幼いころから乗せられやすく、損ばかりしている。雑誌のあおりに載せられてテレビをつけ文句をつけつつも最終回まで欠かさずに見て呆然としたり、総集編と作りかけと知りつつ劇場に行って総集編と予告編をみせられたり、映像的にはきわめて壮観ながら、映像的にきわめて壮観なだけのひどく薄っぺらい「終劇」をわざわざ初日に新宿ミラノ座で見たりしたのである。
 とはいえ、のせられやすいことにもメリットはあり、それはなにかというとのせてやろうとする作り手の意志に気づきやすいということで、何度ものせられているうちにのせられること自体に体が拒否反応を憶えるようになると、俄然このセンサーは役に立ってくる。すなわち、「あ、コレはのせようとしているぞ」と、わかるわけである。
 そこにやってきたのが、そう、十年ぶりのエヴァンゲリオン
セルフリメイクを行なう期間としては速いのか遅いのか、はたまたちょうどいいのか、その判断の当妥当については、見なければ机上の空論でしかない、ともいえるし、それを最終的に決めるのはつくられた時期でなくて作品の完成度なのだから、その問い自体が見るまでもなく無意味だともいえるわけだが、ようするに、すべては庵野監督とスタジオカラーの腕次第なのであり、それを確かめるには結局、劇場に行かないとならないのだった。観劇日を公開初日でなく翌々日の月曜日にしたのは、いうまでもなく、それぐらいなら空いているだろう、というような戦略的な判断以外のなにものでもないことをここにはっきりおことわりしておく。

 自転車を飛ばして吉祥寺(新宿にしなかったのはもちろん単純に近くだし安いし、というだけのことである)。平日だったので客は半分ぐらい。チルドレンな客はあまりおらず、元チルドレンな客層がメイン。パチンコ関係で年配層のファンが増えたというような話も聴いているが、結局その層は劇場まで足を運ぶような「濃い」ファンにはならなかったということなのか、平日に来るほどの濃さではないというだけなのか、そのあたりは不明だが、少なくても、この日吉祥寺バウスシアターである劇場にいた人たちは、「かつてのエヴァ」についての昔話をしている人が多く、気持ち的も同窓会気分のようだった。

  そんなこんなで「新劇場版」である。(長すぎる前フリは、リメイクに到る十年の長きを表現してる――ということに、今決めました)
 すでにアナウンスされているとおり、物語はテレビシリーズの第六話までがメイン。お話の進行は、ほぼそのままだが、シンジの神経症的なところがやや緩和されていたり、ミサトが若干大人っぽくなっていたり(しかし考えてみるとミサトの二十九歳という年齢的には元の幼稚なほうが正しかったのかもしれないが……)と、人間ドラマの面で、作り手の経た十年の歳月を感じさせる再構成、再構築がなされている。それが、成熟というか、若さの喪失というかは、考え方次第ともいえるけど、すくなくてもテレビ版にあった、かっこつけまくった中学生日記、とでも言ったような気恥ずかしさは大幅に減じていて、より一般に膾炙可能な物語へと変貌を遂げている。
とくに、クライマックスのヤシマ作戦における「外部」を感じさせる演出――シンジたちや顔と名前がはっきりしたネルフ職員以外にもたくさんの人がいて、世界を守るとは、その人たちを守ることでもあるのだ――は、もちろんセカイ系なる言葉を生むにいたったオリジナルへむけられた批判に対する回答ではあるようにみえる。もっともその「外部」的なものは、色彩的にもカット的にも基本的に背景と同レベルの「その他大勢の人々」という描き方で、つまるところは作り手にとっての外部とは、その程度の存在であり、世界とは所詮その程度の広がりでしかないという、たとえ十年たっても変わらない(変われない)ものもあるのだ、ということを期せずして観客に伝えてくれる。
もっともそれはある種の限界の吐露であって、それをもって作品の欠陥ということは酷かもしれない。第一、本作の根本をなす問題はそんな細部描写に起因するものではないからだ。

その根幹をなす問題とは何かというと、簡単に言ってしまうと、これが再編集と核としたリメイクであること。これに尽きている。

 どういうことかというと、たとえば、物語冒頭の、シンジの初号機搭乗へいたる、あきらかに無理筋な展開をみるとわかりやすいが、物語にある種客観的な説得力を持たせようとしたらまずここから変えなければならなかったはずだ。いきなり呼びつけておいてろくに説明せずに訳の分からないメカに乗って化け物と戦えといわれて乗るバカなどどこにいるか。あそこでシンジが本当にいじけて帰っていたらどうするつもりだったのか。ゲンドウはシンジの性格をろくに知らないのだから、シンジの行動パターンを読みきったうえでの策だと解釈するのはあまりに苦しいし、かといって不器用ゆえにああいった言動しか出来なかったのだとしたら、それはただの無策なバカである。あそこまでのしあがったからにはそれなりに策を弄する知能も技術もなければおかしいはずなのだが、ようするにこの不合理は、そんなゲンドウの性格と行動をテレビ版からそのまま残してしまったことに起因してるわけだ。すなわち、任務のために最善の策をとるがゆえに高圧的、独裁的になっているようにも見えず(なぜなら任務のための最善の策をとっているように見えないから)、また、息子への複雑な感情により不合理な行動を取ってしまう父親にもみえず(なぜなら、息子に対して複雑な思いを抱いているようにも見えないから)、ただただひたすら混乱した言動を振りまく、無意味に傲岸なおっさんであり、シリーズを混乱に導く諸悪の根源でしかないおバカな人物、より簡単にまとめてしまうと主人公に対する理不尽な抑圧装置という以上の深みがない――そういう浅薄なキャラが、相変わらず物語進行の鍵を握っていること、それは冒頭部に限ったことでなく作品全体にマイナスなイメージを投げかけてしまっている。彼があのままでいる限り、物語の「世界」はいつまでたっても主人公シンジの内面の反映以上の意味を持ちえないのだ。すなわちそれはあの「セカイ系」的な物語でしかないということである。

レイはゲンドウとは違う意味で「オリジナル準拠」の問題を象徴している。ゲンドウはオリジナルの駄目な部分がそのまま残っているための失敗だが、こちらはオリジナルが蓄積によって表現していたものがそっくり抜け落ちているために、良いところが窺えないのだ。
彼女は、テレビにおける第六話までと同じくこの『序』においてもシンジと対となる重要なポジションにいるわけだが、ここではその描写はだいぶ手折られ、性格理解において十分とはとても言えない。ダイジェスト版らしく途中の展開がダイジェストされて描写されているなと理解するに十分であるだけのことである。つまり、あくまでテレビシリーズを全部見て呆然とし、シト新生を見てがっかりし、エンドオブエヴァンゲリオンを見て苦笑した観客が知っているあのレイの新規作画版としてのみたばあいのみ、そのキャラクターが確立しているように見える。本作がエヴァとの「新」しい出会いだという客に、レイってキャラクターについてどう思いますか、と聞いても、ヒロインっぽいけどいまいちよくわからないキャラだよね、と返ってきそうである。もともと謎が売りのキャラであるので、行動がいちいち飲み込めないのはいいのだが、次から次へとイベントが続き、想像を広げる余裕もない進行のなかでゲンドウとの談笑する場面(もっともこれは映画本編どころかテレビを最後まで見ても納得いかないのはここだけの秘密である)やシンジをビンタするシークエンスや、セカイとの絆を言い出す場面が出てこられても困るのではないか。その奥行きのなさではテレビ版の「三人目」とどっこいどっこいである気がする。まあもしかするとこのレイは「四人目」なのかもしれないが。

最後の問題は言うまでもなく主人公、シンジだ。テレビ版よりはだいぶ力強く前向きな雰囲気に描かれていて、そのあたりはもっとも『新』の名にふさわしいキャラクターになっているし、彼の物語としてはほかの、例えばレイなんかに比べれば、まとまりも説得力もあるつくりなのだが、乗る乗らないの押し問答や逃亡劇なんかはそのままなので、やっぱりぎこちない。大雑把に言うとゲンドウよりはキャラが成熟したがレイ並みに描写が浅い。十年前の庵野秀明と現在の庵野秀明が交互に顔を出すような違和感、もしくはいまの庵野が無理に当時をなぞろうとしてどうにも胡散臭くなってしまっている、というような感じである。

そんなこんなで「なにか説得力はない展開だが、そういう少年の主観と願望、つまり不幸な少女を助けて戦う自分、という妄想を優先するようなご都合で押していく物語なのだな」と、初見の人には思わせてしまうような、ドラマ的な説得力の弱さがここには生まれてしまっている。それでは、単一の映画作品としての第一歩をそれこそ初号機よろしく転倒で飾ることになるだろう。それでなくても序盤はかなりテンポが速いのである。ろくすっぽ溜めもなく進行するので、白紙の状態で入った人には設定とストーリーの把握が精一杯で、登場人物に思い入れする余裕をつくりだすことすらむずかしいかもしれない。もしかすると、ご都合主義とすら思えない可能性すらある。そうなってしまうと面白いとか面白くないという以前の話だ。それは映画ではなくただの映像ショーである。
 いっぽう、再見の――つまり元チルドレンの――客にしてみれば、見慣れた強引な展開を大画面で(それもいままで以上に拙速なやりかたで)みせられている、というだけにとどまるだろう。ある意味画面の大きさと画質の向上以外は再放送以下だ。そうしてみると、「新」という言葉の意味するところは、かぎりなく軽くなってしまうようにも見える。いうならば、中に入った酒ではなく、それを入れる皮袋の制作年代をさしているだけであるかのように。

 こういう問題点はもちろんシナリオの庵野以下のスタッフの力不足の結果ではあるのだが、しかし、まったくゼロに近いところから『新世紀エヴァンゲリオン』を二時間の映画として製作する方向でいたらあるいはもっと無理のない構成になっていたのではないかと思う。予算や時間の制限といった各種の障害がそれを許さなかったのかもしれないけれど、このスタッフだからこそ、そういうものを作って欲しかったなあ、という気持ちもある。もうエヴァはいいじゃん、と。


 とはいえ、映像的にはかなり楽しいのは否定できない。もしかすると空虚な映像ショーに過ぎないかもしれないが、これは劇場で見るにふさわしい空虚な映像ショーだ。
 CGによって圧倒的に増量された迎撃装置は「少女革命ウテナ」的な重力を無視したナンセンスの世界に入り込んではいたが(いったいあれだけのものを作るのにどれだけの人とお金と技術と資材がいるのだろうか?)、みていてつまらないかというとそうでもなく、むしろわくわくする。庵野秀明があの映画版ナウシカ巨神兵の場面で名を上げた人だというのを改めて思い起こさせてくれるできばえだ。とくにクライマックスの「ラミエル」(という呼称は今回出てこなかったから、「天使の名を冠した使徒」という微妙すぎるお題目は「チルドレン」共々、消えたのかもしれない)の七変化が強烈な印象を残す。西部劇よろしく「早撃ち」と「正確さ」を競うだけのオリジナル版のシンプルな緊張感も捨てがたいが、大破壊に文字通り縦横無尽に変容する使徒のアクションは大画面で見るにふさわしい華々しさで、ワイドスクリーンバロックという言葉がぴったりの世界である。
 
音楽は終盤の讃美歌風の曲がとても良い。例の使徒襲来のテーマとかは逆にいまいちフットワークが重いだけで微妙な仕上がり。映画全体のメリハリのない構成と呼応させているつもりならば成功であるのかもしれないが、テレビ版のチープなロックサウンドが実は作品の空気の正確な反映だったのだとこんな形で実感できるとは思わなかった。

 ストーリー的には言うまでもなくこれから大きくテレビから逸脱していくらしい『破』へと続くわけで、この辺はわりと進歩がないというか、もはやギャグの類と化している、意味ありげな煽り台詞と単語の羅列で、あえて残したというべきなのかいまだそこが限界なのかはわからない。次回予告の出し方や、血の色の海とか月に血がかかっているとかカヲルくんの台詞とかおもいっきりテレビと映画の続編ぽいところからするとわざとっぽいのだが、もうひとつの「エヴァらしさ」たる字幕演出は捨ててるわけで、いまだああいう手法が格好いいとおもっている可能性も無きにしも非ずである。

そういったところはさておき、テレビ等にはまったくなく、今回だけやたらと意味ありげに登場する「虹」というモチーフ――実相寺監督の『帝都物語』由来?――の存在、といった(いい意味で)気になる箇所もあったりして、なんだかんだで「破」にも乗せられてしまうのだろうなあ、と思いながら中学校の体育館のようなバウスシアターを後にしたのでありました。


あと、これは一番最初、公開前どころか製作発表時から思っていたことなのだが――

タイトルがおかしいぞ!

なぜならば『ヱヴァンゲリヲン』などというテレビアニメやその他の作品はかつて一切存在しなかった(過去に放映されたテレビアニメは『新世紀エヴァンゲリオン』である)ので、その「劇場版」などという表記には何の意味もない。たとえば『千年女優』を『千年女優劇場版』とする人はいないのは、字数がもったいないせいではなく、件の劇場アニメ以外に千年女優というタイトルを冠した先行作品がないからである。
当然、「新」などという表記も無意味である。『ヱヴァンゲリヲン劇場版』などというものはかつて存在しなかったのだから(過去に上映されたのは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』である)、「新しさ」を比べる基準が存在しないのである。紅茶をゼロよりももっとたくさん飲むことはできても『動く標的』がなければ『新・動く標的』は作れないのである。
ここはシンプルに『ヱヴァンゲリヲン:序』でよかったのではなかろうか。