第二十五話「舞浜の空は青いか」

クライマックス最終決戦で大盛り上がり、という算段だと思うのだが、どうにもさっぱり盛り上がらない。
だって本来、戦いの中心にあるはずの「正しき人類の未来」をめぐる議論を主人公サイドが放棄してしまっているのだから。
相手の話をただ頭ごなしに否定して、暴力で片をつけるのでは、頭の悪いチンピラといっしょである。敵をことさら悪く悪く描こうとするのも、これが熱血ロボットアクションだったならともかく、いちおうハードSF風のタームが乱舞する作品でそれをやってしまうのは非常にまずい。今までの設定の積み重ねが灰燼に帰してしまう。
というか、灰燼に帰してしまったんですね、今回ので。ただ敵をやっつければいい、ただ人間は人間なんだ、で話が済むなら、幻体と人間とは、とかサーバー世界と現実世界とは、というようなことをねちねち描いていく必要はまったくなかった。この作品のクライマックスとは本来、派手な戦いなどではなく、積み重ねられた事実から、キョウたちが結論を導き出し「選択」を行うその瞬間だったのではないか。ロボットバトルなどは「事後処理」に過ぎないのである。

SFとしての基本を、はずしている、ということはシズノ=イエルの正体をめぐる展開についても同様のことがいえる。彼女が物理現実の出自でないということは、結構前から暗示されていたことであるから、そのこと自体は問題ではないが、物理現実の出自でないから実体化できない、ということをあっさり提示されるのは問題だ。これは初期の「量子データはコピーできない」理論をろくに説明せずに前提化したくだりと似ていて、しかも一応現実のロジックとして存在している量子データの複製不可能性と異なり、こちらは番組オリジナルのロジックだから、より丁寧に理屈づけなければいけないはずなのである。
とくに、AI、幻体、ガルズオルム、人間と、それぞれに違う価値が与えられているこの作品においては、それは物語の根幹にかかわる命題なのだ。
人工幻体と幻体の関係は言ってみれば、虚構と現実の関係であり、両者の差異を示すことは、単に「メニミエルモノ」であるデジタル世界と、そうでない物理現実との違いを確認する作業でもある。それがつまりキョウたちの「選択」の根拠でもあり、さらには、ガルズオルムの複製体と、人の再現体との違いを示すものでもあったはずなのだ。

と、書いてきてふと思ったが、なるほどこれだと、明確にしてはまずいのかもしれない。だって、のっとられたAIがぼそぼそ言っていたとおりのことであるなら、ナーガのテクノロジーにおいては人と同様の存在にまで人工幻体の精度は上がっているという証拠、それがシズノなのである。つまり、ナーガの世界を否定することはシズノを否定することにつながってしまうのだ。
キョウに「そんなの関係ねえ。ガルズは敵で、シズノは仲間」で片付けてさせてしまうのは、そうやってごまかす以外どうしようもなかった、ということなのかもしれない。

まあ、わざわざ俎上に載せておいて、肝心なところをみなはぐらかしていくようでは、そもそもそんな話題をもってくるなよといいたくもなるけど。

理屈で引っ張っておいて、ノリで投げ出すパターンは、リョーコの感情復活もそうですね。感情パーツ(?)がロボに付属していたから、イレギュラーなやり方とはいえ、ロボごと舞浜に入ったことで、乖離が「なかったことになった」みたいな感じなのかなといまさらながら思うが、それにしては、ずいぶんと後のほうまで感情が戻っていないなとか、理屈は合いそうで合わない。合う理屈ががあるにしてもそれはきちんと作中で説明してこそのセンスオブワンダーであり、感動もあるのではなかろうか。
 いや、結局このスタッフがやりたいのはSFではなく熱血アニメ的なメロドラマだったのかなあ。

キョウが人が暮らせない環境になっているはずのデフテラ領域内で、マスクも何もしてないのはもう何もいうことがない。

次回はどちらかというとエピローグメインなんだろうけど、幾らかなりともSF方面にがんばってほしいところ。