第四話「カメラと包子と野良猫と」&第五話「夏の陰画」

 消えたカメラをめぐるどたばたコメディ調の第四話と消えたスパイとその情婦をめぐる地味系シリアスものの第五話、とならべるとまったく対照的な二編のようだが、実際見てみると印象のうえではたいした違いはない。というのも、前者は、『コードギアス』とか『マクロスF』などであったような、シリアスキャラが子供じみたおっかけっこをするという、世界観ぎりぎりというか、同人誌すれすれというか、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、とでもいえばかっこいいが、ようするになりふり構わないキャラ人気アップ作戦なわけだけど、ギアスやマクロスほどにもあざとくもどぎつくもできず、かといってナチュラルなコメディができるほどのセンスもなく、だいたいからして、四人一組のチームの話であるくせに、ほぼ男二人で終始する話にしてしまうという、なんのためのコメディ回にしているのかすらわかってないようなスタッフの手に掛かれば、できあがるのが「コメディ調」なだけのなにかになってしまうのはある意味必然で、つまりはくすりともできない得体の知れないエピソードという過去三話と大差ない話になっているのであり、後者のスパイものにしても、国民党に拉致されて拷問&尋問されるメインキャラというシチュエーションだけはおっかない展開が用意されているのだが、それでなくても捕虜や囚人の扱いが容赦ないといわれる中国人による取調べにおいて、顔面を何発も殴られているようなのに、まぶたは腫れない、鼻血は出ないのゴム人形ぶりで、頬だけ都合よく腫れるという、イケメンに優しすぎる展開はむしろ前回よりもコミカルだし、その後も情婦の家に押しかけて(むしろスパイを疑われないか?見張られているのに)、気取ったトーク、情婦のタバコを吸う「アダルト」な演技の子供っぽさ、過去の思い出を語らないことで奥ゆかしさを出そうとしたらただ「なんでこいつはこんなに西尾にこだわるのか」が謎なだけになってしまった終盤の茶番劇テイストも第四話とよく似た印象であるうえ、ラストの西尾の死に様にしても、大金奪って目下全力逃亡中の男が髪型もめがねも変えずにのこのこと市中に戻ってきた挙句のんきに共同浴場に来て、殺されるというのは、視聴者にとっては心底どうでもいいキャラがいきなり死ぬという以上に、馬鹿が馬鹿なことして自殺同然に死んでいるだけなのでその索漠感たるや、「カメラ泥棒は猫でした!」というとてつもなく意外な展開がとうとつに明かされたときに匹敵するものがあって、見終わった印象はやはりなにか得体の知れないエピソードを見せられた、というものでしかなく、ようするに第四話を見おえたときと、(先述したように)たいして違いはないのである。
 こうなってしまう理由はたぶんけっこう簡単で、すでに指摘したようなシナリオレベルでのだめっぷり以上に、作り手が大きな勘違いをしていることに尽きる気がする。それは「意味ありげに中途半端な描写をするのは(たぶん、映画っぽくて、クールな感じがするから)とてもかっこいいことである」という勘違いだ。この方針だけが先にあるから、描写すべきところをあいまいにして話の焦点がぼやけたり、逆にどうでもいいところを省かず放置して野暮のきわみになったりしているわけである。悪しきスタイリッシュ(形式主義)の典型といえましょう。

 あと、五話の「夏」の描写を見ていて思ったのは、この作り手たちは「体感描写」が苦手なのかなということ。熱気で空気が揺らめく、というような描写で熱さを表現しているにもかかわらず、続いて映った人間たちはろくに汗をかいてなかったり、編みこみの帽子かぶって楽器演奏していたりする。そういう風景を見てしまうと「あれ? たいして暑くないのかな?」と思ってしまうわけだ。そうやって視聴者に「激しい夏」の雰囲気を伝え損ねているからそれをキーワードに展開される物語がまったく空々しくなってしまうわけである。
 思った、といえばあれだ。カメラ追っかけの回は、雪菜や夏目も含めての大捜索展開にすべきだったというのはまず前提としてあるのだが、もしどうしても二人の捜索行にしたいのなら、カメラと猫を追いかけて民家に入り込んで、そこがたまたま雪菜が着替え中、とか桜井のおっさんが着替え中、というような、よりくだらない展開にすれば、もう少しは面白くなったかもしれない。