第一話

 偉大である。
 ナスティである。
 あなたがたは、悪趣味なんだ。


原作は単行本を三巻までもっていて、全体の雰囲気とキャラの関係性ぐらいは把握しているのだが(名前は自信なし)、特別愛着があるわけでもなく、どう改変されようと特に気にもならないのだが(スケッチブックがこのようにいじられたら怒り狂うかもしれないが)、これは困った。

まず、三人のキャラによる「はじめの言葉」の時点で、そこはすでにシベリア。NHKで深夜にたまにやっている新人漫才師の下手なコントみたいである。
そして、その衝撃覚めやらぬうちに、襲いかかってくるOPがすごい。歌も映像も感動的に気持ち悪い。鳥肌が立ちました。思わず三回ぐらいリピートしてみてしまった。

 ええとこれは遠まわしの賛辞ではないよ。死体写真とか、密集系のグロ(いわゆる蓮コラなんかに代表されるやつである)をまじまじと見てしまう心理と同様のものが働いたのだ。人はなぜこれを気持ち悪く思うのか、という好奇心のなせる業ということである。

で、その観察の結果なにがわかったかというと、この制作会社らしい――というか「涼宮ハルヒ」のOPの焼き直しともいえる――、大脳を電子的に統御してないとありえないような一糸乱れぬちょこまか集団ダンスのセンスのなさと、電波系でしょでしょといってほしげな早口歌の狙いすまし加減がコンビネーションが絶妙だ、ということ。方向性がバラバラで(間違っていることだけは確かな)高密度の情報は、それ自体不快要因になりうるのである。

この、間違っていることだけは確か、というのは、中盤で入る、実写トレス風画像の中でいかにも二次元なキャラデザが踊るシーンにもいえて、背景と人物がまったくあっていなくて、それ自体は意図的であっても、それが別にかっこよくなく、ただ違和感しかなくて不気味という印象を与えるだけに終わっているのだ。
考えようによってはここまで気持ち悪く作れるのも才能だが……。

しかもこのOP、キャラのだらだらとしたトークが延々続く本編と、ぜんぜん雰囲気が違うのだ。OPは本編の内容とイコールでなくてもいいけれど、なんらかの関連性は欲しい。とくにこの手の、キャラと彼らがかもし出す空気管が命の作品においてOPで雰囲気づくりを間違えると、視聴者を作品世界に引き込むことがとても難しくなるだろう。実際、本編があまりに淡々としているので、かなり面食らいました。「ひだまりスケッチ」は映像として見られるようにかなり工夫していたんだなあとあらためて思う。あるいは、OPはもっともまったりとしたノリだったら、とか。
なんにせよ、現時点では、テンパリ気味のOPとの落差で、本編の無風状態が退屈と言えるまでになってしまっているのが作品的にはとても痛い。なんのひねりもなくキャラクターたちの会話風景を切り取るだけのカメラももうすこしなんとかならないかと思うが、あれはあるいはもしかしたら、みる側の気持ち私大では受け入れられるものであるかもしれないしねえ。いまとなってはわからないことではありますが。

 それにしても、第一話なのにキャラクター紹介が皆無なのはなんだろう? 「日常」の間違った表現?