第五話「Family Affair」

〜第六話「変る世界」〜
語るべきことはあまりに多く、与えられた時間はあまりに少ない(あと六、七話しかない)。ここは一人の少年について語ることにする。
〈CASE.1 直井シンジの場合〉
直井シンジは苦悩していた。異常行動をとるSSS団について、誰も事態を問題視していないうえ、誰かが教室から出て状況を報告しているわけでもないのにもかかわらず、自らが授業中に部下を引き連れて件の教室に赴く大義名分を見つけられなかった……ということは特に問題でもなく、休み時間に学食で麻婆豆腐を食べることが校則違反なのに休み時間に学食で麻婆豆腐を販売している矛盾……もまあべつにたいした問題ではなく、自分たち生徒会による銃殺という「一方的な暴力」とギルドによるバイオハザード式虐殺トラップのどちらがひどいのか……ということもやはりたいした問題ではなく、この世界ではなぜ努力するとギアス能力っぽいものまで獲得できるのか、どこかにゆかな声でしゃべるアマガミな後輩でもいるのか……ということもまったく問題ではなく、まるであとから生えてきたかのような「反省質」の設定の謎(「反権力」たるゆりたちなら真っ先にその存在を核にしてるはずだ)……もやっぱり問題ではないが、自分にとっては最大限のナウでヤングなモボファッションだったバンカラルックが、もしかすると時代遅れだったのではないかということは大問題なのだった。「○○じゃぞ」などという時代劇でも聞かないような口調でしゃべるケロン軍の伍長を父親にもつ身の上であり、さらに死んでから最低でも十年以上は経っているのだから、自分が最先端のお洒落事情から遠くひきはなされているのは薄々わかってはいたとはいえ、しかしそれでも誰も自分と同じ格好をしてないどころかカッコいいと褒めてもくれない現状は許せなかった。新世界の神となって、バンカラこそがいちばんヒップでイカしたファッションであると周知させねばならないのだった。「目をとじなさい。そうすれば、後に走っているような気持ちになるでしょう。こういう法則は小学校でちゃんと教えているではありませんか」「そうだった。僕は淡々としなければいけないのだった……」と思わず昇天しそうになるゆりっぺ。「あなたは乱暴なひとですね」
 そこへ邪魔立てしてきたのは音無望。「過去を否定してはいけない」と熱弁する望。
「だって過去がなかったら私たちは生きていけませんがな」
直井が「なぜ生きていけないのです」とたずねると
「だって過去がなかったら、私たちはまるで」
「まるで……まるでなんだというのです?」
「幽霊 では あり ません か」
そう。兄が死んだとき、シンジもまた死んだのだ。私の半身。私の神。
「こんな、夜だったな」
誰を埋めた? 何を埋めた?
こんなときは、涙が止まらない。

そして、補完への道は――


という、第六話。
まさか本気で「恋のルール 新しいルール」を提唱する展開になるとは思っても見なかったが、ここまで徹底して積み上げたものを壊しに掛かってくるところを見ると、これは迷走でもなんでもなく、当初の計算どおりで、つまり、「誰の言っていることが本当かもわからない。『世界の真実』なんて誰にもわからない」状況を作り出すための、意識的な撹乱行為であったのかもしれないと思えてくる。世界のルールはかくかくしかじかで、これこれの行いをすれば御褒美があるのですよ、なんていうのは、どいつもこいつも「教祖様」の勝手な思い込みに過ぎないんだ、というテッテ的なアンチ宗教スタンスの表明というつもりなのではないかと。

実は見ていて、ずっと脳裏にあったのは、今回のサブタイトルと同じタイトルを持つスライ&ファミリーストーンの曲だった。


“それは家庭の問題さ それは家庭の問題さ
 それは家庭の問題さ それは家庭の問題さ

 おまえは立ち去れない
 だっておまえの心はそこにあるんだから
 けれどおまえは留まれない
 だっておまえはどこか別のところにいるんだから

 それは家庭の問題さ それは家庭の問題さ“


邦題を『暴動』というアルバムに収録されたこの曲が作られた千九百七十年代初頭は、ウッドストックに代表されるような「愛と平和」のムーブメントが退潮に陥り、スライ自身もドラッグ禍とさまざまなプライベートなトラブルの只中にあって、『暴動』というアルバム自体が個人的なトーンとつくサウンドに支配されていて、この「ファミリーアフェアー」という曲でも、やはりかつてウッドストックで「皆で一緒に“Gonna take higher!”と歌おう!」と意気揚々としていたスライの姿はない。暗い諦念に満ちたヴァースと、ポップなコーラスのリフレインが交錯して、聞いているとなんともいえない気持ちになってくるのだが、ここで歌われている「家族の問題」とはつまり、普遍性だということだろう。 つまりはどこにでもある普遍的な苦悩であり、苦痛であり、苦難であるのだ、と。これはつまりこのアニメの「中有の世界」とは何かということでもあるのかもしれない。

人は何がきっかけでこの世をあとにするかわからないし、その「真意」を理屈づけることなんて誰にもできない。仮に理屈づけられたとしても、それが正しいかなんて誰にもわからないことなのだ。これはそういう物語であり、そういう「世界の真実」の提示が目的なのだ――とそういう読み方をすれば、あるいはこの混沌と乱調夥しい物語に「正しい真意」を与えてやることができるかもしれない。
 そう考えると神を求める者たちが次々と自説を述べていく展開も理解できる。神の存在を完全に肯定しつつそれへの復讐を語るゆりは言ってみればキリスト教におけるサタンのポジションである。厳しい鍛錬と修行の果てに神に成れるとする直井はさしづめ大乗仏教徒の体現か。ガルデモを「生きがい」として神格化している一般生徒たちはヒンズー教八百万の神を奉ずる多神教徒……というのはさすがにこじつけではあるが、物語の焦点が人間関係の構築(反省房ではもうすこしなにかあっても良かった気もしないでもないが……)よりも、世界の理不尽に翻弄されるものたちの姿を描くことにあるように見えることからも、あながち間違った見方といえない可能性もあるだろう。だから次はなんだ、イスラムか?(いやそれはあぶない)。
 ともあれ、あまたの宗教が跋扈するなかで「音無」という「Beat」ともっとも無縁な苗字を持つ望はなぜああいう風に心理的な優位性を保っていられるのか、というのはつまり、彼が「宗教」にまだ染まっていないから、ということになるのかもしれない。そういう彼がそのあまたの邂逅の果てに、一体何を見出すのか、ということになるとしたら次回のタイトルもまたなにか意味を持ってくるような気もするのである。


”何が悪いの? と彼女は言った
 もちろん、決まっている
 でもきみはまだ生きてるじゃん、と彼女は言った
 俺はその価値があるのかな?
 これは質問か
 もしそうなら……もしそうなら?
 誰が答える?
 誰が答える?”

パールジャム「Alive」


念のために書いておくと、この推測がまったく根拠の不確かな推測であるのは、懸命な読者はとっくに御推察である。