はじめにハコモノありきで企画そのものの必然性がおざなりになる、たちの悪い公共事業」のパロディ的な要素を兼ね備えた、奥深いコンセプトの一篇であったとすることも可能だけど、PV製作過程の描写のやっつけ仕事感や作り手すら退屈してそうな(というか手抜きと時間つぶしの言い訳にしか見えない)繰り返しギャグ、ようするに第四話の大地丙太郎回とどっこいどっこいかあるいはさらに下をいくダウナーのりでずるずると二十分、それでおちがしょうもない「じつはパンツのプロモーションでした」ときたら、かりにどんな風刺要素があったとしても、ああこれは「最後にパンツ見せておけば客も満足するだろう」的な打算のほうばかりが目立ってしまって、白けるばかりなのだった。

 このどうしようもない回の(信長クラスの)監督は果たして誰なのか? と思ってクレジットを注視していたならば、なんと『ぽてまよ』『大正野球娘。』の池端隆史で、後者はともかく前者はけっこう好きだったのでこれはショック。そういえば脚本や構成まで手がけた大正野球娘も演出はともかく全体としてはいまいち求心力に欠くつくり――ドラマの弱さや、時代考証に凝って、凝っていることを強調するわりに、ポカもちらほらする自爆ぶり――だったな、と思うと、脚本、コンテ、演出までやったこの第六話の出来が残念なのもまた不思議ではないのかもしれない。適材適所、という意味ではおそらく彼には脚本まで任せてはダメなのだ。

 次は脚本を任せても平気な人材か、駄目な脚本をつきだされたら駄目だしできる人材が来ますように。