第七話「キラメキ」

このせかいのどこかにはコペルニクス的転回をコペテンという人たちがいるらしい。きっとそこではオッカムの剃刀をオッカミといったり、ガーンズバンク連続体をガー連といったり、フランケンシュタインシンドロームをフラシンといったり、アインシュタイン交点をアイコウといったりするのだろう。
 さて、小山キラメキショーである。コンテは監督自身で、お得意の極端なパースとシンメトリーを強調した人工的な構図やら、カメラを登場人物が見ているテレビに見立てて、視聴者を登場人物に「観賞」させたりといった手の込んだ遊びやらと映像的にはなかなかの力作なのだし、前回登場時に続いてロス先生は大暴れで、そこだけ見ている(否、聴いている)ぶんには乗りのりで楽しげなのだが、肝心のシナリオにまったく乗れず、悲しくなるくらいに味気なくて、途方にくれてしまうほどである。
 中心に横たわる問題は言うまでもなく、今回の主人公美川キラメキである。美しいとか美しくないとかお天気雨だあとか、つるべうちされる珍奇な言動が「浮世離れした芸術家」というものの最も俗っぽいイメージばかりで、もうどこまでも美しくない。常識人に真の奇人がかけないことの証明ならばうまいやり方ではあるが、このアニメでそれをやることの意義はちょっとわからない。キラメキのベストセラーの、ケータイ小説みたいなデザインがキラメキの文学の薄っぺらさの暗示とみれば、なかなかに皮肉が利いていて面白いのだが、そんな薄い奴に作品の謎の中心部にいられても、とは思うところ。

 話としては、フミカがらみでの謎のばら撒きや編集部の人たちに意味ありげな台詞や行動を取り留めなくばら撒いて、最後の最後で大騒ぎ、で「続く」という、第一話と同じ仕掛けの使いまわしというあたりが、目も当てられない。

 それにしても今回もシゴフミシゴフミである必要はなかったですね。それどころか、シゴフミであることがテーマの破綻につながっているという点ではいままでで最悪かもしれない。あれが死の前に書かれたのなら、十代の青少年によくある死の過剰な美化で終わる話だが、「死後」文であの内容ということは、死はキラメキが主張し、差出人が期待したとおりのものであったということで、つまり、死はほんとうに美しいことになるわけだ。これでは、殺人鬼が「みんな天国幸せ幸せ」という漫画と同じだぞ。いいのか?