第四話「Day Game」

〜今回のあらすじ〜
兎穴を落ちたらそこは野球の国。「優勝しないと首をちょん切るよ!」とSSS団をけしかけるゆり女王。環境の激変に困惑を隠せない望。なぜ、自分にピッチャーの才能があるのだろうか?
その疑問の前には、前回提示された「天使はじつは天使ではないのでは?」という疑問はどこにいったのか? とか、沢城みゆきキャラが文字どおり「昇天」して、つまり真の死を迎えたにもかかわらず、友人たちが誰一人悲しんでるそぶりを見せないのはなぜか? とか、ピンクの後継者は「全曲うたえるほどの大ファン」だというわりにその歌唱に前任者を髣髴させる要素がないのはなぜか? とか、麻枝曲は基本的にバンドサウンドには似合わないのでは? とか、デスメタルの意味はわざと間違えているのか? とか、「神との戦い」ってのは、学校行事の進行を邪魔するだけというたんなるいたずらレベルでいいのか? とか、相手のルールに従って大会に参加してるってことはむしろ行事の盛況に貢献してることにならないか? とか、っていうか学校行事だったら基本全員参加なのでは?とか、前回「昇天」でドラマをつくったその流れでその同じ「昇天」をギャグネタにする焼き畑農業スタイルに未来はあるのか? とか、ゆりっぺは悪役というよりは脇役にしか見えない、とか、今回の話、別に無くても良かったよね? とか、天使のキャップが小さすぎないか? とか、そういうことは別にどうでもよいのだった。

「俺、生前は、もしかしたら甲子園を目指す双子の兄が事故で死んだり、甲子園に連れて行ってもらいたがっていた幼馴染が事故で死んだりしたのかな」

「うそつき! そんなことは本編でひとことだって言ってなかったじゃないか!」と『アリス・イン・ワンダーランド』で出番のなかった卵男が望を叱りつける。考えてみると、この会話のかみ合わない感じ、世界観がその場その場で変容してく感じは夢の世界っぽいなと気づく望。いまどき夢オチなんて流行らないだろ! とセルフ突込みをしてみるが、野球ネタとかバンドネタとかプロレスネタとか「面白くないギャグをあえてやるギャグ」自体が面白くないとかもべつに流行っていないんだし、最近のKeyのゲームでも(自主規制)なのだから、やりたいようにやればいいじゃんとバットを持ったしゅごキャラつかいが脳内で語りかけてきて……


 という第四話。

“いまやわれらは死んでおり、一種の牢獄のなかにいる。”

とはプラトンの言葉だそうだが(ディックの『ティモシー・アーチャーの転生』からの孫引きなので、原文はどうなのか不明)、たぶんこのアニメとは何の関係もないと思います。関係ありそうなのは、

ゆうまだきらら しなねばトオヴ まわるかのうち じゃいってきりる
いとかよわれの オンボロゴオヴ ちでたるラアス ほさめずりつつ

のほうだろう。書き物机と大鴉ぐらいの関係性で。

 という話もまあべつにどうでもよく、第四話まで見てはっきりわかったのは、麻枝准という人は、四、五分単位のコントはつくれても(チームにバカが増えていく展開は、第二話のバカが死んでいく展開とおなじパターンとはいえ、つまらないわけでもない)、二十数分前後の一貫した話をつくる意志がまったく無いか、つくる才能がまったく無いかのどちらかで、つまりはアニメの脚本とかアニメの構成とかにはあまりむいていないのではないかということである。「あらすじ」のところでも触れたけれど、この「死んだ世界」における真の死である昇天イベントをメタなギャグにしてしまったら、普通の物語だったら、これ以後は、昇天でベタな感動展開はみせられなくなってしまう。誰かが昇天しそうになると、ワープその他物理法則無視してでも邪魔が入って感動展開が台無しになることを、皆が予感できてしまうからだ。『グレムリン』一作目の「クリスマスの悲しいエピソード」が二作目を見たあとではもう悲しいエピソードに見えないようなものである。
 ではなんでそんな展開をやってしまったかというと、麻枝のこれまでの仕事が、攻略ルートごとに雰囲気や世界観にズレが合ってもOKで、一本のルート内でも基本的に相互の関連の薄い「イベント」の集成でなにがしかのイメージを作り上げる(いいかたをかえれば、プレイヤーの進め方によっては出会わないイベントがあったりしても大筋では破綻しないようになっている)ゲームシナリオに特化していたからだろう。それは、緊密にして隙間なく連続して進行する一般の物語構成とは似て非なるものだ。かりに、エピソードごとに雰囲気の異なる展開や演出があったとしても、大本のコンセプトだけは堅持してのことで、そこを見極めていないシナリオは物語として意味を成さなくなってしまう。
 この作品の場合だと「昇天=真の死」はシリアスかつアンタッチャブルなネタにしておかないと、「中有の世界における死」がギャグとして軽く扱えることとの対比が成立しなくなってしまうわけで、今回の展開のあとでは、来週あたりまえのように岩沢が戻ってきてもべつに変ではない気持ちにすらなるだろう。「バラエティ豊か」と「しっちゃかめっちゃか」は大鴉と書き物机ぐらいにしか似ていないのである。

 しかし、こうなってくると次回以降が注目とは言える。同じ場所にいるだけでも二倍の速さで動かないとならないのに、この作品の場合、更なる先に進もうというのだ。大変なことである。