第五話

シリアスとナンセンスコメディは混ぜるな危険。混ぜると事件、にはならないが、目撃者は黙る大捜査線(そのつまらなさに)。
 実際、反応に困ってしまうわけである。わがままで世間知らずのお金持ちのお嬢様が、自分の寂しさを解消するためにその立場を最大限に悪用して、周りに迷惑をかけまくる、というプロット自体は非常にありきたりではあるし、それこそよくある喜劇のネタなのだけど、そのお金持ちのご乱行が「友人たちを金で買うために、まずは彼らの生活の手段をつぶして困窮させる」なんていう、どっちかといわなくても悪役のやるようなことなうえに、主人公側の困窮描写が基本的にシリアスなので、ニュースの特集コーナーなんかでやっている「大手企業の進出により経営が傾き、青ざめる零細商店主人」のドキュメントを見て笑えるような人でもないと、あれで笑うのは難しい。重ねて、お金持ちサイドの孤独もしつこく描写するものだから、勘違いコメディにもなりようがない。それでいて、作戦そのものはシリアスとは縁遠い作戦なので、シリアス一辺倒のいい話と見るのも不可能だったりする。田村ゆかりキャラも邪悪なラスボスなのかただのボケボケお嬢様なのかさっぱりだ。だいたいなぜ最後に主人公が謝らないとならないのだろう。こういう普通のモラルをよしとする世界観においては、間違えたことしたり、それをそそのかしたりする人は、叱られるべきなのではないのか? たしかに猫が悪いことをした場合は、猫が悪いのではなくて、猫の飼い主が百パーセント悪いのだが、お嬢様たちはたぶん猫ではないはずだし、この主人公はお嬢様たちの飼い主ではないはずである。
 そういえば、今回の監督担当は『ヒャッコ』の福田道生で、あのアニメも、折笠富美子の妹を暴力で恐怖支配したりセクハラを平気でしまくる人間の屑をたいして悪いやつじゃない、というような描きかたをして野放しにしていたから、モラル的なバランス感覚がどこか欠落した人なのかもしれない(もちろんシナリオは別の人なのだが、監督としてそこに手を出せなかったら、何のために存在するのかわからないだろう)。
 さあ次の監督(被害者? 加害者?)は誰だ?