第二話

 冒頭のシーンが時制的には最後の場面という、いわゆる倒置法が使われているわけなのですが、これは、技法的にはべつに珍しいものではないのだけど、ここで倒置法を使ったのかが最後までわからないのは、意図的にやっているならばけっこう珍しい、ような気がする。もっとも、わからないことに意味があるといわれても、わからないということが再確認できるだけで、なにもわからないままなのは変わらないのだから、特に面白がるような工夫ではないけども。
 内容的には主人公のスタンドバトルへの参戦が始まるというよくある導入部というだけで、ヒロインがますます陳腐化というか綾波斗貴子さんを混ぜたようなキャラにしか見えないとか、手がエヴァというかウルトラマンのキャラってブリーチにもいたよなあとか、プロットもビジュアルも音楽も全てペルソナに負けているとか、いろいろとわびしい仕上がり。とくに、公園での戦いは、ちゃんと描写できていたら『ゴーストシップ』とか『JM』とかを髣髴させる愉快なゴアシークエンスだったはずなのに、規制としょぼい作画と演出のせいで、愉快なゴアシークエンスの抜け殻のようなものしか作品には残されていないのが、なんともいえない。わびさびは日本の美意識ではあるとはいえ、ここで日本的美意識は必要されていないと思う。ついでに言うと放送倫理規定へのおもねりも必要とされてないと思う。おもねるぐらいならば放送自体必要ない気もする。こんなしょぼい話をみせられて、完全版でわざわざみたいとDVDを購入する客が増える確率は、山手線の駅で電車を呼ぶ術をかけて十分たっても術が成功しない確率と同じぐらいだと思う。
 それにしても斗貴子さんもどきはともかくとして、サブヒロインのツーテールの人が見ていてイラっとする感じはなんだろう? 禁則事項の人と同じ不快なオーラが出ている気がする(声の人が同じというわけでもないのにねえ)。彼女が主人公完全覚醒のための捨石として消費されてもぜんぜん動揺しないと思う。エンドクレジットで名前を確認しようとして「陽愛」で「ヒメ」と読むのだと気づくのにしばらくかかった、というのは、たぶん関係ないです。むしろ珍走団でもやらないような当て字をヒロインの名前に採用する心意気に感服である。「夜明エイム」とかになるともう何もいえません(そういえば、クレジットのもう1人「夜明」姓がいたが、どのキャラなんだかさっぱりわかりません)