第二十四話「君が死ぬ時が私が死ぬ時」

「が」が多すぎる。

というのともかくとして、原作でいうところの「ファイナル」エピソードであるが、今回はちょっと複雑な気分で見終わった。

つまらないわけではない。序盤の斗貴子さんとカズキのラブラブバカップルパートからマヒロの登場、さらなるバカップルっぷりの披露ときて(斗貴子さんの柚木涼香は、うたわれるものラジオでフォークを振り回しているかたと同一人物とは思えません)、その直後、ヘリとゴウタの登場で空気が一転するあたりはとくにいいし、ラストのパピヨンのカットの気合の入り方もすごいものがある。

が、バスターバロン対巨大ヴィクターはスーパーロボット系の張ったりバトル演出にいまいち徹せないで、盛り上がりきれてないし、カズキと斗貴子の決別のシーンも斗貴子さんの手をはずすくだりなんかを丁寧に描いたせいで、妙に間延びした場面になってしまったりと、このシリーズに総じていえる演出方面の踏み込みの甘さが前面に出る仕上がりになってしまった。

ホムンクルスにされたてのアレクサンドリアの顔が昆虫みたいでぜんぜん悲劇のヒロインっぽくないとかクライマックスの斗貴子さんの顔がいまいちとか、細かい不満もあるがそれはまあしかたないだろう。
 
しかし、なんといっても、武装錬金において大きな柱であるはずのヴィクターの行動原理を説明する重要なパートの扱いがぞんざいなのが、気に入らない。なぜに「怒りだ、もう怒りしかない!」に続くヴィクターによる人間の本質論をすっぱり切ってしまうかなあ。あれでは、娘をホムンクルス化されて激怒してるだけみたいに見えるではないか。ヴィクターの「怒り」はただの激怒ではなくて、人の本質そのものに対する、義憤でありある種の絶望の表明でもあり、それはいってみれば「神の怒り」のように激しくも非情なものであるはずなのだ。それがわかるのが、「怒りだ……」に続く台詞なのである。
これはあるいは原作未読の人にしてみればどうでもいいことであるのかもしれないが、あくまで「個人」として戦うカズキと、「理念」で戦うヴィクターを対比するところであって、これがはっきり描かれてないと戦いの焦点が思いっきりぼやけてしまい、このアニメをなんでアニメ化したのかわからなくなってしまうぐらいに、「蝶」重要なものなのだ(斗貴子さんのミニスカートがひらひらするのを描くためにアニメ化したというのならば、これでも問題ないわけだが)。オープニングやエンディングをカットしてでも入れなければいけないシーンのはずなのである。監修の黒崎緑はいったいなにをしていたのであろうか(わかってカットしていたとしたのなら、それは自分の作った物語の本質を作り手自身が捉え損ねているということである)。

エピソードを省くのみならず、描かれた部分でもわかりにくいのも気になる。たとえば件の「怒りだもう怒りしかない」の台詞、原作知らないでちゃんと聞き取れた人がいるだろうか? 知っていても、えらい聞き取りにくくて、決め台詞、決めカットになり損ねている。ヴィクター小山は、『リーンの翼』のクライマックスでは王の嘆きを迫真の台詞回しで表現できていたし、言葉も聞き取れたのだから、ちゃんとやれば出来るはずなのだが(音響関係や演技指導のほうに問題があるのだろうか?)。

あと気になったのは月のシーンの音響処理。台詞はともかく(ヴィクター化人間同士核鉄パワーで会話が出来るとこじつけられそうなので――原作では、普通とは違う吹き出し枠を使っていた)、足音だとか槍が真空を切る音(?)といったほかの物音が聞こえてしまってはだめなのではあるまいか。どこまで「お約束」で処理し、どこまでリアル風で押さえるか、そのさじ加減は難しいものではあるのだが……。