『耳をすませば』

 劇場でも見て、以来テレビでやるたびに見ている気がする一品。今回もまた見てしまいました。いつ見ても、最後の結婚宣言はやりすぎだと思うし、いつ見ても立花隆の演技が最悪で、こういう浮世離れしたお父さんは森本レオがやるべきだろうとか、どうせへたくそで良いなら宮崎監督自身がやればいいんじゃなかろうかとか(これは今回はじめて思った)、地球屋のおじいさんも微妙に気持ち悪いとか、不満もあるわけだし、見れば見るほどこの話での男爵の声の世界最初の諮問探偵様はじつにはまっていてかっこいいのになんで姉妹編の猫の恩返しのほうではへたくそな若造にかわってしまったんだとか、決して見て楽しい気持ちばかりが去来するわけではないのだが、作品全体に充満する、恥ずかしい空気にはなにか麻薬的なものがあり、最初は冷やかしで、またやっているのですかどれどれ、なんて具合に距離を置いているつもりでも、気がつくと一緒に自転車で坂をのぼっているという、恐ろしいアニメなわけです。いずれDVDを衝動買いしてしまうのではないかと、自分が怖いです。(でも、テレビでやるとまた見てしまうはずだ)。
 しかし今回は今までとはちょっと違う発見もあって、それはたとえば同じ初々しい学生ものでも、アニメ版『時をかける少女』にはなぜこの胸苦しさを感じることがないのだろうとか、設定は一応九十年代なのにもっと昔、七十年代前後な印象(この現代なのに近過去ふうなのも『時かけ』と共通する)、とか、少年がバイオリンを奏で、少女がつたない歌を歌うって、そのかなり直球でエロスな象徴性に脚本を書いた宮崎駿も監督の近藤嘉文も気づいてないわけないよなとか、なかなか興味深いものがあるのだけど、とくに、シンプルなガールミーツボーイでも、親や兄弟、周囲の大人、友達、といった横や縦のひろがりをきちんとおさえている、というのは、今まで気づいてなかったのかよ、という批判は甘んじて受けるけれど、結構、いやかなり重要なことであると思う。つまりそうすることで、作品に奥行きが生まれて、単純に主人公に感情移入できなくてもそれが即、作品世界からのつまはじきにならないという点、あたりまえのようでこれができてない作品が意外に多いのだから。そう、たとえば、『時をかける少女』あたりが「出来てない」実例といえるだろうし、現行アニメで言うと『ガンダム00』が、『ガンダムSEED』的な人気と無縁な要因でもあるのだろう(*)。
 そんなこんなでしょうもない考察をしようと思えばいくらでもできそうな、豊穣きわまる題材ではあるのだけど、でもやっぱりこれは「わー恥ずかしいー」と思いながら、その甘い毒に耽溺するのが正しい見方なのではないかと思うのでした。
 ああ信じようではないか、かの未来の世では、われらはかたみに愛をわかつ心を抱(いだ)き、ともに不死の泉でのどをうるおし、魂はあいたずさえて不滅になると。


(*)これについては後日詳しく述べる。